立ち上がった辻が動くより早く、日崎が腕を伸ばしてそれを制した。
「俺が出る。辻はここにいて、いいね」
一瞬顔を歪めた辻だが、日崎が目線だけで空と清水を示すのを見て仕方なく頷いた。日崎がいなくなったリビングには、同じ年齢の少女三人が残された。
勢いよくソファに倒れこんだ辻は、他の二人の視線を感じて顔を上げた。空も清水もマグカップを口元に持っていって表情を隠していたが、その口元には笑みが浮かんでいた。
「……何、笑ってるのよ」
不機嫌さを隠そうともしない辻の声に、清水はニヤッと笑った。
「辻さんも、恋愛絡みだと感情的になるんだね。何があっても動じないのかと思ってたよ」
「うん。まさかヤノッチが本命だとは思わなかった」
空の顔も、確信に満ちた意地悪な笑顔になる。
辻の様子を見ていれば、事情を知らない空や清水にだって、想い人が誰なのかわかった。それを裏付けるように、辻はぷいっと顔を背けた。微かに染まった頬と潤んだ目元は、いままで空たちが抱いていた辻のイメージからは想像できないくらいに感情的だ。再び膝を抱えてしまった辻の目じりに、また涙が滲んでいるのを見つけて、空は笑うのをやめた。
「―――でも、相手がいる人を好きになると切ないね。ヤノッチ、千代ちゃんラヴだし」
「……え?」
辻は髪が頬に掛かるほど勢いよく顔を上げた。見開かれた瞳が動揺を伝える。
「あっ、もしかして、知らなかったの!?」
空は余計なことを口にしたとうろたえたが、辻が反応したのは違う理由からだった。
(この二人、私と矢野さんの関係に気付いてないの?)
これだけ醜態をさらせば気付かれて当然だと辻は思っていた。だからこそ、今更矢野が来たところで事態は同じだと考えていたのだ。校内の噂になど欠片ほどの関心も持たない辻は、まさか二人がそんな先入観を持っているとは思いもしなかった。
(―――まずい、今矢野さんが来たら、さすがに気付かれる!)
内心焦って黙り込んだ辻に、空も焦った。どうして自分はこう一言多いのかと、反省しつつ言葉を捜したそのとき、そこにいた誰もが聞き覚えのある声が玄関から響いた。
「邪魔すんな、日崎!」
「人の言うことちゃんと聞いてるんですか、あなたは!」
直後声の主はリビングに姿を現した。声を聞いて、まさか、と思った空の予感は的中して、マフラーを荒々しく首から外したのは、かつての部活顧問、矢野健だった。
それぞれ心中は異なっていたが、目を見開いた三人の前を平然と横切り、矢野は辻の手を取って立ち上がらせた。そのままくるりと振り返り、空と清水を睨みつける。
「お前ら二人は、後で送ってやるから待ってろ。あと、人のプライベートに口出すな。意味わかるよな?」
言うだけ言うと、有無を言わさず辻の手を引いて、彼女の部屋に引っ込んでしまった。空と清水はあまりにも堂々とした矢野の行動に呆気に取られてしまい、口を挟む間もなかった。一部始終を見ていた日崎はというと、閉じられたドアを見つめる二人の背中に、溜息を落とし疲れた表情でソファに腰を下ろす。
(……何考えてるんだ、あの人は)
我関せずというように雑誌を手に取り、ちらりと空たちを見やった。今更どう言い訳しても、辻と矢野の関係はごまかせそうにない。そのうち、辻と矢野の口論がリビングまで聞こえてきた。部屋に入ったと言っても、所詮薄い扉一枚隔てただけのこと。普通の会話でも聞き取れるぐらいなのだ、感情的になった矢野の声は筒抜けだった。
「俺がお前以外の女に手ぇ出すと思ってんのか!?」
「思ってない! 頭では、矢野さんが、私に対する愛情の百万分の一ぐらいしか大野先生のこと好きじゃないって、わかってるよ。私以外の誰かを好きになれるとも思わない」
漏れ聞こえた会話に、空は思わず口にしていたミルクを吹きそうになった。
「百万分の一って……」
日崎は頭を抱えたい気分だったが、あえて何も言わなかった。今更フォローする気も起こらない。リビングにいる人々の心中も知らず、辻の言葉は続いた。
「それでも、嫌なの。矢野さんのこと好きだって意思表示してる女と、二人で食事に行かないで。こんなことで嫉妬するなんて格好悪いけど、嫌だ!」
「 ――― 不安に応えられなくて悪いけどな、俺は大野の相手するほど暇じゃないよ。辻だけで精一杯だ、それ以外の女に割く時間なんてない。お前の言う通りだよ、辻以外だと……もう」
不自然に声が途切れて、部屋に静寂が満ちた。しばらく誰も動かなかったが、五分ほど経った頃、眉間にしわを寄せた日崎が読んでいた雑誌を無造作に辻の部屋のドアに投げつけた。バン! と響いた音に、空と清水はびくっと肩をすくませた。
驚いたのは中にいた二人も同じのようで、すぐに矢野が出てきて、ドアの近くに落ちていた雑誌を拾い上げた。
「意外に乱暴だな、日崎」
面白そうに投げ返したが、受け取った日崎の顔に笑みはなかった。
「 ――― 不埒な気配がしたもので」
日崎は悠然と足を組みながら、矢野を睨んで念を押した。
「自分で蒔いた種は、自分で刈り取って下さいよ、矢野先生」
皮肉の中に本気の怒りが滲んでいる。
矢野はそれを軽く受け流し、日崎の隣に腰を下ろした。辻はまだ部屋から出てこない。ずっと流れたままのアイルランドの歌姫の声は、静かに部屋を満たし、険しく尖った空気をわずかにほぐした。
「騒がせて悪かったな。もう12時近い。すぐ送っていくけど、二人とも一度家に連絡入れた方がいい」
矢野はさきほどの会話が嘘のように、教師の顔で空と清水を見た。しかし、そう言われて、わかりましたと引き下がる者などいないだろう。
「まさか、何の説明もなしに帰れっていうつもり?」
清水の追及に、矢野は浅く笑った。
「今更何の説明がいる? お前らが見たままだ。何も話すことなんかないね」
妙に余裕の矢野の態度に、空は反感を持った。断定的な物言いが気に障る。
「月曜になったら、学校で噂になってるかもよ?」
「鈴木が北沢に憎まれたきゃ、そうしろよ」
畳み掛けるように言われて、空は言葉に詰まった。矢野がどこまで知っているのかわからないだけに、迂闊に口を開けない。
矢野は隣に座る日崎をちらりと見て言葉を続けた。
「お前たち、日崎と辻に迷惑かけた自覚あるだろ。恩を仇で返すようなマネするほど、馬鹿じゃないよな?」
清水も頷かざるをえない。そもそも、辻と矢野の関係を言いふらしたところで、二人には何のメリットもないのだ。逆に敵をつくるだけだろう。言いくるめられて不貞腐れていると、辻がそっと現れて、矢野のソファの肘掛に浅く腰を下ろした。不安げに空と清水を見て、矢野を見る。着ている服が襟ぐりの開いたカットソーからタートルネックに変わっていたが、あえて誰も何も言わなかった。
矢野は、安心させるように辻の手を軽く握ると、改めて目の前に座る二人の生徒に問い掛けた。
「一向に連絡取ろうとしないけど、ここに居ること親に言ってるのか?」
空は残っていたミルクを飲み干して、首を横に降った。
「私、今日ちーちゃんち泊まるから平気」
「ウチ、今日は親いませーん」
「お母さん、夜勤か?」
「そう……って、何でヤノッチ、お母さんが看護婦って知ってんの?」
目を瞬く清水の前、矢野は勝ち誇ったような表情をした。
「清水の母親のことなら、俺よりこの二人の方が知ってるさ」
そう言って、辻と日崎を指差す。清水には心当たりなどなかった。辻とは図書室でたまに顔をあわせるだけの知り合いでしかない。ましてや、自分の母親と、校内で知らない者のない姫君が知り合いだとは思えなかった。
しかし、清水の予想に反して、辻は目を見開いて体を乗り出してきた。
「看護婦の、清水さんって ――― 」
日崎にも、じっと見つめられて、清水は居心地の悪さから空にぴたりと体を寄せた。
「君、清水幸恵さんの娘さん?」
「そうです、けど」
日崎の問いに頷くと、辻がいままで見たことも無いような人懐っこい笑顔を浮かべていた。体を乗り出したまま日崎を振り返る。
「清水さんって、中央病院の小児科にいた看護婦さんだよね? 鈴子と仲の良かった ――― 」
『鈴子』という単語に空は顔を上げたが、真正面から圧力をかけてくる矢野の視線を感じて口をつぐんだ。
(前、ヤノッチが言ってた。鈴子って名前を、北沢と辻さんの前で口にするなって……一体、その子は誰なの?)
「誰ですか、鈴子って」
空の気持ちを代弁するように、清水があっさり問い掛けた。矢野には敬語を使わない清水も、日崎に対しては自然と口調が改まる。
「僕の妹だ。生きていたら、君たちと同じ十八だったよ。
清水さんには本当によくしていただいた。今でも墓参りに来てくれる」
「俺も、清水さんに初めて会ったのは去年の鈴ちゃんの命日だった。学校でばったり会ったときは、驚いたよ。三者面談に来てたんだ」
「そう言えば、会ったって言ってましたね、矢野さん」
空も清水もぽかんとした顔で正面に座る三人を見た。辻とはただの顔見知りだったのに、思わぬところでお互いが繋がった。そして、空は漠然と理解した ――― 北沢だけではなく、矢野も日崎も、辻とは『鈴子』というファクターで繋がっている。
(北沢が過去におった傷を、この三人も持ってるんだ)
そう考えると、プライドが高くて美人を鼻にかけていると思っていた辻に対する見方まで変わってくる。それは空の思い込みではなく、辻が空と清水に対して警戒を解いたからだった。
「ねえ、もう遅いし、泊まって帰れば? 明日の朝なら、クリーニングに出した服も戻ってくるよ」
辻の申し出に、いい加減疲れていた二人は遠慮なく頷いて、年長の男二人は辻に逆らえるはずもなく、客用の布団 ――― いつもは矢野や辻真琴が泊まるときに使っている ――― を辻の部屋に運ばなくてはならなかった。
03.12.20