Keep The Faith:2
第14話 ◆ 罪と罰(5)

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 北沢たちの予想に反して、空はまだ来ていなかった。北沢はそのまま秋津と二人で打ち合わせを始めてしまったので、遠山は所在無く、秋津の席からも近い空の机に凭れて待つことにした。空は遠山と同じ時間に門を潜っているのだから、途中で誰かと話していたとしても、そろそろ姿を見せるはずだ。
 その遠山の前に、佐久間祐二が立った。線は細いが、遠山よりは背が高かった。佐久間は空に向けるのと同じ、さわやかな人好きする笑顔を浮かべた。
「一組の遠山だっけ。空狙いだったらゴメンな、空は俺のだから」
 さらりと告げられた言葉に、遠山はぱちりと瞬きを繰り返した。何を言われたのか理解できない。佐久間のセリフは、秋津と北沢にも聞こえていて、北沢は一瞬眉を潜めた。佐久間、と秋津が会話に割り込む。
「空とつきあってもないのに、何言ってんだよ」
「空は俺を選ぶよ」
 佐久間は、表情も声のトーンも変えずに、そう言った。秋津の席を振り返って、北沢を見据えたその目は笑ってはいない。明確な敵意。
「俺なら、あんな泣かせ方しない。体調崩すまで追い詰めて、傷つけたりもしない。
 それに ――― 俺は、空のことなら全部知ってる」
 含みのある言い方に、北沢はすぅ、と目を細めたけれど、何も反論せずに佐久間から目をそらせた。対面の終わりを告げるように予鈴が鳴り響く。無言で教室を出た北沢を見送る佐久間の目には、明らかな優越感が浮かんでいて、秋津は思わず、プッと笑ってしまった。

「なぁ、佐久間。雉も鳴かずば撃たれまい、ってコトワザ、知ってるか?」
「知ってる。何だよ、急に」
「いや、何でもない」
 佐久間は訝しげに秋津の顔をじっと見ていたが、教室に入ってきた空に気付いてからは、何も無かったかのように振舞った。下心を隠そうともせず、SHRまでの五分間、空と話し続けている。
(馬鹿なヤツ。黙ってれば、北沢はあのまま消えたのに)
 秋津は一番近くで北沢を見ていた。なかなか感情を表に出さない北沢だが、伊達に中学三年間を一緒に過ごしたわけではない。北沢が怒ったときの眼差しの冷たさぐらいわかる。
(きっと、北沢は動く。……佐久間じゃ、勝負にもならないな)
 秋津の視線の先で、佐久間は空と一緒に教科書を覗き込んでいた。この先、自分に降りかかる災難など知らずに。



 三科目のテストが終了し、北沢はいつものように辻を迎えに七組の教室に赴いた。急に冷え込んだので、北沢も黒のロングコートを羽織っている。祖母にもらった古いコートだが、しっくりと北沢の雰囲気に馴染んでいた。
「辻」
 教室前の廊下で待っていた辻に声を掛けると、辻は嬉しそうに手の中の携帯電話を差し出した。
「北沢、見て。機種変えたんだ」
 最新の携帯を見せられて、北沢は柔らかく微笑んだ。無邪気に喜んでいる辻を見ていると、夏まで携帯を持つことさえ嫌がっていたのが嘘のようだ。待受画面には、真琴と辻、親子二人の画像が表示されている。ふざけて辻の背後から抱きついている真琴の顔は、とてもあと少しで40歳になるとは思えない。
「相変わらず、真琴さん若いな」
「そうなの。時々私の服着ちゃうから困ってるんだ。って、私もママの服、結構もらってるんだけど」
 このコートもそうだし、と辻は真っ白なコートの裾をつまんだ。ゆるいAラインのコートは、辻が着ると可愛いというより清楚に映る。
 こうして辻と二人で居ると、北沢の張りつめた心はいつも柔らかくほぐれていく。お互いのことは、わかり過ぎるほどわかっていて、何も違和感がない。穏やかな空気に包まれる。北沢の口から、ほぅ、と安堵の溜息が漏れた。
 辻は爪先立つと、腕を伸ばしてそっと北沢の髪を撫でた。驚いて、北沢は目を見開く。辻は間近で北沢を見上げ、もう一度柔らかく頭を撫でた。
「そうやって疲れるのは、無理をしてるからよ」
 一瞬、真琴と錯覚するぐらい大人びた表情を見せる。北沢は浅く笑って目を閉じた。
「 ――― 空から、全部聞いた?」
 辻は小さく首を振った。
「北沢に嫌われて辛いって、謝りたいって……それだけ」
「参った。女ってすぐ仲良くなるのな」
 そうだね、と辻も微笑んだ。

「いつも会ってる人に、明日も会えるとは限らないよ。私たちは永遠じゃない」
 
 辻と北沢は、痛いほどそのことを知っている。隣にあった笑顔を、何の前触れもなく失うことがあるのだと。
「遅すぎることなんてない。もし後悔してるなら、会ったほうがいいと思う」
 北沢は静かに目を開けて、辻の優しい目を見つめた。窓の外に視線を投げる。白い空はどこまでも続いていた。十二月。誰かを失った記憶ばかりが残る月。
(俺にどうしろって言うんだ、今更)
 空が二度と近づいてこないように、あんなに傷つけたのに、まだ空の気持ちは離れていない。時々絡みつく視線には気付いていた。そして、自分が心底空を嫌っているのではないことも。
「 ――― たぶん、どう動いても後悔する。このまま空と離れても、また側に置いても。
 空といると、楽しいんだ。明るくて、無邪気で、表情がくるくる変わって見てて飽きない。ただ、時々、無性に腹立たしくなる。そのとき、きっとまた俺は……空を傷つけるよ」
 空と最後に向かい合った日のことは、鮮明に覚えていた。夏に縋りつくような強い日差しも、妙にひんやりとした床の感触も、空が着ていたセーラー服の冴えた白さも、汗ばんだ柔らかな肌の質感まで。そして、涙。
(誰かを傷つけることは、罪だ。俺は空に罪を犯した)
 許されないことを望んで。
「空は、いくら傷つけられても、北沢のこと好きだよ。一直線だもの」
 冗談に聞こえないのが恐ろしいが、北沢も頷いた。辻を振り返る。
「辻らしくないな、遠山のお節介がうつった?」
「そうかもしれない。でも、私が矢野さんのことで辛かったとき、北沢が背中を押してくれたから。今度は私が、北沢の為に何かしたかったの」
 温かい、情愛に満ちた言葉が、北沢の意地も強張りも溶かした。北沢は右腕だけで辻を抱きしめると、そのまま身を翻した。
「辻、今日は一人で帰って」
「うん。バイバイ、北沢」
 階段を駆け上がる北沢の足音を聞きながら、辻はその顔から笑顔を消した。
(でも、北沢が誰かの恋人になっちゃったら、ちょっと寂しいなぁ)
 鞄からマフラーを取り出して、くるりと首に巻き、辻は顔半分そこに埋めた。
 今日は、矢野の部屋に行こう。受験前だから、泊まれないけれど、思い切り甘やかしてもらおう。理由は告げずに。
 そう決心して、辻は誰も居なくなった廊下を、まっすぐに背筋を伸ばして歩いていった。



 北沢が三組の教室に顔を出したとき、既に数人の生徒しか残っていなかった。その中に秋津を見つけて、北沢は低いよく通る声でその名を呼んだ。
「秋津、空は?」
「図書室じゃねーの? たぶん、佐久間も一緒だけど」
 意地悪くニヤリと笑った秋津に、北沢も余裕の笑みを返した。
「問題ない」
「大ありよ!」
 北沢の声を遮って立ちはだかったのは、教室の窓から廊下に身を乗り出した清水千佳だった。険しい顔で北沢を睨む。
「北沢クン、空に何したの。あの子、軽い男性恐怖症みたいになってるんだよ!?」
 思い当たることは、確かにある。北沢は顔を強張らせて、清水の顔を覗き込んだ。
「本当に?」
「本当ッ! 私が口出すのは筋違いかもしれないけど、つき放したり、追いかけたり、あんまりにも勝手過ぎない?
 もう佐久間に任せてあげてよ。これ以上、傷をえぐるようなマネ」
 しないで、という声は北沢の大きな手で封じられた。北沢は、清水の口に手を触れさせたまま、屈みこんで小柄な清水と目線を合わせる。
「空は、佐久間の手におえるヤツじゃない。以前はどうだったか知らないけど」
 朝の佐久間を思い出す。空のことなら全部知ってると言い放った、自信に満ちた顔を。その言葉に含まれた意味に気付いたのは、きっと北沢一人だろう。
(全部……か。抱いたことがあるから、何だって言うんだ)
 それは所詮、過去の空に過ぎない。

「空は、もう俺を知ってるんだから」
 北沢は一重の目をすぃと細めて笑うと、優雅な動作で清水から離れた。初めて至近距離で北沢に見つめられ、清水はその存在感に圧倒されて、動けなかった。冷えた眼差しの迷いの無さに、鳥肌が立つほどに魅せられる。
 北沢はそのまま、大きなスライドで特別教棟に向かって去っていった。廊下を曲がり際、吹き抜ける風にコートの裾が大きく翻る。
(うーわーッ、何あれ、カッコ良すぎ!!)
 その姿は、清水には王者に見えた。威風堂々。確かに、佐久間と比べるほうが酷というものだ。
(やっぱり、空は見る目ないよ)
 まだ静まらない胸を押さえて、清水は苦笑いを浮かべた。あんなにも器の大きな男にのめりこんでしまったら、後戻りできないに決まってる。本当に、一途過ぎて応援するしかない。
(逃げずに頑張れ、空!)
 図書室に顔を向け、清水はぎゅうっと指を組んで祈った。



 三階の渡り廊下で、北沢は空と佐久間を見つけた。地上から数メートルほど高くなっただけで、風はずいぶんと強い。足音まで消していく。
 向かい合って何か話している二人に向かって、北沢はゆっくりと足を踏み出した。見えるのは、佐久間の背中と、北沢に気付いて息を飲んだ空の顔。
( ――― やっぱり、俺が怖いのか?)
 笑顔から明らかに怯えた表情に変わった空に、北沢の気持ちは揺らいだ。やはり、もう徹底的に離れるべきかもしれない。これ以上空を傷つけるだけなら。
 空の変化に気付いた佐久間も、北沢を振り返った。北沢は佐久間には見向きもせず、空だけを見つめて歩みを進めた。あと一歩で二人に並ぶほどの距離で、空の目からぽろりと涙が零れたのに気付く。
(やめよう)
 追い詰めるだけだ。
 北沢は交差していた視線を断ち切り、そのまま二人の側を通り過ぎた。肩が触れそうなほど近くで、空の緊張が痛いほど伝わってきた。風に攫われそうなコートの襟を押さえて、北沢は廊下を渡りきった。そのまま立ち去ろうとしたとき、風にかき消されそうな弱い声か届いた。涙交じりの、強い想いのこもった声が。
「待って……ッ」
 
 贖罪の言葉。そして、北沢を許す言葉。
 だから、北沢は踵を返した。強い眼差しで空を誘う。これからの覚悟は出来た、後は空が選ぶのを待つだけ。それは確信だったけれど。
 空、と名前を呼ぶだけで、離れていた時間は埋められる、と。



「空」

 久しぶりに北沢の声で呼ばれ、空はこぼれる涙をそのままに振り向いた。しっとりとした、落ち着いた声音は北沢そのもののように、静かで、強く、そして温かだった。
 北沢は無言で空に向かって腕を差し出す。渡り廊下の端と端、北沢の静かな眼差しと、空の激しく動揺する視線がぶつかる。何も命じられてはいない。けれど、空は吸い寄せられるように北沢に向かって歩くと、恐る恐る差し伸べられた手に自分の手を重ねた。途端に、ぐいと引き寄せられ、北沢の胸に閉じ込められる。

「悪いな、佐久間。コイツ俺のなんだ」
 呆気に取られている佐久間をそのままに、北沢は軽々と空の体を持ち上げた。荷物のように肩に担がれた空は、何が起こったのかわからず呆然と遠ざかる佐久間を見ていた。
 北沢はそのまま廊下突き当たりの階段を降りると、人の気配のしない踊り場で、ようやく空の顔を見た。腰に腕を回され、抱き上げられたままの空は、北沢の肩に両手を置いて、いつも見上げるだけだった北沢を見下ろす。
「……反省したか?」
 北沢の問いに、空はこくこくと頷いた。泣かないようにと、ぐっと唇を噛んだ顔は真っ赤だ。
「ごめんなさい」
 ようやく北沢の目をまっすぐ見つめて伝える。こうして正面から視線を合わせるのは何週間ぶりだろう。声を聞くのも。
「ごめんなさい……ッ」
 流れる涙を隠そうともせず、くしゃくしゃの顔で空はただ言葉を繰り返した。
「無視しないで、好きになってなんて言わないから」
(もう欲張らないから、側に居させて。お願いだから)
「 ――― 嫌わないで」
 涙の下で言葉を紡ぐのは限界だった。空はこらえ切れず、背中を丸めて北沢の肩に顔を埋めた。以前なら声を上げて泣いていただろう。こんな風に声を殺して泣くように空が変わったのは。
(俺のせいか)
 北沢は耳元でしゃくりあげる空の背中をそっと撫でた。
「俺、結構空のこと気に入ってるみたいだ。
 ――― 仲直りしよう、空」
 もう言葉が出てこなくて、空は強く頷くと北沢の首にしがみついて泣いた。北沢のコートに、てんてんと涙が落ちて墨色は更に深く色を変えた。
「あんなことして、ごめん」
 北沢は空の髪を撫でて、低くつぶやいた。空が小さく首を振る。しがみつく腕に力がこもったのを感じて、北沢は空の頭にコツンと自分の頭をつけた。抱き上げていた空の体をゆっくりと床に下ろし、立ち上がって、改めて空を腕に包み込む。
 そしてそのまま、空が泣き止むまで抱きしめていた……凍てついた空気がシンと肌に染みる中、その体温を確かめるように。


(罪と罰/END)
03.12.30

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