その日の夜、日崎は事務所を出ると、すぐに神代のマンションに向かった。
雨はまだぽつぽつと降りつづけていて、吐く息が白いほど気温が下がっていた。今年は雪が早いかもしれない。真っ黒な夜空を見上げて首をすくめ、日崎は傘を差さずにマンションのエントランスへ走った。
「こんばんは」
神代は笑顔で日崎を迎えてくれた。
エレベーターの中で、彼女が寝込んでいるかもしれない、と思っていた日崎は、予想がよい方に外れて安堵した。
「お邪魔します」
リビングに入ると、日向が帰る支度をしていた。テーブルの上に広げていた手帳やペンを無造作に鞄に突っ込んでいく。なんとなくピリピリとした雰囲気を感じた日崎は、神代と日向が目を合わせないのに気付いた。同時に、朝からこの時間まで二人が一緒にいたことに、疑問を抱いた。
日向は朝来たときに、夜勤明けだと行っていた。普通なら、とっくに帰っているはずだ。よく見れば、日向の目の下には隈が出来ていて、疲労感が漂っている。
「……風邪だったんですか?」
遠慮がちに神代に問い掛けると、じろりと日向に睨まれた。
「違う!」
「 ――― 日向」
日向は明らかに苛立っていた。神代にたしなめられても、我慢できないというように乱暴に鞄を床に置く。何が入っているのか、重そうな鞄は、ドン、と音を立てた。
「……過労よ。熱もまだあるし、胃にもきてる。
その女、意地っ張りで我慢ばっかりする悪い癖があるの。日崎さん、悪いけど職場で気をつけてやって。意固地になってたら、遠慮なくウチまで連絡ちょうだい。何なら、無理矢理連れてきてくれてもいいわ」
日向は強い口調でまくし立てると、羽織ったコートの内ポケットから名刺を取り出して、日崎に渡した。米村医院、専門は内科と小児科。住所とPHSの番号が書いてあった。
「綾、ちゃんと連絡入れるのよ。それじゃ、またね」
さっと手を上げて、日向は慌しく出て行った。日崎は最後に、にっこりと笑顔を向けられたが、そこから感じたのはなぜか冷ややかな敵意だった。
「……神代さん、昼間何かあったんですか?」
日向を玄関まで見送って、リビングに戻ってきた神代にさりげなく問い掛けると、神代は日崎にお茶を出しながら苦笑した。
「日向は、私に怒ってるのよ。真っ先に頼ってくると思ってたのに、日崎が先に居たから。もっと信用しなさいよ、って怒鳴られた」
それは、なんとなくわかる気がした。日崎は納得すると、真向かいに座ったまま、腕を伸ばして神代の額に触れた。
「だいぶ熱下がりましたね」
うん、と頷いた神代は、昨夜とは別人のように穏やかな雰囲気を纏っていて、日崎は不思議に思った。視線すら柔らかくなった気がする。
「木村さんが居てくれたせいですか? 神代さん、すごく落ち着きましたね」
「そうかもしれない。やっぱり、無理したらダメね」
神代は、頬杖をついてゆっくり目を閉じた。日崎がじっと見つめてくるのを感じた。
改めて、すぐ側にいる彼のことを考えた。
上司と部下というには、親しくなり過ぎた。だが、恋人ではない。友人というには、性的な空気が濃すぎる。曖昧で居心地のいい、脆い関係。
「休みの日に出勤させてゴメンね。明日は休んで、私が出るから」
「もう一日休んだ方がいいですよ」
予想していた答えだったが、神代はやんわりと日崎の申し出を断った。
明日、日崎が休みのうちに、松波と今後のことを話すつもりでいた。日崎に出勤されては困るのだ。
「疲れが溜まって風邪ひいただけよ。日向は大げさに言ってたけど、本当にたいしたことないの」
日崎はしばらく神代をじっと見ていたが、わかりました、と頷いた。手帳を取り出して、仕事上の事柄を神代に報告したが、休日は電話も少なく、たいした出来事はなかった。神代は相槌を打ち、時々質問を交えながら話を聞いた。
神代が淹れてくれた中国茶を一口飲み、日崎は手帳を閉じた。こうして話していて、神代は体が辛くないのだろうか、と心配になる。それでも、すぐ帰る気になれなくて、悪戯に他愛も無い会話を続けた。
「もう食事した?」
「ええ、軽く食べました」
会話が途切れて、日崎は神代から視線を逸らした。神代も動かない。日崎は二人きりでいることが苦しくなってきた。神代の佇まいを見ていると、昨日よりずっと穏やかで安心できるはずなのに、何故か一人にしておけない気がした。
(なんだ、この感じは……。神代さん、いつもよりずっと儚い気がする)
長い沈黙の後、日崎は違和感の正体を探ろうと口を開いた。
「本当に何もなかったんですか? 一人で、大丈夫ですか」
神代はかすかな笑顔を浮かべたまま、首を振った。
「大丈夫じゃ、ない」
弱々しい声に、日崎は思わず息を飲んだ。いつもなら、強がって意地でも『大丈夫』という相手だからこそ、その素直さに不安が募った。
「大丈夫じゃないわよ。失恋で体壊すなんて、自分でもどうしようもないと思うけど……日向といろいろ話してるうちに、思い知っちゃった ――― 松波さんを、どれだけ好きだったか」
日崎の肩が強張った。半月前、神代が夜のオフィスで日崎に向かって叫んだセリフが、脳裏に蘇った。松波の代わりはどこにもいない、と泣き叫んだ神代の、狂気を孕んだ瞳を思い出す。
あのときは、怖かった。神代の激情に呑まれて、日崎までおかしくなりそうだった。だが、今の神代は言葉の端々に愛しさを滲ませている。
別れた相手に、そんな優しい気持ちを抱けるものなのか。日崎は心のどこかで沢渡茜を思い出していた。日崎が沢渡と意識せず話せるようになるまでには、会わなかった年単位の時間が必要だった。
(この人は、まだ松波さんのことを……想ってるのか)
それでもいい。彼女の側を離れがたい、その理由はひとつだけだ。
日崎が湧き上がる感情を見据えている間に、神代は淡々と言葉を紡いだ。
「でも、今寂しいからって日崎に頼るのは、間違いだと思うのよ」
甘えたら、いつまでたっても立ち直れない。
「まずは一人で頑張らないと。恋愛は、その後かな」
神代は誇らしげに笑って見せた。
ああ、まただ。この人はこうやって、何もかも自分の中で片付けて、人を頼らない。その高潔さは日崎の中で尊敬を生むけれど、それ以上に、神代を遠く感じさせた。
頼っていいのに。甘えていい。松波の代わりでも何でもいい ――― 側で守っていられるのなら。
「神代さん、俺は」
日崎の言葉の途中で、神代はすっと手を伸ばし、テーブルの上の日崎の右手に重ねた。触れた指の冷たさに、日崎は口を閉じ、ゆっくり手の甲をなぞる神代の指の動きを目で追った。神代は目を伏せたまま、遊ぶように日崎の手を撫でていたが、日崎が手の平を上向けて指を絡めると、静かに目を合わせた。
「……ここまで甘えておいて、虫のいいことを言ってる自覚はあるの」
日崎には、彼女が何を言わんとしているのかがわかった。
繋いだ手はこんなにも温もりを伝え合うのに、神代の言葉はやんわりと日崎を拒否する。神代にも、日崎の気持ちは伝わっているに違いない。これだけ態度で示していれば当然だ。知っているのに、はっきり言葉で伝えられない。伝えることすら、許されない。
――― 一度口にしてしまえば、それ以前の関係には戻れないから。
言わないで、という神代の願いは、交わした視線で日崎に伝わった。
「じゃあ、帰ります。ちゃんと水分取って、無理しないように」
日崎はそう言って、神代の手を放した。立ち上がり、神代の顔を見ずにそのまま部屋を出た。神代は見送らなかった。ありがとう、の言葉もなかった。日崎もそんなことは望んでいなかった。