辻の部屋に入った空と清水が真っ先に目を止めたのは、机に飾られた一枚の写真だった。
真っ青な空と海の間で、今より幼い辻と北沢にはさまれた少女が、口を大きく開けて笑っていた。
「その子が、鈴子。可愛いでしょう?」
紅茶のポットとチョコレートを載せたトレーを手に、辻が部屋に入ってきた。パジャマ姿でにっこりと笑いかける辻に、学校で見るような近づき難い雰囲気はなく、空と清水もすっかりリラックスしていた。まだ話し足りなくて、敷かれた布団の上に座り込んで、深夜のティータイムが始まる。
「うん、可愛い。それに北沢も可愛い! これ、何歳のとき?」
空は、はじめて見る中学時代の北沢の幼い顔立ちに見入っている。
「中学二年のとき。和人さんと鈴と、北沢と私、四人で海に行ったときの写真」
「辻さん、全然雰囲気違うね、なんかボーイッシュ」
「その頃は陸上一筋だったから」
明るく笑う辻の足に、一筋赤い傷跡が走っているのを清水は知っていた。さっき、一緒に入浴したときに見たからだ。いつもは目立たないけれど、お風呂に入ったときや運動したときにうっすら浮かぶと、辻は苦笑していた。
「 ――― 鈴子さん、どうして亡くなったの?」
清水の問いに、辻は温かな紅茶を一口啜り、寂しげに微笑んだ
「事故で。その日のことは覚えてないけど……一緒にいたのに、私だけ助かって、鈴はダメだった。もう少ししたら命日なの。クリスマス・イヴの前日」
「そっか……」
「うん。正直、私だけ生きててどうなるのって思った。鈴がいなきゃ意味がない、って。その頃、一番私を支えてくれたのが北沢なんだよ。その後もずっと。
だから、鈴木さんが北沢と私の間に口を挟んできたときに、怒ったの」
辻が悪戯っぽく笑ったので、空も笑った。空から全部聞いていた清水も、すごかったらしいねぇ、とからかう。そのときのことを思い出して、空は溜息をついて俯いた。
「でも、辻さんから言われた通りになっちゃったよ。
私、北沢に告白したの。『私じゃダメ?』って。でも結局、余計なこと言って傷つけて ――― 友達としてもいらないって、言われちゃった……」
空の顎から涙の滴が落ちて、紅茶の表面に波紋を作った。
「空」
急に泣き出した空の背中を清水の手がそっと撫でた。
「北沢に謝りたいけど、会ってもくれない。どうすればいいのか、全然わからない。
どうしたら忘れられるの、私が馬鹿なだけかな。辻さんだったら、どうする……?」
「私は、忘れないわ。忘れようとしても無理なら、忘れないし、諦めない ――― 実際、諦められなかったし。振り向く可能性がない人を想うのって、辛いね」
辻でもそんなことがあったのかと、空は涙を拭った。近くで見ると、辻はやはり綺麗だった。黒絹のような髪も、ながい睫に彩られた強い眼差しも。
落ちてくる髪を耳に掛け、辻は照れたように笑った。
「私が好きになったとき、矢野さん婚約してたの。諦めようとしても駄目だった。だから、矢野さんに気付かれないように注意して、片思いするって決めたんだ。結果的には知られたけどね」
言葉を区切って、辻は真顔になった。じっと空を見つめる。空は、深い辻の瞳に心の底まで見透かされるような気がした。いつかの矢野に感じたのと同じように。
「鈴木さん、北沢に謝りたいのよね?」
空は一拍遅れて頷いた。
「そんなこと、簡単よ。とことん嫌われてるなら、いまさら北沢が嫌がっても気にせず会いにいけばいい。他の生徒がいるところで事を荒立てるようなこと、彼はしないよ」
「でも」
「一番したいことは何。北沢に、傷つけたことを謝りたいの? それとも、ただの自己満足?」
自分が一番望んでいることは、何か。そんなことは、空自身痛いほどわかっていた。
「 ――― 北沢に許して欲しい……また、北沢と話したいの」
(空、って。あの深い低い声で呼んで欲しい。あの大きな手の平で髪を撫でて欲しい。
もう一度、北沢の側に行きたいよ)
空は祈りの形に指を組んで、膝の上に置いた。辻は、指が白くなるほど強く組まれた空のその手をじっと見た。ぽつりとつぶやく。
「鈴木さんと北沢って、やっぱり合わない」
今更の決定的な一言に、空はますます目を潤ませ、清水は視線だけで辻を非難した。
「でもね」
構わずに辻は言葉を続ける。
「北沢、一年のときから鈴木さんと仲よかったでしょう、ずっと。それは、北沢があなたの何かを認めているからだと思う。口うるさいだけの軽薄な女だったら、彼は見向きもしないよ。
相性が悪くても恋に落ちるなんて、よくあることよ。感情は理性を越えるものだから。それに、北沢はそこまで冷徹な人間じゃない。たとえ口で何て言ったって、非道にはなれないの……結局、優しいもの」
そのとき、辻の声を遮るように、ノックの音が響いた。辻の返事を待って、開いたドアから矢野が顔を覗かせた。
「お前ら、もう寝ろよ。鈴木の体調もよくないんだろ」
修学旅行の引率教師のようだが、やはりそれだけで顔を見せたわけではないようで、一瞬辻と視線を絡ませた。
「 ――― おやすみ」
「うん、おやすみ」
辻も甘く囁いて、手を上げる。パタンと閉まったドアを名残惜しく見つめる辻の横顔は、幸せそうに微笑んでいて、頬もほんのり紅い。
「……結構、らぶらぶ?」
「うん」
恥ずかしげもなく辻が頷いたので、聞いた清水のほうが照れてしまった。嬉しそうな辻に、空もつい笑いが零れた。
「まず北沢に会わないと始まらないよ。怖がらずに、行動あるのみじゃないかな」
思いもかけない辻の言葉に、空は驚いたけれど、嬉しくてにこりと笑った。
「うん、わかった。ねぇ、私のことは空でいいよ。ありがと……泊めてくれて、いろいろ話してくれて。ちょっと落ち着いた」
「あ、私も千佳でいい。名字で呼ばれるの慣れてなくて」
辻は少し考え込んで、ふわりと花が開くように笑った。
「 ――― じゃあ、私のことも真咲って呼んでくれる?」
かつての親友と同じように。
翌朝、辻を名前で呼ぶ二人に対して、俺だってまだ名前で呼んでないのに! と矢野が密かに嫉妬したのは、ここだけの話。