姫宮千鶴は、北沢のことを『北沢君』と呼んだ。まるで教師に呼ばれているようで、北沢は内心嫌だったが、それを口に出すと自分から子供っぽさを主張することになると思い、黙っていた。
茶会の翌日、賑わうイタリア料理店での食事は予想以上に楽しく、カジュアルな洋服に身を包んだ千鶴は昨日よりも饒舌で、北沢もつられてよくしゃべった。
二度イタリアに行ったことがあるという千鶴は、今月末もフィレンツェに行くのだという。他に行ったことのある国は、と問うた北沢の好奇心を満足させるだけの思い出を、彼女は語ってくれた。
すっかり打ち解け、会話に夢中になって時間を忘れていたが、気付くと時計は22時を過ぎていた。
「ごめん、遅くなったな。千鶴さん、門限とか大丈夫?」
「そんなものないわ。私、こっちで一人暮らししてるから」
全然大丈夫よ、と肩をすくめた千鶴を見て、北沢は再び腕時計に目をやった。明日は平日なので授業があるが、一晩くらいの徹夜は何の問題もない。
千鶴のことを知れば知るほど、心惹かれた。まだ彼女と離れたくない、もっと話したいという気持ちが強くなる。
「送るわ、北沢君」
千鶴はゆっくりとした足取りで駐車場に向かう。北沢は、ついて行くしかなかった。免許と車を持っている彼女に主導権があるのは仕方ない。諦めて助手席に乗り込むしかないのだ。
どうすれば、この年上の美女を振り向かせることができるというのだろう。
北沢は腕を組んで窓の外を見た。
「……急に黙って、どうかしたの?」
何も、と小さくつぶやいて、北沢は目を伏せた。会話の途切れた車内に、静かな車のエンジン音だけが響く。夜の国道は空いていて、20分足らずで北沢の家に着いてしまった。
「すごく楽しい食事でした。北沢君とたくさん話せて、嬉しかった」
サイドブレーキをひいて、千鶴は運転席で微笑んだ。外灯の光の中でも、彼女の柔らかく気品のある雰囲気はなくならない。
(別れたくないって落ち込んでるのに、こんなに明るく言われてもなぁ……。その笑顔に見惚れる俺も馬鹿だけど)
舌打ちしたい気分で、北沢はようやく千鶴に向き直った。
今を逃せば、これきり会えないような気がした。
「実は、車に乗ってからずっと考えてたんだ。どうしたら千鶴さんを引き止められるだろうって」
千鶴の顔から笑みが消えた。
「でも、名案が浮かばない。何かいい案は、ないかな」
両手の指を組んで肘を膝に置き、そこに顎を乗せて、北沢は悪戯っぽく千鶴を見つめた。千鶴は何度か口を開こうとしては躊躇して、ついに片手で顔を覆って笑い出した。
「――― 降参します。
全く、今の高校生ってみんな北沢君みたいに口説き慣れてるのかしら? もしもそうなら、とんでもないわね」
「他はどうか知らない。俺、他人と自分を比べるの嫌いだから」
「わかったわ。君は特殊な例ということね。
とりあえず、今日はここでおしまいにしましょう。もう遅いし」
言いながら、千鶴はカードケースから名刺のようなものを取り出した。
「時間が空いたら、このナンバーに電話して。私の携帯よ。
……正直言って、私も北沢君に興味があるの」
北沢は上機嫌でカードを受け取った。彼女の名前の下に記されている11個の数字を眺める。
「電話はいつでもいい? 大学行ってる間とか、この時間は掛けても無駄っていう時間帯があれば」
「 ――― 大学行ってるように見える? 何歳だと推測してるのかな、君は」
「何歳だっていいよ。千鶴さんなら」
にこにこ笑って、北沢は自分の手帳のページを破いた。ざっとペンで走り書きする。
「これ、俺の携帯。24時間いつでもどうぞ」
手渡すや否や、すばやく車から降りる。取り残された感のある千鶴が呆気に取られているうちに、
「今度、天気のいい日に、金木犀の公園で散歩しよう。自転車でよかったら、今度は俺が送るから。ただし、下心ありだけど」
不敵に笑って、バタンとドアを閉めてしまった。
完全に北沢のペースだ。千鶴は脱力してハンドルに顔を伏せた。
(やられた。完敗じゃないの)
車の窓の向こう側に、自宅の玄関に向かう北沢の背中が見えた。
(晴れた休日に散歩できたらいいね)
けれど ――― そんな日は来ない。
食事をするつもりもなかったし、携帯の番号を教えるなんて思ってもみなかった。考えるより先に、行動はこんなにも気持ちに正直だ。また会いたい、もっと彼を知りたいと思っていることを、もう否定できない。
(裏切ることを、彼は許してくれるだろうか。きっと傷つけることになる)
千鶴は一度強く目を閉じて、決意したように顔を上げた。
「北沢君!」
ドアに手を伸ばしたまま、北沢が振り返る。窓を開けた千鶴は、あえて無表情のまま、
「明日、必ず電話して」
と、それだけを告げて走り去った。
北沢は目を見開いて、ドアノブに手を掛けたまま、頭の隅で千鶴の言葉を反芻した。
(明日電話してって……)
千鶴の車が消え去った道をじっと見据えて、北沢は思わず両手に拳を握った。心の全てを染めて、冷静ささえ失わせる感情の魔力に、彼は完全に捕らわれたのだった。