病院の裏庭に面した廊下の角に、自販機と休憩所があった。神代と紗恵は、ひとまず熱いほうじ茶を啜って、ほうっと安堵の息をついた。
「今、四ヶ月?」
「うん。ウエストぴったりの服は、もう合わなくなりましたよ」
紗恵の手が神代のお腹を撫でた。もう膨らんでるってわかるね、と興味深そうに頷いていた紗恵の目が、好奇心に輝いた。
「ねえ、この子のパパって、どんな人?」
やはりそう来たか。神代は苦笑を浮かべたが、不思議と隠す気は起きなかった。
「年下の、すごく優しい男ですよ。今も一緒に働いてます。結構あからさまに振ったのに、めげないというか、献身的というか」
「尽くすタイプなのね」
尽くすと言えば、確かにそうだ。どんなワガママでも聞いてくれそう。神代は用意周到な日崎の行動を思い出して、ふふ、と笑った。
「……不思議な人なんですよね。私が冷たくしても、八つ当たりしても、逆に甘えても、いっつも同じように受け止めてくれて。なんだか、海みたいです。海っていうか、水、かな」
澄み切って、純粋で、どんなにこちらが尖っていても、柔らかく包み込まれて……いつの間にか、身を委ねてしまう。
「あなたも、彼のこと好きなのね。なのに、どうして離れようとしてるの?」
神代はしばらく窓の外を眺めて、考え込んでいた。紗恵は黙ってお茶を飲み、神代が自分の気持ちを整理しているその間、邪魔をしなかった。
「誰かを傷つけた罪は、いつか自分に返ってくると思うんです」
神代は、ぽつりとそうつぶやいた。
「私は、昔、斎藤さんの家族をめちゃくちゃにした。そして、今度は紗恵さんにまで……ひどいことを、しました。こんな私が、誰かに愛されて幸せになるなんて、無理です。
彼のことも傷つけた。今更、好きだって思っても ――― もう手遅れなんです」
ひっそり笑った神代の肩から、褐色の髪が滑り落ちた。いつの間にか、こんなに長く伸びてしまった。
紗恵は厳しい顔で、神代の手を取った。重なった指から愛情が伝わる。
「誰かを泣かした分だけ、いつか自分が泣くの?
因果応報なんて、言葉ばかりよ。悲しみは巡ってこないわ。そんなこと言ってたら、罪を犯した人には、必ず天罰が下らないとおかしいじゃないの」
幼子に言い聞かせるように、紗恵は言葉を紡いだ。きつく手を握られて、神代はわずかに体を引いたが、紗恵は許さなかった。神代の心に踏み込むように、きつい眼差しで神代の目を見据えた。
「罪悪感がそう思わせるだけよ。
相手を傷つけたと言っても、あなたはそれ以上に傷ついてきたじゃないの。涙が枯れるくらい泣いてたの、ちゃんと私は覚えてる。傷ついて、それを乗り越えていく度に、人は強かに、綺麗になっていくのよ。情も深くなる。
後悔を自分で受け止める潔さは、美徳だと思うわ。でも、自分の将来をさっさと諦めるのは止めなさい。
――― 大丈夫よ、あなたは絶対幸せになれる。私の自慢の娘ですもの」
「……もう一回」
神代の掠れた声に、紗恵はようやく表情を和らげた。
「絶対、幸せになれるわ」
紗恵は立ち上がって、神代をぎゅっと抱きしめた。神代の目から溢れた涙が、紗恵の服に吸い込まれていく。
あっけなく、温かく、紗恵は神代の怯えて凝り固まった心をほぐした。化粧が崩れるのも構わず、神代は両腕を紗恵の腰に回し、ぎゅっと抱きついて、その温かさにそっと目を閉じた。意地も見栄も先入観も……気持ちを隠していたものが溶けていく。
何もかも全て、無駄なことはひとつもない。苦しかった初恋も、まだ生々しい傷を開いたままの別れも、日崎への感謝も、恋心も……全て糧にして、そうして生きていける。
――― 生きて、こんな風に温かな愛情で、これから生まれてくる子供を包み込んであげたい。
(……もっと優しく、なれるかな。日崎は私を許してくれる?)
「遅すぎることなんてない。ちゃんと、気持ちを伝えてらっしゃい。
それで、もし彼がひどいことを言ったら、私に告げ口すればいいわ。ウチの社に勤めてる人なんでしょう? 松波と二人で、懲らしめてあげるから。ほら、泣かないの」
――― ほら、泣かないで。綾はえらいね。
神代の記憶の底から、古い思い出が浮かんできた。
(……お母さんだ)
しがみつくと、あたたかくて、いい匂いがした。耳元で囁かれるたび、悲しみも怖さもどこかへ去っていく魔法の呪文を唱えてくれた。『大丈夫よ、お母さんがいるからね』と。
父の後ろで、いつも控えめに微笑んでいた ――― あの人はどんな気持ちで、自分と別れたのだろう。この家を出なさいと、どんな気持ちで言ったのだろう。確かに愛されていた。それが今ならわかる。
「また、会いに来ます」
夕暮れの空を仰いで、神代は紗恵に大きく手を振った。目は赤くなっていたけれど、シャキッと背筋を伸ばして去っていく彼女の顔には、清々しい笑みが浮かんでいた。