Keep The Faith:3
第24話 ◆ 約束(2)

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 ポォーン、と場違いに明るい音が、エレベーターの到着を知らせた。松波は顔色を無くした日崎の肩を強く叩いた。
「そう心配するな、怪我は大したことないらしいから。とにかく、俺は事故現場に行くから、事務所の方頼んだぞ」
 言いながら、彼は訝しげに眉を顰めた。まじまじと日崎を見つめる。
「日崎、お前……?」
 閉まりかけたエレベーターの扉を手で押さえ、松波は大股に乗り込んだ。日崎の肩をぐいと引いて、強引に連れ込む。
「お前も来い。榊、留守頼むぞ」
 はい、という榊の緊張した声を合図に、エレベーターの扉は閉まった。



 さっき神代と抱き合ったばかりのエレベーターの中で、日崎は松波と並んでいた。気のせいか、空気が張り詰めている。無表情に正面を向いたままの松波から発せられる威圧感は、日崎にとって、神代が事故をおこしたという事実以上に重く感じられた。
「……お前だったんだな、神代の相手は」
 松波は日崎を見ずに、つぶやいた。感情を抑えた声だった。
(相手……? 何の)
 日崎は注意深く、松波の言葉を待った。手の平が汗で湿るのを感じた。松波から感じる威圧感の正体は、怒りだ。
「抱き合いでもしなきゃ、こんなに移り香が残るもんか」
 ハッとして、日崎は自分の体を見下ろした。
 神代が纏う香水の香りは、もう慣れてしまって、あまり気にならない。意識すれば、自分のシャツから、肌から、わずかに彼女の香りが立ち上る。日崎以上に神代とつきあってきた松波なら、すぐに気付くぐらいに。
 一階でエレベーターは止まった。松波は大股でビルの出入り口に向かった。日崎も無言で後に続き、タクシーに乗り込んだ。
 祝日の街は混んでいて、歩いている人みんなが笑顔に見えた。
(いつか、こんな光景を見たことがある)
 日崎は窓の外から目を逸らし、きつく瞼を閉じた。重なるのは、あの日の記憶だ。
 聞こえる鈴の音や、オルゴールの音色。喪服で乗り込んだ車の後部座席は、変にゆったりしていた。隣に座る母の膝には、風呂敷に包まれた白い壷が載っていた。線香の匂い。モノクロに彩られたクリスマス。浮かれた街の中、ただ頭上に広がった硬質な空だけが、現実的だった。
『おにいちゃん!』
 あの澄んだ声を失った日。

「……大丈夫か、真っ青だぞ」
 松波に言われて、弾かれるように顔を上げた。一瞬めまいがして、深く座席に背中を沈めた。
「神代は大丈夫だよ」
 日崎は小さく頷いて、ゆるゆると息を吐いた。松波は、そんな日崎をじっと観察していた。彼の言動から確信する。コイツは神代の妊娠を知らない、と。
「四年前」
 日崎はそう言うと、自分の両手に視線を落とし、静かに呼吸を繰り返した。タクシーの中の暖房が効きすぎているのか、背中に汗が滲むのがわかった。
「四年前の今日です。俺の妹が死んだのは」
「……そうだったな」
 日崎が毎年、クリスマスイブに休む理由を、松波は知っていた。妹の命日の翌日に、親しい人たちと集まって妹のことを思い出すのだと、去年聞いていたからだ。松波は、それを感傷だとは思わなかった。
「神代さんが無事だとわかっていても、嫌な気分だ」
 日崎の手は小刻みに震えていた。隠すように、強く腿に押しつける。
 道は混んでいて、思うように進まなかった。松波は険しい顔でただ目を伏せ、日崎は唇を噛んで何度も唾を飲みこんだ。それでも、喉がカラカラに乾いていた。

「日崎、単刀直入に訊くが、お前神代と寝ただろ」
 日崎は、答える義務はないと思ったが、松波の横顔を見て反発を抑えた。社長としてでなく、ただ神代のことを憂える一人の男としての発言だ。試されていると感じた。
 車内には奇妙な緊迫感が漂っていた。二人とも、運転手の存在など無視して、言葉の裏に、静かな敵意を隠していた。
「ええ、寝ました。
 ……俺は、神代さんが好きです。今後も側にいたいと思っていますし、そのつもりです」
 日崎の答えに迷いはなかった。松波は、ふ、と軽く息を吐いて、視線を窓の外へ向けた。大きな白い建物の一角が目に入った。その建物を過ぎて二つ目の小さな交差点が事故現場だった。あと少しで着く。
「さっきの電話で、怪我は大したことなさそうだと言われたのは本当だ。ただ、社内では言えなかったことがある。
 ――― 腹ン中にいる赤ん坊が無事かどうかは、まだわからない」
 日崎の目が大きく見開かれた。ドクン、と心臓が強く脈打つ。食い入るように松波を見た。松波は正面を向いたまま、静かな声で話を続けた。
「父親はたぶん、お前だ。
 だから神代は、社内の人間にバレないよう、こんなに急に在宅勤務にしてくれと言ったんだ。黙って産むつもりだったんだろうな。神代が病気なんて、嘘だよ。アイツは妊娠してるだけだ」

 そのあと、現場に着くまでの三分ほどの間、一切会話はなかった。
 松波は腕を組んで、勝手に過ぎていくだけで何の感慨もない風景を見ていた。日崎は背中を丸め、肩を落として、きつく両手の指を組んでいた。ぱたぱたと落ちる後悔の涙がその甲を濡らしたが、松波は気付かないふりをした。



 事故が起きてからそんなに時間が経ってないせいか、現場は人が集まっていた。神代が運転していた車は、路肩に寄せられていて、助手席側のドアがえぐれるようにへこんでいた。すぐ側に、フロントがめくれあがったRV車が止まっていた。側で呆然と立っている男は、事故の相手だろう。こちらは怪我もなさそうだ。
 信号のない交差点で、一時停止無視のRV車が飛び出し、神代の車の助手席側に衝突したようだった。神代本人は既に救急車で搬送された後だった。本人の意識はなかったが、脳震盪だろうと聞いて、とりあえず二人はホッとした。
 警官から神代が運び込まれた病院の名前を聞いて、松波が日崎に一万円札を手渡した。携帯電話を取り出しつつ、日崎に指示する。
「財布持ってないだろ。それでタクシー乗って、お前は病院に行け。
 この車、ウチの社のだからな。保険やら事後処理やら、時間がかかる。神代の容態わかったら、すぐ連絡しろよ」
「 ――― わかりました!」
 強く頷いて、日崎は駆け出した。病院はすぐ近くだった。タクシーを見つけるより、走ったほうが速い。靴音を響かせて去っていく日崎の背中を、眩しいものでも見るように、松波の視線が追った。
(もう俺じゃ駄目だろ、神代)
 神代が一番会いたい相手は、きっと ――― 。
 松波は保険会社の番号を呼び出し、携帯を耳にあてた。踵を返し、日崎に背中を向ける。まっすぐに迷い無く駆けて行く、その姿が少し羨ましかった。



 病院の正面玄関をくぐった日崎は、救急外来用待合室に通された。彼を案内した看護師は、はぁはぁと荒い呼吸を繰り返す日崎に笑いかけた。
「大丈夫ですよ。ご本人も今はしっかり話が出来る状態ですし、診察が終わったらすぐお呼びします」
「お願い、します」
 額から流れる汗を感じながら、日崎は病院特有の匂いに懐かしさすら感じていた。昔は、こうして何度も病院に駆けつけた。自転車に乗って、小さかった妹を心配して、息を切らせて。滲みそうな涙を我慢して、鈴子の前で泣かないように気をつけていたのだ。そんなことを思い出した。
 呼吸が落ち着くと、一般外来用ロビーのざわめきがかすかに伝わってきた。それに比べて、ここは静かだ。廊下の奥の仕切られたスペースに、ぽつんと一人、日崎だけが座っていた。目の前には両開きの扉。この中に神代がいる。

 観葉植物の隣に置かれた小さなTVから、控えめな音が流れていた。有名パティシエの予約限定クリスマスケーキの特集だった。女性アナウンサーが顔を輝かせて、繊細に飾り付けられたケーキを前に喋っていた。艶やかな漆黒のチョコレートケーキ。フルーツたっぷりのタルト。イチゴショート。
 日崎は見るとも無く、画面を見ていた。頭の中で、様々なことがぐるぐると回って、一時的に思考が停止していた。
 何も始まらない。整理できない。神代に会うまでは


04.07.04

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