Keep The Faith:2
第3話 ◆ キレイな愛じゃなくても(3)

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「いいトコのお嬢様だとは思ってたけど ――― 」
「あら、北沢君ともあろうものが、そんな見方をするの?」
「いえ、ちょっと驚いただけです」

 三階建ての落ち着いた外観のマンションの、どう考えても一人暮らしには広すぎる一室に千鶴は住んでいた。聞けば、ファミリー向けの、このマンション自体が千鶴の父親の所有物件なのだという。
「広い家に一人でいたら、寂しくならない?」
「全部使ってるわけじゃないもの。寂しくはないわ。北沢君も来てくれたしね」
「……そうですか」
 出されたコーヒーに口をつけて、北沢は俯いた。
 ふと感じた甘い香りは香水だろうか、と考えた途端に、一人暮らしの女性の部屋にいることを意識して、妙に落ち着かなかった。
 淡い草色のカーテンから透ける日光は白く柔らかで、優しく北沢を包み込む。まるで、非日常の世界に放りこまれたような気がした。キッチンからは、オリーブオイルとにんにくの香りが漂ってくる。いくらコーヒーを飲んでも、北沢の気持ちは静まらなかった。

「はい、どうぞ」
「うわっ、いい匂い!」
 一瞬前の憂いも忘れ、北沢の意識は目の前の皿に盛られたパスタに集中する。一口食べて、あとは食欲を満たすのみ。
「いい食べっぷりね。見てて気持ちいいくらい」
 千鶴は北沢の正面に座って、そんな北沢をじっと見ていた。北沢は千鶴の視線を感じながらも、瞬く間にすべてを平らげた。唇の端に付いたトマトの欠片を舌ですくう。
(視線、が ――― )
 顔を上げなくてもわかるほど、千鶴の視線は痛いくらいにまっすぐだった。北沢は覚悟を決めて、目を向けた。その強い視線を受けとめる……瞬きを忘れた澄んだ瞳を。

「……千鶴さん。必ず電話してって、俺に言ったのは、なんで?」
「わからないの? 本当に?」
 テーブルに肘をついて、千鶴は北沢を見上げた。不敵にすら見えるのに、彼女の目は慈愛に満ちて、深い光をたたえていた。
(俺が、もう一度会いたいと思ったように ――― ?)
 まさか、と否定しようとしても、見つめ返す千鶴の瞳がそれを許さなかった。
(彼女も、同じだったんだろうか。これで終わりにしたくないと、思ってくれたのか)

 見つめ合う二人の静寂を破ったのは、北沢だった。
「ごちそうさま」
 何事もなかったかのように、ふいと視線を反らして立ち上がる。千鶴は、きょとんとした顔で長身の北沢を見上げた。そして、その頬がうっすらと朱に染まっていることに気付く。
「……北沢君?」
「今日は、帰る。
 ――― 千鶴さん、自分に好意抱いてる男を、こんな簡単に部屋に入れたら駄目だよ。確かに俺はまだ高校生だし、千鶴さんから見れば子供かもしれないけど」
「子供なんて思ってないわ。それに私、その気もないのに男を部屋に上げるような女に見える?」
 北沢は、しばらく黙って立っていたが、その頬を更に赤くして小さな声を出した。
「都合よく解釈してもいいのかな」
「ご自由に」
 答える彼女の表情は変わらない。余裕の微笑み。
 北沢は、ああ、と納得した。ここを訪れたときからの、千鶴の視線の謎が、ようやく解けた気がした。
「ズルイな、千鶴さん」
「どうして?」
「こっちは何とか振り向いてもらおうと、必死なのに」
 北沢はブレザーを椅子の背もたれにひっかけると、千鶴の隣に腰を下ろした。ネクタイを外しながら拗ねた声で抗議するが、千鶴は一向に様子を変えなかった。
「俺、お釈迦様の手の平で躍らされてる孫悟空みたいだ」
「嫌だった?」
「……そうでもない」
 肩をすくめた北沢の顔に、千鶴の手が触れた。え、と思っている間に、北沢はさりげなく唇を奪われていた。
「……千鶴さん」
 がっくりと肩を落として、北沢は真っ赤になった顔を両手で覆った。押し付けられた柔らかく温かな唇。かすかな香水の香りは、桜を連想させた。

「トマトの味がする」
 けろりと千鶴はつぶやいた。
(どうして、この人は……こんなにマイペースなんだ)
 人のことをいえない性格の北沢だが、人間得てして自分のことはわからないものだ。
「そのうち見てろよ」
 北沢は低い声で告げてから、上目遣いに敵を睨んだ。しかし、敵は怯まなかった。それどころか、至近距離でにこにこと見返してくる。なんだか馬鹿らしくなって、北沢は深呼吸すると、今度は自分から手を伸ばした。
 軽く引き寄せるだけで、吸い寄せられるように千鶴の体は、北沢の腕の中に収まった。軽く一度だけ口付ける。触れるだけのキスだったけれど、二人とも微かに震えていて、それに気付くとキスどころではなくて、顔を見合わせて笑った。

「千鶴さん、キスの途中で笑うの止めようよ」
「ごめんなさい。何か気が抜けちゃったわ」
 あはは、と声をたてて笑う千鶴の目尻にうっすらと涙が浮かんだ。
「笑いすぎて涙なんて、傷つくなぁ」
 言って、北沢は思い切り強く千鶴を抱きしめた。もう震えてはいない。想像していたよりずっと華奢な千鶴の体が、北沢の心拍数を跳ね上げた。
「笑って、ごめんね」
 千鶴の囁き声を飲み込むように、深く唇を合わせた。触れるだけのキスは、どちらからともなく貪るようにエスカレートしていく。口づけの合間、呼吸するたびに北沢の背中に回された千鶴の腕が、すべり落ちそうになっては、すぐに強さを増してシャツを掴む。

 千鶴の耳たぶを咥えて、その吐息を聞きながら、北沢はふと怖くなった。
 この腕の中の愛しい存在が、鈴子のように奪われたとしたら、自分はどうなるのだろう、と ――― 。



 木曜日、その冬初めての雪が降った。例年よりも早く、冬が訪れようとしていた。
 北沢は、雪の静けさを壊さぬように、ゆっくりと足を運びつつ、空を見上げた。吐く息が、遠く高い灰色の空に重なる。

『明日は居ないの。一日ぐらい会えなくても、大丈夫よね?』
 
 昨日の夜、別れ際の千鶴の言葉が脳裏によみがえった。
 出会ったのが日曜、食事をした月曜、その翌日には素肌の感触を覚えて、昨日も飛ぶように会いに行った。合気道の稽古をさぼったのは初めてだった。
(一日くらい、か。軽く言ってくれるよな。大丈夫なわけないだろ)
 千鶴に出会ってからの自分と、それ以前の自分は、まるで別人のようだ。平静を装って、己の世界観だけで物事を見ていたこれまでが嘘のように、たった一人の人間に翻弄されている。しかも、驚いたことに、それが嫌ではないのだ。
 家路を辿る足は、知らず昨日と同じ道へと進む。たとえマンションに行ったとしても、彼女は居ないのに。
(何か、どんどん馬鹿になっていく気がするな。俺、こんなに可愛らしい行動する人間だったか?)
 薄暗くなってきた空の下、寒さに身を震わせて北沢は彼女の部屋の窓を見上げた。そして、足を止める。
(……おかしい)
 淡い光が、カーテン越しに漏れていた。
 一人暮らしの人間が不在の場合、その部屋に明りがついていることを説明できる状況は? 一番簡単なのは。何らかの理由で、予定外にそこに住人が居るということ。

 北沢は、迷わず階段に向かった。薄くつもった粉雪が、踏みにじられて、きしゅっ、と音を立てた。


03.08.30

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