Keep The Faith:2
第4話 ◆ キレイな愛じゃなくても(4)

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 千鶴の部屋のインターフォンを押しても、返答はなかった。北沢は首をかしげながら、ドアノブに手を掛ける。と、待ちかねていたように、軽く扉は開いた。
「千鶴さん……?」
 部屋は静まりかえって、人の気配さえ無い。それよりも北沢を驚かせたのは、玄関から見えた部屋の様子だった。
 確かに昨日もここに来たのだ。3階の東端の部屋。水に溶かしたような薄緑と白で統一されていた家具が、全て無くなっていた。
(何だ、これは)
 北沢は乱暴に靴を脱ぎ捨て部屋に上がると、ざっとキッチンからリビングを見渡した。

『奥に書斎があるの。そこが、一番好きな場所』

 ――― そこか。

 大股に廊下を進み、北沢は突き当たりの扉を開け放った。
 目に飛び込んできたのは、白い壁。重厚なブラウンのフローリングを底に、何も無い四角い箱の中のような。そして、正面に佇む、赤いロングコートを来た千鶴がいた。
 彼女は明らかに北沢を待っていた……挑むような視線で。
 北沢は言葉を失った。何か問い掛けるより先に、体が動いていた。ゆっくりと歩み寄って、静かに彼女を腕に抱く。
「何も……きかないの」
 千鶴は動かなかった。北沢の成すがままに抱きしめられて、けれど、その腕で彼を包むことはしなかった。
「千鶴さん、すごく寒そうだから」
「暖房入ったままなのに」
「そういう意味じゃない」
 千鶴はゆっくりと目を閉じて、北沢の肩に顔を伏せた。外気のままに冷えた北沢のコートは固くて、彼女を拒んでいるかのようだった。
 北沢は、口を開こうとして止めた、何を聞くのも怖かった。
 何もない部屋に、彼女は一人で居たのだ。
 今日は居ないと、嘘をついて。

「フィレンツェに行くの」
 細い声で千鶴がつぶやく。
「知ってる」
 応える北沢の声は短い。
「――― 帰っては、こないの」
 北沢は何も言えず、ただ彼女を抱く腕に力を込めた。彼女は今、ここにいるのに、存在が腕を擦り抜けていく。
「行かなければいい」
 北沢は、自分の声の小ささに驚いた。もう声さえ、途切れそうだった。
 千鶴。秋の陽の下、自分の心に希望をくれた人。

「結婚式は、来週だもの……行かなきゃ」
「結婚? 誰が」
「私の ――― 」
 そうだ、決まっていた。ずっと前から。北沢が千鶴に会うより、ずっと以前に。
「……私の結婚式よ。来週向こうで式を挙げて、そのまま暮らすことになるわ」
 顔を上げた千鶴の目は、今まで北沢が見たこともない程落ち着いていた。いや、落ち着いているのではない。真冬の湖面を思わせる冷ややかな表情からは、感情が窺えなかった。
 北沢は息を詰め、瞬きもせずに彼女を見つめた。
「最初から、決めていたことよ。
 わかっていたの、あなたを傷つけることも」

 北沢の腕から力が抜けた。千鶴から目を離さないまま、背中を壁にぶつけるようにして、彼はずるずると座り込んだ。千鶴を見上げる双眸に、見る間に涙が盛り上がって、頬を伝い落ちた。
「結婚って、誰と」
 低い彼の囁きは、かろうじて千鶴の耳に届く。
「従兄弟と。小さい頃から決められていた、婚約者」
「いつの時代の話だ」
「――― 昔から、ずっと聞かされてた、彼が結婚する相手なんだって。好きだった、この気持ちを疑ったことなんてなかったわ。これが恋だと信じてた。
 今は……違うと知ってしまったけど。それでも、彼を愛してる」
 北沢は泣きながら千鶴の言葉を聞いていた。耳を塞ぐように頭を抱えるけれど、現実は容赦なく突きつけられた。最愛の人によって。
「なんで……どうして言ってくれなかったんだ。少しは打つ手もあったのに……! 今からでも、何か出来ることがあるはずだ。最悪、俺と一緒にどこかへ行こう」
「打つ手はあるけれど、絶対に成功しないでしょうね」
 なぜ、と問うまでもなかった。
「――― 千鶴さんに、その気がないからだろ」
 子供のように膝に顔を埋めて泣く北沢の前に、千鶴はしゃがみこんだ。震える指で、彼の頭を撫でる。千鶴の指の感触に、北沢は涙に濡れた顔を上げた。傷ついてもまだ、愛しさを訴える眼差しに、千鶴は彼を抱き寄せた。
「最初は、ここを発つ日に全部話すつもりだった。憎まれてもいいから、全部話すつもりだったの。でも、出来なかった……もう限界だったの。
 本当は日曜にここを出る予定だったけど、これ以上北沢君と居たら、離れられなくなると思ったから、今日、黙って消えようとしたのよ。なのに」
(あなたは、来てしまった。私の迷いを知ってたみたいに)
 唇を噛む千鶴の胸に頭を預け、北沢は力なく言葉を紡いだ。
「……本当にずるいよな、千鶴さんは。
 絶対後悔するよ、俺を選ばなかったこと」
「後悔なんてしないわ、出会ったのがあなただったから、私は断言できる。
 言ったでしょう? 辛いことも、いつか幸せな記憶に変わるって。記憶の中の誰かが、自分を支えてくれることがあるって。
 北沢君は、私の中でそういう存在になるのよ」

 昇華される記憶。
 永遠に愛することのできる、幻へと。

 北沢は涙でぐちゃぐちゃになった顔で、不器用に笑って見せた。
「千鶴さん、変なカオしてると思ったら、ずっと泣きたいの我慢してるのか。プライド高いな。いいよ、泣いても」
(あなたは ――― どこまで優しいんだろう)
 千鶴は滲んでくる涙を堪えて、もう一度北沢の頭を撫でた。
「私は泣かない。
 これは、私が決めたことだから。わかっていた結末だもの。そこから目を逸らしたら、自分で自分が許せなくなる。どれだけ辛くても、私が泣くのは卑怯だわ」
 強がって、と北沢は笑った。自分の頬に触れている千鶴の手を握りしめて、少しだけ顔の角度を変えて、彼女の手の平に唇を押し当てた。
「最後に、キスしてよ。俺が格好悪く縋って泣き喚く前に、別れよう」
 北沢は座り込んだまま、壁にもたれて瞼を閉じた。涙の跡が乾いて引きつる。長い沈黙の中、北沢の耳にしゃくりあげる千鶴の呼吸が聞こえた。それでも、目は閉じたまま。彼女の為に、せめてそのプライドを最後まで守れるように。
「傷つけて、ごめんね。
 私、死ぬまで、あなたの思い出を抱いて生きるから……っ」
(本当に、愛しているのに)
 言葉にならない千鶴の想いは、涙となって、唇より先に北沢の瞼に届いた。



「きーたーざーわ! 一緒に帰ろッ」

 携帯の液晶画面をじっと見ていた北沢は、声の主を見た。
 後期の夏期講習初日。廊下側の窓から1組の教室を覗き込んでいるのは、3組の鈴木空だ。長い前髪をくるりと捻ってポンパドゥールにしてる。伸ばしかけの髪は、二つに分けてゆるくねじってまとめてあって、見るからに夏らしい。
「悪い、今日は用事ある」
「じゃあ途中まで」
「……いいけど、辻と待ち合わせだぞ」
 辻の名前を出した途端、空はウッと息を詰めた。予想通りの反応に、北沢は苦笑する。
「あの件からこっち、本当に辻のこと怖いんだな」
「だって、女の子の顔に平手打ちだよ!? 怒り方も、すっごい怖かったし」
「よく言うよ。先に手ぇ上げたくせに」
 そうだけど、と言い訳する空の言葉を適当にあしらって、北沢は教室を後にした。自転車に跨って、一人学校からのゆるい下り坂を走る。辻との待ち合わせは、毎年恒例の行事だった。お盆を過ぎて、辻が日崎家からいつものマンションに戻る日。
 北沢と辻は、毎年二人で鈴子の墓参りに行く。

 北沢が千鶴と別れて、一年と半年が経過していた。

 何気ない公園の近くの路地沿いに、かつて千鶴が住んでいたマンションはあった。近くを通っても、北沢は決してそこに近づかない。
 千鶴が消えて一ヶ月後、募る想いにつき動かされてその道を通った北沢の目に飛び込んできたのは、いつかと同じように明りのついた窓だった。階段を駆け上がってインターフォンを押すと、しばらくして全く知らない男が顔を出した。引っ越してきたばかりだと言った。
 千鶴は、もうここには戻ってこない。痛いほど思い知って、それから北沢はそのマンションの前の道を通ったことがない。

 時間が過ぎれば、いつか忘れられるのだろうか。
 キレイな思い出だけが、残るのだろうか。
 こんな辛い気持ちすら、夏の暑さのように消え去っていくのか?

 北沢は強くペダルを漕いだ。額を流れる汗が目に入る。

 今でも、あれは夢だったのかもしれない、と思う。千鶴。彼女がいた証拠は、携帯に残っている最後にかわしたメールだけ。
『さよなら』
 たった一言。彼女が日本を発つときに、お互いにそう送って、全て終わった。
 北沢は、その受信メールが消せないでいる。メモリに残っている千鶴の携帯の番号も、メールアドレスも、何度も消そうとして、消せなかった。
 夏休み前、辻には『一年以上前に、別れた。ずっと好きだったけど、もう吹っ切れた』と話したけれど、嘘だった。まだ冷静に振り返ることもできない。
 ただひとつ言えるのは、後悔はないということ。
 彼女に会えて、少しの時間だったけれど一緒に過ごせたことを、後悔はしていない。
 
(どれだけ醜くても、体を引きずりながらでも、僕は己の道を目指す。探る。進む)

 いつか ――― どこかであなたと再会したとき、不敵な笑みが返せるように。


(キレイな愛じゃなくても/END)
03.09.03

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