Keep The Faith:3
第25話 ◆ 約束(3)

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 どれくらい時間が経っただろう。
「神代様の付き添いの方、どうぞー」
 さっきとは別の看護師が、診察室のドアを開けて声を掛けてきた。日崎は、長い緊張状態に強張った足をゆっくり伸ばして、診察室に入った。

 ベッドの上に身を起こした神代は、日崎を見て少し驚いていた。松波が来ていると思っていたのだろう。彼女はキャミソールの上にバスタオルを羽織っていた。スカートから覗く膝に、内出血が見えた。右肩から肘にかけて巻かれた、真っ白な包帯が痛々しかった。首にも擦れた傷跡が見える。
「右肩と、右上腕に打撲。骨には異常ありませんが、頭も打っていますし、今日は入院して一晩様子を見ましょう」
 医師は、レントゲン写真を見せながら、テキパキと説明した。
「あ、の」
 神代が上擦った声で医師の話を遮った。目線で、医師に向かって日崎を示した。
「後の話は、私一人で」
 日崎はベッドの側、神代から背中を向けられた状態で立っていた。神代が全部言い終わらないうちに、手を伸ばして彼女の左肩に触れた。バスタオルから覗く剥き出しの肌に触れて、かすかに力を込めた。神代が口を閉じる。
 日崎はそのまま、まっすぐ医師の目を見た。
「子供は大丈夫でしたか」
「……ええ、問題ありません。シートベルトをしていたのが幸いしましたね」
 にっこりと笑いかけられ、日崎も微笑み返した。
 神代は、ほっと息をつきながらも、日崎の顔が見られなかった。どうして知っているのか、いつ気付いたのか。そんな風に簡単に口にされると、切り出せなくなる。
「病室の用意が出来たらお呼びしますので、しばらくここで待っていて下さい」
 神代は仕切りの向こうに消えていく医師と看護師に、縋る視線を向けたが伝わるはずもなかった。今二人にされては困るのに。心の整理も、気持ちの準備も出来ていない。
 肩に触れたままの日崎の手のひらは、しっとりと湿っていて、熱かった。



 何から話せばいいのかわからなかった。
 俯いて考え込む神代の背中が、ふわりと温かくなった。キシ、とかすかにベッドが沈む。隣に腰を下ろした日崎の手が優しく神代の肩を引き寄せ、背中からゆったり抱きしめた。神代は彼に凭れる形になり、耳元で、深い安堵の溜息を聞いた。
「ひどい怪我じゃなくて、よかった……」
 日崎はタオル越しに、神代の背中に額を押し当てた。
 またその声が聞けた。自分を見た瞳も、何も変わっていなかった。彼女はちゃんと生きてここにいる。肌に温かい血を通わせて、素直に体を預けてくれる。

「……日崎、泣いてるの……?」
 神代の左手が、肩に置かれた日崎の左手に重なった。労るように撫でられて、日崎は吐息を震わせた。静かに涙が零れるのを、止められなかった。
「気付かなくて、すいませんでした。妊娠してたこと」
「いつ知ったの」
「ついさっき、松波さんに聞きました……俺の子供ですね」
「 ――― うん。黙ってて、ごめんね」
 神代は体を捻って、日崎と向かい合った。無傷の左手を伸ばして日崎の頬に触れると、温かい涙が指を伝った。
「泣かないで。私まで泣きたくなる」
「どうして」
「わかんないわよ、そんなの」
 日崎は濡れた瞳でまっすぐ神代を見つめると、頬を撫でる神代の手を捕まえ、その手の平に唇を押し当てた。
「怖かった。あなたまで失ったらと考えたら、そんなことはないとわかっていても ――― 怖かったんです」
「私は大丈夫よ」
 日崎がこんな風に感情を顕わにするのは、珍しかった。いつもどこかで感情をセーブする男だと知っていたから、尚更に神代は心がじんと震えた。後悔と恐怖と安堵、全て混ざった彼の気持ちを、涙が伝えてくれる。
「子供のことも、一人で悩ませた。心細い思いをさせて、すいません」
「……言えなかったの。堕ろしてくれ、って言われるのが怖くて」
 神代が囁くような声で言うのを聞いて、日崎は弱く苦笑を浮かべた。そんなことを言うわけがない、と言うように。

 自然にお互いの指が絡まった。額をくっつけて、子犬が母犬に甘えるように、鼻先をこすりつけた。日崎の涙は止まっていた。どちらともなく、唇を触れさせた。
「明日の夜まで待てない……あなたが好きだ」
 神代の唇を掠めるように、日崎の唇は言葉を紡いだ。この言葉を言いたくて、言えなくて、どれだけ我慢したか。
 彼の掠れた声は、神代の背筋を粟立たせた。なんて色気のある告白だろう。
「あなたの側にいたい。誰より側で見ていたい、守りたい。それが叶うなら何だってします」
 神代は日崎との間にほんの少し空間をとって、彼の顔を改めて見つめた。涙が出そうだった。ずっと日崎からの愛情は感じていた。それが心地よかった。最初は成り行きだったけれど、もう疑わない。迷わない。彼に惹かれているこの気持ちを、素直に伝えられる。
 視界が滲むのを感じながら、ゆっくり日崎に笑いかけた。泣き声で、悪戯っぽく問い掛けた。
「……私を泣かさないって約束する? 浮気しない?」
「浮気なんてできるわけがない。あれだけフラれても、気持ちは変わりませんでした」
「私、料理あんまり上手じゃないわよ」
「俺が得意だから、問題ありません」
「独占欲強いし、嫉妬深いし」
「偶然ですね、俺もそうです。こんなに心配させられると、四六時中自分の目の届く範囲に居て欲しくなる」
 日崎はそう言うと、ちゅっと音をたてて神代の鼻先に唇を落とした。
「……なんでそんな殺し文句言うの。ちゃんとキスしたくなるでしょう」
「あなたが望むなら、すぐにでも」
 神代は笑いながら日崎の首を引き寄せ、日崎は神代の顎を持ち上げて、迷わず彼女の唇を奪った。角度を変えて続く口付けに荒々しさはなく、接吻と呼ぶにふさわしい、しっとりとした感覚が神代の心を甘く染めた。
 はぁ、と艶やかな息を吐き、日崎は神代の肩に顎を乗せ、耳元で囁いた。
「入籍、いつにしましょうか」
 ぱちぱちと、神代は目を瞬いた。びっくりして涙までひっこんだ。あまりにもあっさり言われたセリフが、信じられない。
「……ちょっと待ちなさい。それ、プロポーズなの!?」
「そうです」
「どうしてそんなに淡々としちゃうのよ!? 私がどれだけ憧れた瞬間か……ッ。花束持って出直しなさい、やり直しッ」
 急にきゃんきゃんと怒り出した神代を見て、日崎は呆れて目を細めた。
「……プロポーズにリテイクなんて、意味ないでしょう」
「あるわよ! もっと、なんて言うかロマンティックに言ってほしいものなのッ」
 すいません、と日崎は笑い、神代はちっとも怖くない睨み方で日崎を見上げた。

「あの……病室の用意ができたんですけど……」
 顔を真っ赤にした年若い看護師がおずおずと顔を出し、二人は顔を見合わせた。そういえば、ここは救急の診察室。衝立の向こうには、何人もの医師や看護師が居たのだった。最初こそ小声で話していたが、途中からは状況など全く気にしていなかった。会話は筒抜けだったのだろう。
 神代と日崎は顔を見合わせると、何事もなかったかのように「わかりました、ありがとうございます」と、大人の余裕で微笑んで見せた。
 


 神代を先に病室に向かわせて、日崎は一度病院の外に出た。携帯の電源を入れると、待ち構えていたように電子音が響いた。松波からだ。
『まだ神代の診察結果は出ないのか!?』
 イラついた声は心配の大きさを物語っていた。
「今、話を聞いたところです。右肩と腕の打撲ですね。子供も無事です。念の為、一晩だけ入院することになりました」
 電話越しに、ほぅっ、と大きな安堵の溜息が聞こえた。壁に掛けられた大きな時計が目に入り、日崎は時刻が15時半だとようやく気付いた。
『こっちの話も済んだし、俺も今からそっちに行く』
「お願いします」
 日崎は白い息を吐き、携帯電話を握る手に力を込めた。駐車場の片隅、枯れ木が並んでいるその場所には、彼以外の誰も居なかった。静かだ。
「松波さん ――― 俺、神代さんを幸せにします。約束します」
 しばらく沈黙を守って、松波は低い声で『ああ……頼んだぞ』と言った。
 日崎は通話の終わった携帯をポケットに仕舞うと、空を仰いでゆっくりと両の拳を握り、誰も見ていないその場所で、小さくガッツポーズを決めた。


(約束/END)
04.07.07

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