空は顔を伏せたまま目を見開いた。
(どうしてここに辻さんが?)
視界に黒いローファーが入ってきて、同時に頭上から澄んだ声が溜息と一緒に降りてくる。
「たかがナンパで悲鳴上げないの。まだ相手がおとなしかったからいいけど、変な連中だったら騒ぎになるよ」
辻の言葉が終わる前に、深い男の声が重なった。
「お前もだ、辻。一人のときに男の腕捻り上げるようなマネはやめて欲しいな、全く」
空も清水も、辻の後ろに立った男に目をやった。精悍な顔つきなのに、優しい目をしている。辻より少し高い身長と、広い肩幅。グレーのタートルネックセーター越しにも、均衡のとれたスタイルがよくわかった。男は苦い顔をして辻の頭を軽く小突いている。
「和人さんでも、同じことしたでしょう」
「俺と辻は違うだろ」
二人のやりとりを蚊帳の外で聞きつつ、空は、この男が辻の彼氏だと思った。北沢が言っていた……『辻の王子様』。
(駄目だ、辻さん見てると腹が立つ)
その感情が筋違いのものだと知っていても、我慢できなかった。空は唇をかみ締めて膝を抱えた。こんなにも求めている北沢の隣を、簡単に手にしている辻。北沢を振ったくせに、相変わらず二人は仲がいいけれど、北沢がどれだけ辻に心を砕いているか、彼女自身は知っているのだろうか?
「 ――― その子、具合悪そうだけど大丈夫?」
その場の視線が自分に集まるのを感じて、空はわずかに身じろぎした。平気だと言いたかったが、気持ち悪さは増すばかりで立ちあがれない。
「……空、立てれる?」
清水の声に無言で小さく首を振った。辻と男が小声で話しているのが聞こえた ――― とりあえずウチに、と。辻に世話になるのだけは嫌だった。それぐらいのプライドはある。
「や、大丈夫。連絡して、ヤノッチに来てもらうし」
「ええッ!? 最中だったらどうすんのよッ」
清水の言葉に、辻が反応した。
「矢野、先生? どうして ――― ?」
「すぐそこにいるから。大野なんかとホテル行った罰よ、倒れそうな元部員を送るくらいしてもらうもん。二股かけるような男は足に使ってやる」
そう言って、気力で立ちあがった空の間近に、辻が立っていた。その大きな二重の瞳を潤ませて、キッと空を睨んでくる。
「矢野さんを悪く言わないで」
何をそんなにムキになることがあるのか。見る間に辻の瞳に盛り上がる涙を見つめながら、口を開こうとした空の動きが止まった。それこそスイッチを切ったロボットのように。
「……吐く」
「きゃー、空ッ!?」
口を押さえて背中を丸めた空の耳に、形容し難い辻と清水の叫び声が聞こえた。