Keep The Faith:2
第11話 ◆ 罪と罰(2)

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


 空は顔を伏せたまま目を見開いた。
(どうしてここに辻さんが?)
 視界に黒いローファーが入ってきて、同時に頭上から澄んだ声が溜息と一緒に降りてくる。
「たかがナンパで悲鳴上げないの。まだ相手がおとなしかったからいいけど、変な連中だったら騒ぎになるよ」
 辻の言葉が終わる前に、深い男の声が重なった。
「お前もだ、辻。一人のときに男の腕捻り上げるようなマネはやめて欲しいな、全く」
 空も清水も、辻の後ろに立った男に目をやった。精悍な顔つきなのに、優しい目をしている。辻より少し高い身長と、広い肩幅。グレーのタートルネックセーター越しにも、均衡のとれたスタイルがよくわかった。男は苦い顔をして辻の頭を軽く小突いている。
「和人さんでも、同じことしたでしょう」
「俺と辻は違うだろ」
 二人のやりとりを蚊帳の外で聞きつつ、空は、この男が辻の彼氏だと思った。北沢が言っていた……『辻の王子様』。
(駄目だ、辻さん見てると腹が立つ)
 その感情が筋違いのものだと知っていても、我慢できなかった。空は唇をかみ締めて膝を抱えた。こんなにも求めている北沢の隣を、簡単に手にしている辻。北沢を振ったくせに、相変わらず二人は仲がいいけれど、北沢がどれだけ辻に心を砕いているか、彼女自身は知っているのだろうか?

「 ――― その子、具合悪そうだけど大丈夫?」
 その場の視線が自分に集まるのを感じて、空はわずかに身じろぎした。平気だと言いたかったが、気持ち悪さは増すばかりで立ちあがれない。
「……空、立てれる?」
 清水の声に無言で小さく首を振った。辻と男が小声で話しているのが聞こえた ――― とりあえずウチに、と。辻に世話になるのだけは嫌だった。それぐらいのプライドはある。
「や、大丈夫。連絡して、ヤノッチに来てもらうし」
「ええッ!? 最中だったらどうすんのよッ」
 清水の言葉に、辻が反応した。
「矢野、先生? どうして ――― ?」
「すぐそこにいるから。大野なんかとホテル行った罰よ、倒れそうな元部員を送るくらいしてもらうもん。二股かけるような男は足に使ってやる」
 そう言って、気力で立ちあがった空の間近に、辻が立っていた。その大きな二重の瞳を潤ませて、キッと空を睨んでくる。
「矢野さんを悪く言わないで」
 何をそんなにムキになることがあるのか。見る間に辻の瞳に盛り上がる涙を見つめながら、口を開こうとした空の動きが止まった。それこそスイッチを切ったロボットのように。
「……吐く」
「きゃー、空ッ!?」
 口を押さえて背中を丸めた空の耳に、形容し難い辻と清水の叫び声が聞こえた。



 矢野は二本目の煙草を咥え、さりげなく腕時計を見た。
「ダメですよ、矢野先生。今日は最後までつきあうって約束したんですからっ」
 それに気付いて、アルコールでほのかに赤くなった頬を膨らませたのは、隣に座っていた同僚の大野だ。足の長いスツールに腰掛けているせいか、ミニスカートから伸びる白い足が異様に目に付く。

 ホテル最上階のバーのカウンターには、矢野と仲がいいバスケ部顧問の桜井浩司、同じく体育教師の長井美里、そして矢野と大野の四人がいた。矢野と桜井が久々に飲み行こうと話しているのを長井が聞きつけて参加してきたのは、まだいい。しかし、結局話が広まってしまい、最終的には七人の若手教員で飲みに行くことになった。その上、なぜか二軒目のバーに行くときにはこの四人になっていたのだ。矢野が鬱陶しいと思うのは、隣に居る大野の存在だ。女子教員の連携プレーが背後にあるのは明らかだった。どうにかして、大野の恋を成就させたいらしい。
(一回、指輪見せたんだけどな。いい加減しつこいっつーの)
 校内では、佐々木千代と矢野の仲の良さが怪しいと噂されているが、二人ともあえて弁解はしていない。勘違いされたほうが好都合だからだ。生徒の間では、すっかり恋人同士と思われている二人だが、あまりにもドライなつきあい方に、教職員は『仲のよい友人』と見ている感がある。
(こういう女の場合、ハッキリ言ってやった方がいいか。面倒くせー)
 隣で話す大野に適当に相槌を打ちながら、矢野は致命傷を与える言葉を捜していた。咥えた煙草に歯を立てる。そのとき、左隣に座っていた長井が矢野の肩を突いた。
「矢野センセ、携帯鳴ってるみたい」
 言われてみれば、カウンター下の棚に置いた鞄の中から低い振動音が聞こえる。取り出すと、確かに着信があった。
「何、彼女からか?」
 空気が読めない桜井の言葉に、そう、とあっさり頷いて、矢野は店の人間に断ってから、携帯片手に店を出て、毛足の長い絨毯がしきつめられたホテルの廊下に立った。ドアを閉める直前、長井に怒られている桜井が垣間見えた。
(桜井先生、ナイスフォロー)
 しかし、連絡してきたのは辻ではなかった。リダイヤルすると、ほとんどコール無しで相手が出た。

「あ、日崎?」
『――― 矢野さん、Pホテルにいるんですか?』
 なぜ知っているのか訝しく思いつつ、矢野は素直に答えた。
「いる。俺、ストーキングされてるのか?」
 矢野は軽く笑い声を上げたが、電話の向こうの日崎の声は氷のように冷え切っていた。
『……こっちはイロイロ大変なことになってますよ。
 辻は、矢野さんが他の女とホテル行ったって聞いて泣くし、辻の知り合いの女の子は体調崩して路上で吐くし』
「何のことだ? 仲のいい教員仲間と飲みにきてるだけだって ――― 辻は? いるんだろ」
『お嬢さん方は、三人でシャワー浴びてます。
 鈴木空っていう子、知ってますか? かなり具合が悪そうだったんで、友達も一緒に、とりあえずウチに連れてきたんですが ――― この二人、矢野さんと英語の先生が二人でホテルに入っていくのを見たそうです』
「誤解だッ、二人で来たわけじゃなくて」
『言い訳は辻にして下さい。
 ……俺が矢野さんなら、今すぐ飛んで来ますけどね。事実にしろ誤解にしろ』
日崎の言葉の端々から、辻を泣かせたと責める気配がした。
「誤解だって言ってるだろ! すぐそっちに行く」
 苛立って強い口調で告げると、日崎の返事も聞かずに通話を切った。大股で店に戻ると、上着と鞄を手にする。
「すいません、急用出来たんで帰ります。また」
 適当に紙幣を取り出し、桜井に渡していると、大野が遠慮がちに声を掛けてきた。
「本当に彼女からだったんですか……?」
 留めを差すなら今だ。

「風邪ひいてダウンしてるみたいで……こういうとき、一人暮らしだと恋人しか頼れないですから。まあ、来年からは一緒に暮らす予定なので、こんな心配も減ると思うんですけどね」
 希望を嘘でデコレーションして突きつけ、矢野はにこりと笑って見せた。対する大野の顔は泣きそうになっていたが、これ以上つきあってはいられない。後はよろしく、と桜井に耳打ちして、矢野は走り出したい気持ちでバーを後にした。アルコールで得たかすかな浮遊感は、外気の寒さと、脳裏に浮かぶ辻の泣き顔ですっかり消え去っていた。


 
 その夜の11時過ぎ、日崎のマンションのリビングにはアイルランドの歌姫の静かな歌声が流れていた。繰り広げられた情景は、決して静かではなかったが。

「どうぞ。ミルクなら飲めるかな」
 緊張して、身を寄せ合うようにソファに座っていた清水と空は、日崎が持ってきたホットミルクをありがたく受け取った。手の平に感じる暖かさが、強張っていた体をほぐす。二人とも辻の服を借りていた。空が盛大に胃の中身を吐き出したせいで、側にいた辻も清水も服を汚してしまい、結局、日崎の車に全員乗って、現在の状況に至る。
 空はマグカップで顔を隠すようにして日崎を見た。よく覚えていないが、汚れた空の上着をすぐに脱がせて、自分が手にしていたマフラーで手早く口元を拭ってくれたのは彼のようだ。辻と日崎はホテルの近くにある中華料理店に食事に来ていたらしく、停めていた車からハーフケットを取って来て、空の体を包んで抱き上げると何事もなかったかのように後部座席に乗せてくれた。初対面でここまで迷惑を掛けてしまったのにも関わらず紳士的な態度の日崎に、興味を持つなという方が無理だった。
 成り行きで三人一緒にバスルームに入ったとき、辻と日崎は同居しているのだと教えられた。血縁ではないが、兄のようなものだと。
(……こんなお兄ちゃん、私だって欲しい)
 空の羨望を一身に集める辻はというと、空たちの正面で、膝を抱えて小さくなっていた。日崎がミルクを渡しても受け取ろうともせず、頭を撫でられると、ぽろりと涙をこぼした。バスルームを出てから、辻はずっとこんな調子だ。泣くのを堪えながら、じっと何かを待っている。
「そんなに落ち込まなくても、大丈夫だよ」
「……わかってる」
 隣に座った日崎の膝に頭をのせて目を閉じた辻。見ている空と清水の方が照れてしまうような構図だった。

 ピンポーン、とインターフォンが響くと、弾かれたように辻が立ち上がった。


03.11.28

NEXT : BACK : INDEX : HOME  


Copyright © 2003-2006 Akemi Hoshina. All rights reserved.

inserted by FC2 system