Keep The Faith:3
第23話 ◆ 約束(1)

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 口で何を言ったって、触れてしまえば終わりね。
 
 もう何にも隔てられずに、ただぴたりとくっついて目を閉じる。
 ずっと好きでいて。
 ずっとそばにいて。
 言葉で、吐息で、指先で、体温で、涙で、笑顔で ――― 私全部で、あなたに気持ちを伝えるわ。



 キスを止めることを、躊躇った。
 日崎は唇を離し、また触れたくなって、わずかに瞼を持ち上げ、神代の様子を窺った。同じようにこちらを見ている彼女と目が合って、おかしくなった。彼女の吐息が唇を撫でる。日崎はさっきより強く唇を押し当てた。神代は全く抵抗しない。
 これ以上激しくすると歯止めがきかなくなりそうで、日崎はついばむようなキスを止めて、至近距離で神代と見つめ合った。手をエレベーターのボタンから外して、神代の項に回した。引き寄せて額に唇を落とす。神代の体は、素直に日崎の腕の中におさまった。
 ぎゅっと抱きしめたかったけれど、コートと荷物が邪魔をした。
「……日崎」
 キスの余韻を残した、しっとりした声で名前を呼ばれて、日崎は目を伏せた。もう一度口付けようと顔を近づけたとき、冷たい風が肌を撫でた。エレベーターの扉が開いて、寒々しい地下駐車場をバックに、制服姿のOLが一人、目を丸くしていた。神代は扉に背中を向けていたので、日崎は神代の頭越しにまともにその女と目が会った。
 腕の中で神代が体を硬くしたのがわかった。開いた扉の向こうにいる女も、気まずそうに、顔を赤くして突っ立っていた。
 日崎は神代を抱きしめたまま、エレベーターの外に立つ女に向かって、柔らかく微笑んだ。
「失礼」
 いつもの低い落ち着いた声でそう言うと、彼は女の視界から上手に神代の顔を隠し、エレベーターを降りた。呆然としている女は放っておいて、神代の肩を左腕で抱き、すぐそこにある非常階段へ続く扉を開けた。
 金属製の扉は、冬の外気以上に冷たく、触れた瞬間、日崎の熱くなった気持ちにブレーキをかけた。
 蛍光灯に照らされた非常階段は、無機質で寂しくて、まず人は来ない。日崎の白い息が灰色の空間で目立った。神代は再び日崎の胸に顔を埋めていた。褐色の髪を、日崎の手が撫でる。
「今の、誰?」
 神代が小さい声でつぶやいた。下のフロアで働いてる人みたいですね、と日崎。
 凭れたコンクリートの冷たさが、じわりと背中に伝わる。神代は寒くないだろうか。両腕で抱きしめたいのに、右手にある荷物が阻む。邪魔な物を全部床に置きたいけれど、その為に姿勢を崩すと、神代がまた他人の表情に戻るような気がして、じっと左腕だけで抱きしめた。
 二人とも、これが夢ではないと確かめるように、じっとしていた。

「……松波さんの顔を見て、人恋しくなったんですか?」
 日崎の問いかけに、神代は短く「違う」と答えた。
「体調崩して、心細くなった? 誰かに甘えたくなったんでしょう」
「違う!」
 焦れて強く頭を振った神代は、腕を日崎の背中に回して、ぎゅっと力を込めた。日崎の首筋に、神代の頬が触れた。どきどきと、お互いの鼓動が伝わりそうだった。
「……自惚れてもいいんですか?」
 耳元で情熱に掠れた声で囁かれ、日崎の手が腰を引き寄せる。神代はハッとして体を引いた。反射的に腕を伸ばして、日崎の胸を押し返した。あまり強く抱かれると、お腹のわずかな膨らみに気付かれるかもしれない。
「 ――― 落ち着いて、話がしたいの」
 驚いている日崎の顔を見るのが嫌で、神代は俯いた。離れた途端に、足元から寒気が這い上がってきて、持っていたコートを羽織る。日崎の手が襟を直してくれた。
「日崎、今日の夜は暇?」
「今日は用事があるんです。15時に帰りますし。明日は?」
「明日って……イヴよ?」
「わかってます。俺と過ごすのは嫌ですか?」
 口調こそ下手に出ているが、日崎の表情は確信に満ちて嬉しそうだった。
(……なんか余裕たっぷりだなぁ)
 神代は、目を細めると、日崎のネクタイをぐっと引っ張った。同じ目線までおりてきた彼の下唇を、ぺろりと舐める。こくりと日崎の喉が鳴った。
「じゃあ、明日仕事終わったらウチに来て」
「いえ、俺、明日は休みですから。神代さんの都合のいい時間に伺います」
 19時と時間を決めて、神代は日崎の腕から荷物を受け取った。腕時計に目を落として、慌てた。
「わっ、こんなに時間経ってる! 日崎も早く戻って」
「了解です」
 日崎が駐車場への扉を開け、神代を促すと、不意に彼女の指が伸びて、日崎の唇を撫でた。
「口紅」
 人差し指で拭われる、その仕種は誘っているとしか思えない。日崎は神代の指をぱくりと咥えると、そのまま膝を屈めて、軽く唇にキスをした。神代のくすぐったそうな笑顔が受け止めた。



 日崎はオフィスに戻ると、何事もなかったかのように仕事を再開した。あらかじめ今日の早退と明日の休みは決めていたので、月末の仕事は前倒しで処理していた。この調子なら、なんとか予定通りに帰れそうだ。
 作りかけの予算書類を開く前に、メールが届いた。それを開いて、日崎は脱力した。
「……榊さん……」

 ――― どこまで神代女史を送ってったんだよ。さぼり魔!
 
 バイト用に並んだデスクの端を陣取っている榊とは、5メートルほどしか離れていない。わざわざ社内メールで送ってくる内容なのか、これが。日崎が呆れて目を向けると、こちらを窺っていた榊がニヤリと笑って手招きした。
(……仕事しろよ)
 無視してキーボードを叩いていると、ほどなく榊の方から近づいてきた。
「女史には甘いくせに、俺にはずいぶん冷たいじゃねーか、カズ」
「すいません、忙しいので。俺、今日は15時退社なんです」
 話しながらも、カタカタとキーボードを叩く音は止まらない。いつものことながら、活気を失わないオフィスは適度なざわめきに包まれていて、二人の小声の会話など誰も気に止めていなかった。
「お前、明日休暇だろ? クリスマス前だからって、みんな浮かれすぎ。明日はバイトに来るヤツも激減と見た」
「そうでしょうね。榊さんも、さっさと熊谷さん誘ったらどうです」
 日崎の思わぬ攻撃に、榊の口が止まった。日崎は液晶画面に浮かぶ数字を、次々と目で追っていたが、隣から伸びてきた手が画面を隠した。
「……邪魔しないで貰いたいんですが」
「いや、ちょーっと引継ぎでわからないとこがあってさー。それを教えるのは、前任者の義務だろ?」
 嘘をつけ、月内の仕事をさっさと片付けて、暇を持て余しているくせに。睨む日崎に、榊が耳元でひそっと囁いた。
「後で手伝ってやるから、ちょっと顔かせ」
 先程までと打って変わった、真剣な口調だったので、日崎はノートパソコンを閉じて席を立った。松波の厳しい視線がこちらを向いていた。午後からまともに席についていない日崎は、内心まずいと思いつつも、榊と二人でオフィスの外に出た。
 フロアの隅にある喫煙所へと足を向けつつ、榊はくしゃくしゃに潰れたピースの箱を取り出した。
「お前、ありゃないだろ。みんながいる仕事中にプライベートな話題出すんじゃねぇよ」
「誰も聞いてませんよ。それに、今日は熊谷さんも居ないじゃないですか」
「居ますよ?」
 急に熊谷の声がして、二人とも驚いて声がした方へ視線を向けた。死角になっていた階段手前の自動販売機前に立っていた熊谷が、ちょこんと首を傾げていた。
「……くま、なんで居ンの? 祝日だぞ、今日」
「年末進行は、経理だって忙しいんですぅ。午後から出勤したんですよ。それより、何二人してさぼってるんですか、神代さんに怒られますよ」
 熊谷にぴしりと窘められ、榊は珍しく言葉を濁した。
「いや、ちょっとプライベートな話をね……女史も外出中だし」
「松波さんには睨まれましたけどね」
 榊は恨みがましく日崎を見た。しかし、喫煙所に行こうとはしない。
(熊谷さんと話したいから、か。この人も、意外にハッキリしない男だ)
 いつの間にか、榊は熊谷のことを「くま」とか「熊ちゃん」と呼んでいる。何かというとからかっているし、全く中学生並のアプローチだ。三十路手前の男が何をうじうじしているのか。
「……話って何です。手短にお願いしたいんですが」
 日崎の溜息まじりの声に、榊は手の中の煙草を弄んだ。明らかに困っている。ちらりと熊谷の存在を気にしたが、諦めたように口を開いた。
「いや、日崎が女史を甘やかしすぎてるように見えるからさ、そんなに病気ひどいのか、と思って。そもそも、どこが悪いか聞いてないから ――― まあ、余計に気になるだろ。俺だってずっと一緒に働いてきたし、なんというか……」
 心配なんだよ、と小さな声で榊は言った。スキンヘッドの頭を、右手で意味も無く撫でている。たぶん照れているのだろう。日崎は表情を柔らかくした。
「俺が見てる限りは、ちょっと疲れやすいだけですよ。別に甘やかしてるわけじゃありません ――― 好きな女に優しくするのは、男として普通のことだと思います」
 好きな女。
 あまりにもあっさり日崎が言ってのけたので、榊は反応が遅れた。熊谷がわあ、と目を輝かせて、日崎の顔を見上げた。
「え、おつきあいしてるんですか?」
「まさか。俺の片思いですよ」
 明日の夜までは、と心の中で付け足して、日崎は気を利かせて立ち去ろうとした。その腕を、熊谷が止めた。
「待って。あの……日崎さん、本当に神代さんの病気が何か、知らないんですか? 気付いてないんですか?」
 熊谷は、何かを必死に訴えるように、日崎の腕に掛けた手に力を込めた。
「何か、知ってるんですか」
 榊と日崎、二人の目が熊谷に集中した。熊谷の目が泳いだ。言っていいものかどうか迷って、視線を足元に落とす。
「熊谷さん、知っているのなら」
 日崎が努めて静かな口調で促したとき、『K‘s DESIGN』オフィスの入り口が荒々しく開いた。ざわめきが通路まで零れている。ただ事ではない雰囲気に、三人は息を詰めて振り返った。
「何かあったら携帯に電話しろ!」
 松波がシャツ姿のまま、上着もコートも乱暴に掴み、よく通る声で言い放って、慌しくエレベーターに向かった。その背中を日崎の声が追う。
「松波さん!」
 松波は足を止め、厳しい表情で二人を見た。眉間に深い皺を寄せ、硬い声で事実を告げた。

「警察から連絡があった……神代が事故ったそうだ」
 その場にいた全員が、声を失った。


04.06.30

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