Keep The Faith:2
第10話 ◆ 罪と罰(1)

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 祈りの言葉はとても短く、
 振り向いたときには遅すぎて。



 バスルームにシャワーの音が響いていた。
 空は濡れそぼった前髪の間から鏡を見た。手で曇りを拭うと、裸の上半身が映る。あのとき北沢につけられた胸元の鬱血は、跡形もなく消えてしまっている。
(罪の刻印だろうと、憎しみの証だろうと……消えなければよかったのに)
 北沢はもう空を見ない。言葉も交わさない。切り捨てられたのだと実感していた。

 木犀の香りも消え、校庭の銀杏の葉は黄色く色づいて舞い散っていた。雪が降るのも、すぐだろう。世間はクリスマスを控えて浮き足立っているのに、空の心は重く沈んだままだった。
 北沢が口を聞いてくれなくなって二ヶ月以上経つ。空は、秋津に真実を教えられた翌日、謝りたくて一組の教室に足を運んだけれど、入り口に立った時点で北沢の視線に射られ、足が竦んで入れなかった。北沢の顔に浮かんだ、強い拒絶。あんな目で見られるのかと思うと、それからは怖くて会いに行けなかった。どうしたらいいのか、考えるたびに胃のあたりが重くなる。年が明け二月になれば、三年は自由登校だ。もう学校で北沢を見ることさえできなくなる。
(もう、可能性はないのかな)
 隣に並ぶと見上げるほどの長身。春の桜の下、部員紹介で見た凛々しい着物姿を思い出す。一重の鋭い眼差しは、いつも優しく空を見ていたのに。
 きっともう二度と、あんな風に話せない。今のように、遠くから見かけるだけ。北沢は、空の存在など始めからなかったかように、別段変わりなく日々を送るのだ。そう思うとまた涙があふれて、空はシャワーの勢いを強くすると、泣き声が漏れないようにきつく唇をかみ締めた。

 清水千佳は、バスルームから出てきた空を一瞥すると、気づかれないようにため息をついた。
(ひどい顔。痩せたし……まさか、空がここまで落ち込むとは思わなかったな)
 明るさが最大の長所だった空なのに、最近は笑うことも少なくなった。時折、泣き腫らした目で登校してくる。心配した清水や他の友人が理由を問いかけても、頑なに口を閉ざしていた。しかし、あれほど入り浸っていた一組に全く行かなくなったことを鑑みれば、おのずと予想はついた。
(北沢君に、呆れられちゃったんだろなぁ)
 清水は、空と六年近くつきあっているが、こんな空は初めてだった。昔、好きだった先生が結婚したときも、佐久間と別れた後も、二年前北沢に振られたときでさえ、一週間もあれば気持ちを切り替えて笑っていたのだ。そんな空が、今回は二ヶ月経ってもカビが生えそうなほど鬱々としている。正直言って、側にいる清水まで気が滅入った。
 気分転換に、泊まりにおいでと誘ったのだが、夕食前は高かったテンションが今は地を這うようだった。

「あーもー! 鬱陶しいッ。遊びに行くよ、空。アンタ、そんなんじゃ勉強したって頭に入らないでしょ。思いっきり歌って憂さ晴らししよう!」
 空は歯ブラシを咥えたまま、きょとんとした顔で瞬きした。
「えー、おばさんに怒られちゃうよ」
「大丈夫、母さん夜勤だから」
 清水の母親は看護婦をしている。父親は幼い頃に死別していた。団地で母子二人暮しだか、近所のおばさま方も何かと気に掛けてくれたし、友達にも恵まれていて、特に寂しいと思ったこともない。
「カラオケ行くの、久しぶりー」
 洗面所から出てきて、ニコッと笑った空を見て、清水は少しだけ安心した。



 清水も空も受験生なので、最近は遊ぶことも少なかった。休日でさえ、机に向かっている。学力が合格圏内だとしても、やっておかなければ不安になるから。そのせいか、久しぶりに思いきり歌って騒ぐと、アルコールも入っていないのに酔ったようになった。
 中学の頃の思い出話や、ドラマの話で盛り上がり、ハイテンションのままカラオケボックスを後にした。夜10時過ぎ、歩道を歩く二人を、制服姿の高校生が自転車で追い越していく。他校の制服だった。この時間に塾から帰る学生も多い。

「見て、オリオン座。もう冬だねー」
 空は両腕を夜空に向け、気持ちよさそうに伸び上がった。コートの裾をふわりと浮かせ、ブーツのつま先だけ地面につけて深呼吸すると、濃厚な夜の気配がした。そのまま倒れるように清水に抱きつく。
「ちーちゃん、ありがと。心配かけてゴメンね」
「……そう思うんなら、相談くらいしてよね。何があったか知らないけど」
 皮肉をこめた清水の言葉に、曖昧な笑顔が返ってくる。二人は並んでゆっくりと歩き出した。二人のブーツが路面を蹴る音が、カツンと響く。
「私、知らなかったよ。好きな人に拒否されただけで、こんなに辛いなんて。なんかね、私自身を全部否定されたみたい。人間じゃなくて、そこらに転がってる石にでもなった気分」
 実際、北沢にはそういう目で見られている気がした。
「あのねぇ、男なんて星の数ほどいるじゃない。ウチの学校だって、全校生徒840人だよ。男女比同じくらいだから、400人の男がすぐ側にいるわけよ」
「そうだね ――― でも、その中に、北沢みたいな男なんて数えるほどしかいないよ、きっと」
 片手にも満たないだろう、と清水は思った。彼は異質だ。
「……彼のことは、もう忘れた方がいいよ。姫も北沢君も、私たちとは世界が違うって感じだもん、見てるものが違うっていうか。空には、佐久間の方がお似合いじゃないかなぁ」
 空の前の彼氏である佐久間祐二は、元気のない空を心配している一人だ。空にしても、佐久間の優しさは嬉しい。つきあっていた頃のように隣にいて、気遣ってくれる。それでも。
「 ――― 私が欲しいのは、北沢だけなんだもの」

 いくら駄目だと言われても、目が北沢に吸い寄せられる。もう見つめ返してはくれないとわかっているのに。
「どうやったら、忘れられるのかな」
 ぽつりとつぶやいた空の声があんま儚くて、清水は胸の奥が痛くなった。
(北沢君と合わなかっただけよ。空は可愛い、もっと自信を持っていいのに)
 どう言葉を掛けていいか思い悩む清水の腕を、空が急に引っ張った。並木の陰に隠れるように足を止める。清水が訝しげ眉をひそめると、空の指が無言で向かい側の大通りを差した。
「英語の大野と、ヤノッチ」
 手こそ繋いでいないが、学校で見たままの姿をした二人が並んで歩いていた。吸い込まれるように白い建物のエントランスに消えていく。玄関口にポーターが立っている、格式あるホテルだ。
 空と清水は、思わず顔を見合わせた。なぜかヒソヒソと小声で言葉を交わす。
「この時間だよ!? 一階のレストラン行くようには見えないよね」
「うーわー。大野がヤノッチ狙いって本当だったんだー。千代ちゃんとは破局かな」
「ヤノッチ趣味悪すぎ!!」
 英語の大野は、男子生徒からの人気は高いが、女子生徒から反感を買っている。ミニスカートのスーツといい、可愛らしい仕草といい、計算され尽くした何かを感じるからだ。

 矢野と大野のことを好き放題言いながら二人が歩いていると、擦れ違った大学生と思しき男たちが声を掛けてきた。
「自分ら可愛いねー、今から一緒に遊ばない?」
 よくあるナンパに、空も清水も『ウチ門限あるからー』と軽くかわして歩き去ろうとした。しかし、軽く酔っていたのだろう、男の一人が空の腕を掴んだ。
「まだ10時過ぎだよ、どこのお嬢様?」
 しつこいなぁ、と清水が言いかけたとき、空の異常に気付いた。目を見開いて、掴まれた腕を見つめている。

『もう友達も終わりだ、空』

 視界には、たくさんの金属の足が並んでいた。至近距離にあった北沢の顔は無表情で、押さえられた腕が痛くて ――― フラッシュバックする記憶。
(どうしてあの時、北沢の後姿を見送ってしまったんだろう。北沢があんなことをする人間じゃないって知ってたのに。よっぽどの理由があるって、少し考えればわかったはずなのに)
 細い悲鳴が空の咽喉から押し出された。空の腕を掴んでいた男も清水も、驚いて固まった。通行人が何事かと振り返るのに焦った男は、何でもないですから、と口走りながら、空の顔を覗き込んだ。
「ちょっとー、どうしたの、君」
 男の友達も寄ってきて、空と清水は囲まれるようになった。心配してくれているのだとしても、空にとっては逆効果だ。
「いいから、空の手離してよ!」
 清水が厳しい声で言い放ったとき、横から伸びてきた細い腕が無造作に男の腕を掴んだ。あっという間に捻り上げ、空の腕から外させる。
「ごめん、この子、男性恐怖症で」
 うずくまってしまった空を支えられず、一緒にしゃがみこんでしまった清水は、頭上から響いた声に驚いて顔を上げた。ぴたりとした黒のスリムジーンズに包まれた長い足、微笑み一つで男たちの視線を集中させると、「向こうで彼氏と待ち合わせなの。ちなみに空手黒帯だけど」と、のたまった。
 くっきりとした二重の瞳と、肩にかかる黒髪。
「……辻さん?」
 呆然とした清水の声に氷のような視線で応え、ナンパしてきた連中をあっさり追い払ったのは、もしかしたら空が一番会いたくない人物 ――― 辻真咲だった。


03.11.24

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