来客用の駐車場では、真っ赤なカローラ・フィールダーが雨に濡れていた。
日向は大人しく助手席に座った神代を、ちらりと見た。久しぶりに見る親友の横顔に、以前のような思いつめた風情はない。ただ、それが落ち着いているからなのか、落ち込んでいるからなのか、判断がつかなかった。
車を走らせながら、神代に話し掛ける。
「日崎クンって言ったっけ。あの子、いい子ね」
「うん、すごくいい子よ。……たくさん迷惑掛けたなぁ」
「礼儀正しかったし、ハンサムだった。綾、恋人にするならああいう子にしなさいよ。年下は可愛いよー」
日向の夫は、年下だった。軽いノリの日向の喋りに、神代は、ふと真顔になった。
「 ――― 日崎は、可愛いってイメージじゃないな……結構強引だし、筋肉質だし」
日向は驚いてパッと横を向いた。
「え、もう寝たの!?」
「危ないな、前見て運転してよ」
神代は苦笑を浮かべるだけで、否定も肯定もしなかった。
しばらく車内に沈黙が漂う。低く流れる古い洋楽は、霧雨の降る音と似て、控えめで耳に優しかった。
神代はぼんやりと、フロントガラスの向うに伸びる道を見ていた。まっすぐに伸びる幹線道路。冬の冷たい雨に黒々と濡れたアスファルトは、どこまでも続くと思えるのに、走り続ければ必ず果てがある。
「綾、どうして松波さんと別れたの」
問い掛けた日向の声も、しっとりと囁くようだった。
神代は霞んだ外の景色に目を向けたまま、ぽつりとつぶやいた。理由はともかく、切欠なら、はっきりしていた。
「欲張りになっちゃったから……かな」
ずっと好きだった。この人の為なら何でもできると思っていた。
少しでも彼の支えになりたくて、必死で勉強して、行動して。早く追いつきたかった。隣に並びたかった。自分が恋愛対象にならないのはわかっていたから、せめて仕事で役に立ちたかった。
いつの間にか、彼も完璧ではないと知った。悩むこともあるし、弱くなるときもあると知った。男と女になっていた。彼に妻がいることは最初から知っていたし、面識もあった。
だから。
「ずっと思ってた ――― 一緒にいるときだけ私を見てくれるなら、それでいいって」
それ以上は望まない。独り占めできるとは思わない。そう言い聞かせて、いつの間にか五年も経っていた。
「だけど急に、いつか別れるってことが、信じられなくなったの。そんなの耐えられないって、思うようになった。
ずっとこのままでいたい、どうしたらいいのって。でも、離婚して欲しいとは言えなかった。彼の奥さんには、とてもお世話になっているし、病弱なのも知ってた。別れて欲しいとは……言えなかったの」
さっさと別れればいい、と思ったことは、何度もあったけれど、その暗い淀んだ願いは心の底に沈めた。気付かないフリができるほど、深いところへ。
「ちょっと冷静な判断が出来なくなってるな、って自覚してたのに、止められなかった。松波さんに、避妊しないでって言ったり、わざと項にキスマークつけたり」
俯いた神代の頬を、静かに一筋涙が流れた。
「綾……」
「最低なことした。
松波さんは、私のことすごく信用してたから、そんな風に見えるところに跡つけられてるなんて、思いもしなかったんだろうね。私のマンションで会った次の日に、予定通り紗恵さんの……奥さんのお見舞いに、行って……」
神代は心の中に溜まった澱を吐き出すように、言葉を続けた。もうそれは日向に聞かせるというよりは、自分の気持ちを見つめ直す為の会話だった。
「しばらくして、電話がかかってきたの。紗恵さんから」
「……まさか」
「うん、静かな声でね。本当に、静かな声で」
――― 私がいなかったら、松波と綾ちゃんは幸せになれるのかしら。
日向はごくりと唾を飲み込んだ。自分が神代の立場なら、不倫相手の妻からそんな言葉を言われたらどうなるだろう。罪悪感に逃げ出すかもしれない。
「紗恵さん、前から気付いていたみたいだった。
私が今こうしていられるのは、松波さんと紗恵さんのおかげなのに」
(かつて、このまま死んでしまってもいいと思いつめたとき、紗恵さん、お母さんみたいに私を抱きしめてくれたのに。家族になりましょう、って言ってくれたのに)
「私は二人とも裏切ったんだって、急に怖くなった。松波さんの子供を欲しいと思ったことも、策略した自分のことも、怖くなった。何もかも、怖くて」
……限界だと思った。
こんなに好きな人に愛されているのだから、たとえ許されない恋でも幸せだと、そう必死に思い込んでいたのが、自分に対するごまかしだったと気付いた。長く続いた恋の裏に隠れていた罪悪感と疲労が、瞬く間に心に広がった。
「彼が紗恵さんに毎週会いに行くのを、いつも笑顔で見送ってたけど、辛かったの。本当は、彼が自分だけのものじゃないって思うたびに、悲しかったの。
ただそれだけのことに気付いて、もう終わりにしようって決めた」
神代は窓の外を見ながら、何度も涙を拭った。我慢しようと思うのに、声が震えて、嗚咽が漏れる。
「……馬鹿」
日向は優しくそう言うと、顔を背けたままの神代の頭を乱暴に撫でた。信号に引っかかったのをいいことに、体を横向きにして、神代の肩を抱いた。神代は両手で顔を覆い、声を押し殺して泣いていた。
「あんたは欲張りじゃない。好きな人を独り占めしたいのは、当然のことなのよ」
日向は神代の髪を撫でながら、ぎゅっと目を閉じた。そろそろ信号が変わる。
軽く神代の肩を叩いて、運転に戻った。神代はしばらく静かに泣いていたが、トートバッグからハンドタオルを取り出し、ぎゅっと顔を押し付けた。はぁ、と大きく息を吐く。
「あー、話したらスッキリした」
「……もっと早く言って欲しかったけどね」
「誰にも頼りたくなかったのよ。一人でちゃんとやっていけるんだって、実証したくて」
「無理よ。人間、一人でなんて生きていかれるもんですか。
甘えるの下手な女は、可愛くないわよー」
「……甘えるのは、苦手だなぁ」
神代は日向にも聞こえないぐらいの声で、つぶやいた。
甘えるのは苦手なはずなのに、どうしてだろう、日崎に対しては馬鹿みたいに我儘を言ってしまう。
目を閉じて、日崎の顔を思い浮かべた。何度も髪を撫でてくれた手の優しさを思い出した。安心して深く深く眠れた昨夜の穏やかさは、彼がいたから生まれたものだ。
車は一方通行の路地に入った。すぐに、二階建ての可愛らしい建物が視界に入った。『米村医院』と真新しい看板が掲げられている。昨年改築したばかりの日向の実家だ。
車は病院の裏手にある職員駐車場へと入っていった。
神代が助手席のドアを開けたとき、運転席の日向が低い声で呼び止めた。
「綾。あなた、妊娠してる可能性はないの?」
神代はわずかに目を見開いて、首を振った。
「松波さん、絶対避妊する人だったの。それだけは、神経質なくらい気をつけてた。
それに、別れた後、生理来たから」
日向は頷くと、神代を促して薬品の匂いが漂う院内へと足を進めた。