Keep The Faith:3
第21話 ◆ Love again(4)

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 日向の言葉は、神代の心を一気に冷やした。
「何言ってるの」
『どうして素直に認めないの。いいじゃない、彼は綾のこと好きなんでしょう? 両想いよ』
「違うってば!」
 神代の厳しい声に、日向が息を呑んだのがわかった。神代は体を起こし、乱暴に涙を拭うと、乱れた髪を掻きあげた。自分を落ち着けるように目を閉じ、深く息を吐いた。
『 ――― どうして、そこまで否定するのよ……?』
「現状で満足なの。ここで日崎に頼りたくない」
『今更? アンタね……本当は、わかってるんでしょう。自覚してるんでしょう?』
「そうね、今更よ。今更、好きになってどうするのよ。私は何度も日崎を傷つけた。松波さんも傷つけた」
 それだけではない。紗恵のことも、斎藤のことも。そして自分の両親も。
「……駄目よ」
 松波への気持ちはどうなる。あれほど……苦しいぐらいに、好きで好きでたまらなかったのに、こんなに簡単に他の誰かを愛せるものなのか。松波を裏切ったことにならないか。また誰かを傷つけることにならないだろうか。
(私は ――― たくさんの人を傷つけて、巻き込んで、ここまで来た。今更愛する人を得て幸せになるなんて、許されるわけない)
 神代の中に知らぬうちに積み重なった罪悪感は、明確な形になっていた。
『何が駄目なの、いつまで殻に閉じこもってるつもり? そんなの、贖罪でも何でもないわ。誰もあなたを責めてないのに』
 神代は何も答えられなかった。松波紗恵の静かな声が、脳裏に蘇る。

 ――― 私がいなかったら、松波と綾ちゃんは幸せになれるのかしら。

(紗恵さんじゃない。消えなければいけないのは……私なんだ)
 神代はうなだれて、携帯電話の電源を切った。

 日崎があんまり優しいから、甘い夢を見た。彼をも騙しているというのに、何を浮かれていたのだろう。何を当然のように頼りきっていたのだろう。嘘ばかりのくせに。
 なぜこんなに涙が出るのだろう。
 神代は両手で顔を覆うと、ほんの少しだけ泣いた。隣の部屋の日崎に気付かれないように、声を殺して、泣いた。



 検診に訪れた病院で、神代は帰り際、新生児室を覗いた。産まれたばかりの赤ちゃんが三人、小さな体をガーゼタオルに埋めるようにして、ちょこちょこと手足を動かしていた。みんな眠っている。見ているだけで、ふわりと心が温かくなった。
(ちっちゃーい……。可愛いな)
 夏には、こんな愛らしい存在を自分の腕に抱けるのだ。まだ母親になるという実感はなかったが、下腹部は確かに丸みを帯びて、膨らんでいる。神代は左手で自分のお腹に触れてみた。それだけで優しい気持ちになれるのが、なんだか不思議な気がした。

 出張に行ってから、三日経っていた。
 金曜日のこの日、神代は休暇を取っていた。午前中に検診を済ませ、駅へと向かう。踵の低いブーツで、みぞれ状になった雪を踏んで歩く。転ばないように注意して。
 これから特急で一時間。今日、松波紗恵に会いに行くことを、神代は誰にも言わなかった。
 紗恵とは、九月に電話で話してから、何の連絡も取っていなかった。あんな会話の後だ。平然と会えるわけもない。神代が松波にも内緒で紗恵に会いに行こうと決意したのは、これ以上自分の罪から逃げてはいけないと思ったからだ。
(傷つけた事実は消えないけど……そこから目を背けたら、いつまで経っても私はこのままだ。責められて絶縁されるなら、それも自業自得だもの)
 一人で電車の座席に座り、神代は窓の外を流れる冬の木立を見送った。



 松波紗恵は、神代が思っていたより、ずっと元気そうだった。突然訪ねてきた神代に驚いていたけれど、邪険に追い返すこともなく、病院の屋上にある庭園へと神代を誘った。柔らかい冬の日差しを浴びてベンチに腰掛けると、時間に追われている日常の慌しさが、嘘のようだった。
「久しぶりねぇ」
 懐かしそうに喋る紗恵の態度も、神代には信じられなかった。以前と何も変わらない親しさがそこにあった。
「なんで、私にそんな風に笑えるんですか?」
「……綾ちゃん、顔色悪いわ。大丈夫?」
「私、謝ろうと思って会いに来たの。事前に連絡したら、来ないでって言われると思ったから、電話もしなかった」
 喋りながら、神代は自分の本心に気付いた。嘘だ。そんなのは口実だ。紗恵は何もかも許してくれると、どこかで思っていた。本当は、会いたかったのだ。紗恵の声が聞きたかった。
 不安だった。怖かった。自分の体が変わっていくことも、出産も。自分みたいな女が母親で、これから産まれてくる赤ちゃんは不幸にならないだろうか。日向にも話せずに、押しこめていた感情は、紗恵の笑顔を見た安堵感をきっかけに、涙になって零れた。

「ごめんなさい」
 神代は膝に額がつくほど、深く深く頭を下げた。
「紗恵さん、ごめんなさい。松波さんを好きになって、ごめんなさい。ずっと黙っていて、あんな風に、紗恵さんを苦しめて……ごめんなさい……っ」
 紗恵は、項垂れた神代を見て、幾度か表情を変えた。苦しそうに眉を寄せ、哀れむように目を細め、最後は慈しむような微笑みを浮かべた。
 ゆっくりと顔を上げた神代の前に、春の太陽みたいに穏やかな紗恵の笑顔があった。紗恵は手を伸ばして、くしゃっと神代の髪を撫でた。子供にするように、両手で耳を塞ぎ、自分の方へと引き寄せる。柔らかくその胸に抱きしめられて、神代は目を見開いた。

「私、知ってたの。
 最初から知ってたのよ ――― 松波と綾ちゃんが、好き同士になっちゃったの」
 にこっと笑った紗恵の顔を、神代はぽかんとして見上げた。その目から、またぱたぱたと涙の粒が落ちていった。
 紗恵は神代にハンカチを渡して、真顔になった。
「私が倒れて少し経った頃かな、あの人が綾ちゃんを女として見始めたの。これは恋になるだろうな、って、すぐ思った。その通りになったけど、どうしようもなかった。仕方ないでしょう、私は側にいられないし、浮気しようが松波は松波よ。それに、浮気と呼べるほど軽い気持ちでもなさそうだった。
 ……二人とも好きなままでいようとした、そんな甘いところも好きなのよ。綾ちゃんのことも憎めなかったしね。毎年盆と正月を三人で過ごすの、すごく楽しかった」
「嫉妬、は」
「そりゃしたわよ、松波にもあなたにも。
 あの人、可愛い娘だったあなたを、独り占めしちゃったのよ。おまけに、結局綾ちゃんを追い詰めてしまった。あのキスマーク見たら、あなたがどんな気持ちだったか、わかっちゃった」
 顔を歪めた神代の背中を、紗恵の小さな手が撫でた。薄い手の平だった。
「 ――― だから、電話したの。私がいなくなって、それで二人が幸せになるのなら、離婚しようと思って。
 でも、綾ちゃんは松波と別れることを選んだでしょう。松波も、私と別れる覚悟はなかったと思う。だから、今の状態でいいのよ。綺麗事にしてしまいましょう。
 これからも、私の娘でいてよ。ね?」
 もう一度紗恵が笑ったので、笑ってくれたので、神代は顔をぐしゃぐしゃにして泣きそうになった。
「ストップ! こんなとこで大泣きしないで。それに、妊婦さんが体冷やしちゃダメ。陰ってきたし、中に戻りましょう。熱いお茶飲んで、それからまた話しましょう」
 落ち着いた物腰で立ち上がった紗恵の横顔を、年甲斐もなく涙を堪えながら、神代は見上げていた。
(そうだ、こういう人だった……)
 あの松波が心底惚れた相手なのだ。手強くて当たり前。想像の範疇の反応など、返ってくるはずもなかった。神代はハンカチに涙を吸い取らせると、すっくと立ち上がって、ゆったりと前を歩く彼女の背中を追いかけた。


04.06.24

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