Keep The Faith:3
第22話 ◆ Love again(5)

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 病院の裏庭に面した廊下の角に、自販機と休憩所があった。神代と紗恵は、ひとまず熱いほうじ茶を啜って、ほうっと安堵の息をついた。
「今、四ヶ月?」
「うん。ウエストぴったりの服は、もう合わなくなりましたよ」
 紗恵の手が神代のお腹を撫でた。もう膨らんでるってわかるね、と興味深そうに頷いていた紗恵の目が、好奇心に輝いた。
「ねえ、この子のパパって、どんな人?」
 やはりそう来たか。神代は苦笑を浮かべたが、不思議と隠す気は起きなかった。
「年下の、すごく優しい男ですよ。今も一緒に働いてます。結構あからさまに振ったのに、めげないというか、献身的というか」
「尽くすタイプなのね」
 尽くすと言えば、確かにそうだ。どんなワガママでも聞いてくれそう。神代は用意周到な日崎の行動を思い出して、ふふ、と笑った。
「……不思議な人なんですよね。私が冷たくしても、八つ当たりしても、逆に甘えても、いっつも同じように受け止めてくれて。なんだか、海みたいです。海っていうか、水、かな」
 澄み切って、純粋で、どんなにこちらが尖っていても、柔らかく包み込まれて……いつの間にか、身を委ねてしまう。
「あなたも、彼のこと好きなのね。なのに、どうして離れようとしてるの?」
 神代はしばらく窓の外を眺めて、考え込んでいた。紗恵は黙ってお茶を飲み、神代が自分の気持ちを整理しているその間、邪魔をしなかった。

「誰かを傷つけた罪は、いつか自分に返ってくると思うんです」
 神代は、ぽつりとそうつぶやいた。
「私は、昔、斎藤さんの家族をめちゃくちゃにした。そして、今度は紗恵さんにまで……ひどいことを、しました。こんな私が、誰かに愛されて幸せになるなんて、無理です。
 彼のことも傷つけた。今更、好きだって思っても ――― もう手遅れなんです」
 ひっそり笑った神代の肩から、褐色の髪が滑り落ちた。いつの間にか、こんなに長く伸びてしまった。
 紗恵は厳しい顔で、神代の手を取った。重なった指から愛情が伝わる。

「誰かを泣かした分だけ、いつか自分が泣くの? 
 因果応報なんて、言葉ばかりよ。悲しみは巡ってこないわ。そんなこと言ってたら、罪を犯した人には、必ず天罰が下らないとおかしいじゃないの」
 幼子に言い聞かせるように、紗恵は言葉を紡いだ。きつく手を握られて、神代はわずかに体を引いたが、紗恵は許さなかった。神代の心に踏み込むように、きつい眼差しで神代の目を見据えた。
「罪悪感がそう思わせるだけよ。
 相手を傷つけたと言っても、あなたはそれ以上に傷ついてきたじゃないの。涙が枯れるくらい泣いてたの、ちゃんと私は覚えてる。傷ついて、それを乗り越えていく度に、人は強かに、綺麗になっていくのよ。情も深くなる。
 後悔を自分で受け止める潔さは、美徳だと思うわ。でも、自分の将来をさっさと諦めるのは止めなさい。
 ――― 大丈夫よ、あなたは絶対幸せになれる。私の自慢の娘ですもの」
「……もう一回」
 神代の掠れた声に、紗恵はようやく表情を和らげた。
「絶対、幸せになれるわ」
 紗恵は立ち上がって、神代をぎゅっと抱きしめた。神代の目から溢れた涙が、紗恵の服に吸い込まれていく。
 あっけなく、温かく、紗恵は神代の怯えて凝り固まった心をほぐした。化粧が崩れるのも構わず、神代は両腕を紗恵の腰に回し、ぎゅっと抱きついて、その温かさにそっと目を閉じた。意地も見栄も先入観も……気持ちを隠していたものが溶けていく。

 何もかも全て、無駄なことはひとつもない。苦しかった初恋も、まだ生々しい傷を開いたままの別れも、日崎への感謝も、恋心も……全て糧にして、そうして生きていける。
 ――― 生きて、こんな風に温かな愛情で、これから生まれてくる子供を包み込んであげたい。
(……もっと優しく、なれるかな。日崎は私を許してくれる?)
「遅すぎることなんてない。ちゃんと、気持ちを伝えてらっしゃい。
 それで、もし彼がひどいことを言ったら、私に告げ口すればいいわ。ウチの社に勤めてる人なんでしょう? 松波と二人で、懲らしめてあげるから。ほら、泣かないの」

 ――― ほら、泣かないで。綾はえらいね。
 神代の記憶の底から、古い思い出が浮かんできた。
(……お母さんだ)
 しがみつくと、あたたかくて、いい匂いがした。耳元で囁かれるたび、悲しみも怖さもどこかへ去っていく魔法の呪文を唱えてくれた。『大丈夫よ、お母さんがいるからね』と。
 父の後ろで、いつも控えめに微笑んでいた ――― あの人はどんな気持ちで、自分と別れたのだろう。この家を出なさいと、どんな気持ちで言ったのだろう。確かに愛されていた。それが今ならわかる。
 
「また、会いに来ます」
 夕暮れの空を仰いで、神代は紗恵に大きく手を振った。目は赤くなっていたけれど、シャキッと背筋を伸ばして去っていく彼女の顔には、清々しい笑みが浮かんでいた。



 自分がこんなに小心者だとは思わなかった。

 12月23日。
 神代は熊谷と一緒にお昼を食べた帰りに、思わず深く溜息をついた。
「神代さん、元気ないですよー。大丈夫ですか?」
 熊谷に気遣われて、慌てて、何でもないと笑って見せた。
 日崎に自分の気持ちを伝える決心をしたのはいいが、なかなか言い出せなくて、紗恵と会ってから、既に四日が経っていた。
 妊娠していることも、早く告げなければ。こうして会社で会えるのも、あと三日しかない。仕事納めの金曜日は、みんなで大掃除をする予定だった。神代は荷物をまとめ、夜は送別会を兼ねた打ち上げになだれこむ。それでおしまいだった。年が明ければ出社しないので、日崎に会う機会は月に一度もないだろう。
 今日も、知らないうちに日崎の姿を捜していた。今までは誰より先に松波に視線が吸い寄せられたのに、今は違う。五感が日崎に過剰反応を示す。
 年末の忙しさも重なって、彼と落ち着いて話をするのは難しかった。時間は取れても、周囲に人がいて話せる内容ではない。『晩御飯、一緒にどう?』と誘うだけでいいのに、それが言えなかった。こうなると、仕事以外で関わらないと決めている日崎のけじめある態度すら焦れったくなる。そう仕向けたのは、他でもない神代自身なのだが。

「神代さん、電話」
 オフィスに戻るなり呼ばれて、神代は受話器を取った。
「……ああ、木村さん。どうなさったんですか? ……それは困りましたね。ええ、わかりました、すぐ伺います」
 電話を置くと、同じく食事から帰ってきたばかりの日崎が、すぐ後ろに立っていた。マフラーを外す仕草まで様になっている。
「出るんですか?」
「うん、昔からのお得意様なの。本当は電話で済む話なんだけど、年配の方だし、最後に会っておきたいし、行ってくる」
 バッグを肩に掛けた神代の肩に、軽く日崎の手が触れた。ひそっと耳元で囁かれる。
「……一人で平気ですか」
「あのねぇ、はじめてのおつかいじゃないの。すぐ近くだから、大丈夫! それに、君は仕事山積みでしょう。一時間くらいで戻るわ」
 神代が営業車の鍵を取ってくる間に、日崎が神代愛用のノートパソコンを手にしていた。
「下まで行きます」
 神代の肩に掛かっていたバッグまで、有無を言わさず日崎が持って、神代はコートだけを腕に掛け、エレベーターを待った。昼休みが終わる時間なので、人が多く移動している。エレベーターはなかなか来なかった。
 神代はふと気付く。近くに人はいない、二人だけ。
(チャンスだ、話さなきゃ)
 神代が深呼吸をしたとき、目の前で扉が開いた。外から帰ってきた松波と、しっかり目が合った。よくあることなのに、神代はどきりとした。松波はすっとエレベーターを降りて、「運転気をつけろよ」と、はにかんだ。はい、と控えめに頷いた神代の隣で、日崎は無表情のまま、エレベーター上のランプを見ていた。上っていくオレンジ色の数字を。

 その後、エレベーターが下りてくるまでは、ほんの少しの時間だったのだけれど、二人の間を気まずい空気が流れた。神代は気合がしぼんで、話せなくなってしまった。なんてタイミングの悪さだろう。
 二人は無言でエレベーターに乗り込んだ。先客はいない。
 神代は、隣に立つ日崎を見上げた。クールな横顔が、視線に気付いて角度を変えた。
(……日崎は、今、私のことをどう思っているんだろう)
 どう切り出していいか迷って、神代はじっと日崎を見つめた。焦るだけで言葉が出てこない。日崎も、神代を見つめ返す。何か言いたそうな、神代の揺れる瞳を。
 軽い浮遊感を残して、エレベーターは地下1階に止まった。おもむろに開いた扉が、すぐに閉じた。日崎の手が、『閉』のボタンを押していた。止まったままの箱の中で、言葉も無く見つめ合う二人は、どちらからともなく顔を近づけた。

 日崎は、どうして神代は避けないのだろう、と思った。抱きしめているわけでもないのに。日崎の右手はエレベーターのボタンを押したままだったし、左手は神代の荷物を持ったまま。
 神代は、日崎が軽く体を倒して目線を同じにしたときから、吸い込まれるように目が離せなかった。次第に距離を狭めることは不思議ではなく、ただ、半ば伏せられた日崎の睫が長いなぁ、とぼんやり思った。目を閉じようして、やめた。彼の目の奥でゆらめいた衝動に引き寄せられる。同じ気持ちだった。
 どうしてこんなことになっているのか。
 二人とも、どうして、と思いながら、ゆっくりと唇を合わせた。触れて、軽く押しつけるだけの、優しいキス。それだけで疑問は氷解する。

 心に広がる感情が何か、もう間違えることはなかった。


(Love again/END)
04.06.24

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