千鶴の部屋のインターフォンを押しても、返答はなかった。北沢は首をかしげながら、ドアノブに手を掛ける。と、待ちかねていたように、軽く扉は開いた。
「千鶴さん……?」
部屋は静まりかえって、人の気配さえ無い。それよりも北沢を驚かせたのは、玄関から見えた部屋の様子だった。
確かに昨日もここに来たのだ。3階の東端の部屋。水に溶かしたような薄緑と白で統一されていた家具が、全て無くなっていた。
(何だ、これは)
北沢は乱暴に靴を脱ぎ捨て部屋に上がると、ざっとキッチンからリビングを見渡した。
『奥に書斎があるの。そこが、一番好きな場所』
――― そこか。
大股に廊下を進み、北沢は突き当たりの扉を開け放った。
目に飛び込んできたのは、白い壁。重厚なブラウンのフローリングを底に、何も無い四角い箱の中のような。そして、正面に佇む、赤いロングコートを来た千鶴がいた。
彼女は明らかに北沢を待っていた……挑むような視線で。
北沢は言葉を失った。何か問い掛けるより先に、体が動いていた。ゆっくりと歩み寄って、静かに彼女を腕に抱く。
「何も……きかないの」
千鶴は動かなかった。北沢の成すがままに抱きしめられて、けれど、その腕で彼を包むことはしなかった。
「千鶴さん、すごく寒そうだから」
「暖房入ったままなのに」
「そういう意味じゃない」
千鶴はゆっくりと目を閉じて、北沢の肩に顔を伏せた。外気のままに冷えた北沢のコートは固くて、彼女を拒んでいるかのようだった。
北沢は、口を開こうとして止めた、何を聞くのも怖かった。
何もない部屋に、彼女は一人で居たのだ。
今日は居ないと、嘘をついて。
「フィレンツェに行くの」
細い声で千鶴がつぶやく。
「知ってる」
応える北沢の声は短い。
「――― 帰っては、こないの」
北沢は何も言えず、ただ彼女を抱く腕に力を込めた。彼女は今、ここにいるのに、存在が腕を擦り抜けていく。
「行かなければいい」
北沢は、自分の声の小ささに驚いた。もう声さえ、途切れそうだった。
千鶴。秋の陽の下、自分の心に希望をくれた人。
「結婚式は、来週だもの……行かなきゃ」
「結婚? 誰が」
「私の ――― 」
そうだ、決まっていた。ずっと前から。北沢が千鶴に会うより、ずっと以前に。
「……私の結婚式よ。来週向こうで式を挙げて、そのまま暮らすことになるわ」
顔を上げた千鶴の目は、今まで北沢が見たこともない程落ち着いていた。いや、落ち着いているのではない。真冬の湖面を思わせる冷ややかな表情からは、感情が窺えなかった。
北沢は息を詰め、瞬きもせずに彼女を見つめた。
「最初から、決めていたことよ。
わかっていたの、あなたを傷つけることも」
北沢の腕から力が抜けた。千鶴から目を離さないまま、背中を壁にぶつけるようにして、彼はずるずると座り込んだ。千鶴を見上げる双眸に、見る間に涙が盛り上がって、頬を伝い落ちた。
「結婚って、誰と」
低い彼の囁きは、かろうじて千鶴の耳に届く。
「従兄弟と。小さい頃から決められていた、婚約者」
「いつの時代の話だ」
「――― 昔から、ずっと聞かされてた、彼が結婚する相手なんだって。好きだった、この気持ちを疑ったことなんてなかったわ。これが恋だと信じてた。
今は……違うと知ってしまったけど。それでも、彼を愛してる」
北沢は泣きながら千鶴の言葉を聞いていた。耳を塞ぐように頭を抱えるけれど、現実は容赦なく突きつけられた。最愛の人によって。
「なんで……どうして言ってくれなかったんだ。少しは打つ手もあったのに……! 今からでも、何か出来ることがあるはずだ。最悪、俺と一緒にどこかへ行こう」
「打つ手はあるけれど、絶対に成功しないでしょうね」
なぜ、と問うまでもなかった。
「――― 千鶴さんに、その気がないからだろ」
子供のように膝に顔を埋めて泣く北沢の前に、千鶴はしゃがみこんだ。震える指で、彼の頭を撫でる。千鶴の指の感触に、北沢は涙に濡れた顔を上げた。傷ついてもまだ、愛しさを訴える眼差しに、千鶴は彼を抱き寄せた。
「最初は、ここを発つ日に全部話すつもりだった。憎まれてもいいから、全部話すつもりだったの。でも、出来なかった……もう限界だったの。
本当は日曜にここを出る予定だったけど、これ以上北沢君と居たら、離れられなくなると思ったから、今日、黙って消えようとしたのよ。なのに」
(あなたは、来てしまった。私の迷いを知ってたみたいに)
唇を噛む千鶴の胸に頭を預け、北沢は力なく言葉を紡いだ。
「……本当にずるいよな、千鶴さんは。
絶対後悔するよ、俺を選ばなかったこと」
「後悔なんてしないわ、出会ったのがあなただったから、私は断言できる。
言ったでしょう? 辛いことも、いつか幸せな記憶に変わるって。記憶の中の誰かが、自分を支えてくれることがあるって。
北沢君は、私の中でそういう存在になるのよ」
昇華される記憶。
永遠に愛することのできる、幻へと。
北沢は涙でぐちゃぐちゃになった顔で、不器用に笑って見せた。
「千鶴さん、変なカオしてると思ったら、ずっと泣きたいの我慢してるのか。プライド高いな。いいよ、泣いても」
(あなたは ――― どこまで優しいんだろう)
千鶴は滲んでくる涙を堪えて、もう一度北沢の頭を撫でた。
「私は泣かない。
これは、私が決めたことだから。わかっていた結末だもの。そこから目を逸らしたら、自分で自分が許せなくなる。どれだけ辛くても、私が泣くのは卑怯だわ」
強がって、と北沢は笑った。自分の頬に触れている千鶴の手を握りしめて、少しだけ顔の角度を変えて、彼女の手の平に唇を押し当てた。
「最後に、キスしてよ。俺が格好悪く縋って泣き喚く前に、別れよう」
北沢は座り込んだまま、壁にもたれて瞼を閉じた。涙の跡が乾いて引きつる。長い沈黙の中、北沢の耳にしゃくりあげる千鶴の呼吸が聞こえた。それでも、目は閉じたまま。彼女の為に、せめてそのプライドを最後まで守れるように。
「傷つけて、ごめんね。
私、死ぬまで、あなたの思い出を抱いて生きるから……っ」
(本当に、愛しているのに)
言葉にならない千鶴の想いは、涙となって、唇より先に北沢の瞼に届いた。