Keep The Faith:3
第11話 ◆ 雨はやまない(2)

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 神代の家のリビングは、古い木で作られたローテーブルの周りに、円形のクッションを置いている、どこかレトロな和風スタイルだ。
 その落ち着いた雰囲気の部屋で、威圧的な存在感を放つのは、突然訪れた女だった。どかりと胡座をかいて、じっと神代を睨んでいる。
「……私の友達で内科医の、 木村日向 きむらひなた
 神代が日崎に対して紹介すると、日向は冷笑を浮かべた。
「友達? アンタ、友達の連絡をずっと無視するような人間なのね。
 メールも返ってこない、自宅の電話に留守電入れても反応ナシ、携帯は着信拒否。病気じゃないかと思って、しびれ切らして夜勤明けに押しかけてみたら、若い男と暮らしてましたー、だもんね」
「誤解ですよ」
 日崎が即座に答えた。湯気を漂わせる湯のみに両手を添えて、彼は日向の目をまっすぐ見た。
「僕は、日崎和人といいます。神代さんの下で働いてます。
 昨日は、神代さんが体調崩していたので、送ってきて一晩看病しただけです」
「……そういえば、顔色悪いね」
 日向の声から刺々しさが薄れたのに気付いて、神代はかすかに笑ってみせた。日向もようやく落ち着いて話をする気になったのか、コートを脱ぐと、小振りなボストンバッグと一緒に脇に置いた。
 一口お茶を飲むと、その目が日崎を観察するように眇められた。それに気付いた神代の眉間に、少しずつ皺が寄っていく。
「……日崎。じゃあ、悪いんだけど、今日は休ませてもらうわ。仕事、よろしくね」
 神代の視線が、早くここから立ち去った方がいい、と日崎に告げていた。
「わかりました。定時後、報告に寄ります」
 日崎は、何か問いたそうな日向を無視して立ち上がったが、彼女はそんな空気に構わず、日崎に話し掛けた。
「それにしたって、普通泊まったりする?」
「 ――― 放っておいたら、熱があろうが何だろうが、無理するのが目に見えてましたから。もう少し他人を頼るような人なら、俺だってここまで面倒みません」
 静かにつぶやいて、日崎は神代に軽く頭を下げ、ジャケットを羽織ってその場を離れた。

 マンションのエントランスで、彼はしばらく早朝の空を見上げた。薄い灰色の空からは、細い霧雨が静かに降り注いでいた。



 リビングに残った女二人は、向かい合ってお茶を飲んでいた。
 部屋着のワンピースを纏った神代は、日向の厳しい視線を意に介さず、そっと目を伏せたまま湯のみを口に運ぶ。日向は沈黙に耐えられなくなって、大きく溜息をついた。
「 ――― どうして、あたしからの連絡を無視したの」
 日向と神代は、もう八年ほどのつきあいになる。
 出会ったのは、お互いがまだ二十代前半の頃。図書館の学習スペースで、何度も顔を合わせていた二人は、しだいに話をするようになった。同じ年だったこともあって、すぐに親しくなった。それ以来、こんなことは初めてだった。
「今は、話したくなかったから」
「……もう、友達やめたいってこと?」
「今は、って言った。
 もう少しして落ち着いたら、こっちから連絡して謝るつもりだったの」
 神代に悪びれた様子は無く、それが余計に日向を苛立たせた。
「何、その自分勝手な言い分は! 一方的に拒絶しておいて、気分次第でまたヨロシクってわけ」
「私の我儘よ、わかってる。ごめん。
 ……日向は、うるさいから、会いたくなかったの」

 うるさい、から。
 日向は目を見開いた。平然と、何てことを言うんだろう、この女は。
 怒って口を開こうとした日向より先に、神代が静かに言った。
「 ――― 松波さんと、別れたの」
 神代の声に悲痛さはない。自分を見返す神代の目が穏やかなことを確認して、日向はわずかに唇を噛んだ。もう痛みを通り越えた顔だ。苦しみを一人でやり過ごした、顔。
(この子、あたしを頼らなかった)
 これまで日向がいくら言葉を尽くしても、別れない、離れられない、としか言わなかったのに。夏に会ったときも、ずっとこのままでいいと、どこか切なさを含んだ声でつぶやいた横顔を覚えていた。
「 ――― いつ?」
「九月に」
 別れてから、二ヶ月。神代が日向を拒絶した期間と重なる。
「どうして……言わなかったの」
 神代の顔がふと上向いて、静かに吐息を零した。諦めたような、悟ったような、そんな寂しい笑顔を浮かべて。
「日向は正しいことばっかり言う。
 不倫なんていつまでも続くわけない、早く別れた方がいいって、いつも言ってたよね。病気の奥さん放って、私と会ってるなんて、ろくな男じゃないって。
 松波さんと別れたのは、私が自分で考えて、悩んで、涙が枯れるまで覚悟決めてしたことなの。世間がどうとか、常識がどうとか、松波さんを嫌いになったとかじゃなく」

 ――― 嫌いになれなくて、愛情は深くなるばかりで。
 彼を悩ませたくなかった。理由なんてもうわからない。彼が傷つくのを見たくなかったのか、自分がこれ以上深い傷を負うのが怖かったからか、松波の家庭を壊したくなかったからなのか。神代自身にも、本当の理由はわからなかった。

「別れた直後、日向に連絡したら、あなた何て言った?
 きっと、こう言ったはずよ。別れて正解、早く彼なんか忘れて次を見つけなきゃ、って。私の為に言ってくれる言葉なのはわかってる。前向きに励ましてくれるだろう、って予想できた。
 でも、私は何も言って欲しくなかったの。ただ一人で静かに泣きたかった。
 正論なんて欲しくない。そんなありきたりな言葉で、私と松波さんが過ごした時間を否定して欲しくない。松波さんを悪く言われるなんて耐えられない」
「……まだ、松波さんのこと」
「好きよ。あの人がどれだけ悪い男でも、一生、嫌いになんてなれないわ」
 かつてのように激しい感情ではないけれど、古い友人のように、家族のように、側にいたいと思う。
「……あたしに対して、そんな風に思ってたなら、どうしてもっと早く、泣きながらでも、叫びながらでもいいから、言わないのよ」
 日向は言いようの無い切なさに、両手の指を組んだ。膝の上に置いた手は、どんどん力が入って震えそうになった。
「そんな静かに言われたら、こっちはどうしたらいいかわかんないじゃない。
 どうしていつも、そうやって……なんでも一人で抱え込むのよ。それは強さかも知れないけど、でも、寂しい。アンタのその、最後は一人で片付けて、周りに悟らせないっていうやり方は、スマートですごいけど ――― 痛々しいわ。プライドの高さに、腹が立つ」
 神代は、声まで震わせはじめた日向に、もう一度「ごめん」と言った。
「謝って欲しいんじゃなくて」
 やりきれない。日向の目から悔し涙が零れた。
(あたしは、何よ。お節介でうるさい、デリカシーのない女なの?
 一番辛いとき、頼ってもこない。全部終わってはじめて知らされるなんて)
 神代との間には、もっと深い信頼があると思っていた。お互い仕事が忙しくて、会うことも減ったけれど、深いこともいろいろ話してきたのに。
「……ごめんね。日向が結婚してから、余計に松波さんのことは話辛くなって」
 日向は昨年結婚していた。
「それは、なんとなくわかる」
 日向も、涙を浮かべたまま苦笑いして頷いた。日向は捕らわれていないつもりでも、『妻』という立場で話を聞いてしまうのは、事実だった。もし自分が松波の妻だったら、絶対許さないだろう。軽い浮気ならともかく、こんなに深く想い合っている女が自分の他にいるなんて、耐えられない。
「そういうわけで……避けてた。まさか日向が、家まで押しかけてくるとは思わなかったな」
「当たり前でしょ。さっきの男の子も言ってたけど、あんたはぶっ倒れるまで平気なフリするのが得意だもん。もっと周りを頼れっつーのよ」
「そうね。ちょっと意固地になってたみたい」
 日向が涙を引っ込めて、いつもの調子を取り戻したので、神代も少し心が軽くなった。
「日崎には気付かれちゃったけど、結構前からしんどくて。松波さんと別れたの、かなり堪えたよ。かと言って、あの人の前で胃が痛いだの、眠れないだの言えないじゃない?
 必死で平気なフリして仕事してたら、オーバーヒートしたみたい」
「いい年なんだから無理しないの」
「まだ、二日三日の徹夜は平気ですぅ」
「うえー、そんなこと繰り返してたら、肌ボロッボロになるよ。
 まあいいや、今朝は熱測ったの?」
「まだ」
 神代の返事を聞いて、日向は側のボストンバッグを開けた。長年使いこんでいるらしく、革は味わい深いこげ茶色をしていた。体温計を取り出して、神代に手渡す。
 神代がおとなしく体温計を脇に挟むのを見つつ、日向は冷めた緑茶を、ずずっと啜った。
「調子悪かったんなら、ウチの病院に来るなり、あたしに電話するなりしなさいよ。子供じゃあるまいし、意地張っちゃって可愛くないったら」
 しばらくすると、ピピ、と小さく電子音が鳴った。体温計を、日向も首を伸ばして覗き込んだ。
「7度6分。やっぱり熱あるわね」
 日向はつぶやくと、自分が着てきた黒い薄手のコートを神代に投げた。
「さっさとそれ着て」
「……病院、行くの?」
「あたしは往診に来たんじゃないの。わかってる?
 点滴するにしても、薬出すにしても、ちゃんと診察させてよね」
「風邪じゃなきゃ、なんなの?」
「それを調べる為に行くんです! どのみち最近無理してたんでしょ、おとなしく診られなさい」
 神代は身支度を整えると、大人しく日向の後について、部屋を出た。


04.05.26

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