Keep The Faith
第11話 ◆ 水の球体(2)
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翌日の日曜は、前日の晴天が嘘のように、どんよりと曇っていた。会社に行っていた日崎が帰宅したのは正午過ぎ。今にも泣き出しそうな空の下、何もやる気がしなくて、辻と二人、リビングに寝転がって、お互い読書に勤しむ午後。
「和人さん ――― 見て、アレ」
辻の声に顔を上げると、遠くの方で光る稲妻が見えた。
「向こう、真っ暗だな。こっちまで来たら、豪雨になるぞ」
日崎は読みかけの雑誌を顔に落として、大きく欠伸をした。睡眠不足で、辻と遊ぶこともできやしない。
控えめなたラジオの音に、雷が重なる。
しばらくして、ソファにもたれて推理小説を読んでいた辻が本を閉じた。思い出したように日崎を見ると、彼は顔の上に雑誌を落としたまま、微動だにしなかった。
「和人さん、起きてる?」
近寄ってそっと雑誌を落とすと、間抜けと言えなくも無い、あどけない寝顔がすぐ側にあった。軽く握られたその左手に、辻が軽く右手を乗せると、きゅうっと握り返してきた。
(うわーっ、赤ちゃんみたい)
辻は一人で真っ赤になる。温かな手のひらの感触が、過去を思い出させた。
お互いに、鈴子を失ったことは大きな心の傷になっていて。
二人で暮らし始めた頃、辻はあの事故の瞬間を夢に見て眠れなくなることも多かった。記憶にないだけに、想像の中の映像は酷く悲惨で、辻には悪夢でしかなかった。日崎は日崎で、目を閉じると倒れた鈴子と辻が浮かんできて、精神的に追い詰められた時期もあった。
眠れない夜は、どちらからともなく、リビングのソファで手をつないで眠った。辻が泣きながら眠って、目覚めてまた泣いていたときも、何も言わずに抱きしめてくれた優しい腕。彼の優しさに支えられて、現在の辻があるのだ。
(この手に、甘えてるのかな)
先週、帰国していた真琴と食事した際に言われた言葉を思い出した。
『真咲、高校卒業したら、どうしたいの? 私はあと二年は向こうだけれど……大学に行く意思があるのは知ってるわ。どこに行くか、そろそろ決めないと。
和人君にも、甘えすぎてしまったわね……三年も同居なんて、彼から言い出してくれたことだけど、恋人できたのかしら』
辻の知る限り、日崎に恋人はいないようだった。辻に言わないだけで、いるのかもしれない。何も変わっていないようで、少しずつ変わってゆく日々。去年の秋、矢野が戻ってきたのも、大きな変化だった。
今まで考えないようにしていたけれど、きっと今のままではいられない。
( ――― ずっと、一緒にいられるような気がしてた)
「和人さん……」
小さく名前を呼んで、辻はつないだままの和人の左手に、そっと額を押し付けた。
今はまだ、甘えたままでいさせて欲しい。
この手を放すときが、いつかくると知っていても……。
◆
ばちばちと音が聞こえるほど、雨足が強くなった。窓を震わせる雷鳴に驚いた日崎は、起きてすぐ、温かな左手に気がついた。
いつの間にか、すぐ隣で眠っている辻。
(手、繋いで……?)
時計を見ると、一時間も眠ってない。何か飲もうかと思ったが、繋いだ手を再度見て途方にくれた。ふりほどくのが、ためらわれた。
(辻の寝顔も久しぶりだな)
一緒に眠ることも少なくなった。それでも、なんの血縁でもない自分たちは、仲が良すぎるのかもしれない。外でも、平気で手を繋ぐ。泣いていれば、抱きしめて背中を撫でてやる。今まで自然だったことだ。矢野に指摘されるまで、日崎はそれが過保護だとは、思わなかった。
それにしても、こんなにも無防備に隣で眠る辻には、苦笑するしかない。
鈴子と辻はよくお互いの家に泊まったりしていたので、一緒に暮らし始める前から、辻は日崎に対してあまりにも警戒心がない。日崎としては、特に何とも思っていなかったが、この前のように一人暮らしの矢野の部屋に平然と泊まってしまうあたり、辻は自覚が無さ過ぎると思う。自分がどれだけ女として魅力的なのか、他人の目にどう映るのか……。
「和人さん、もう起きたの」
考え込んでいた日崎が、ハッとして辻を凝視する。辻は眠っていたときと全く変わらない体勢のまま、とろりとした目で日崎を見返した。二、三度瞬きをしたかと思うと、また瞼を下ろしてしまった。
「まだ寝ててもいいぞ」
日崎が右手で辻の髪を撫でる。辻はゆるく首を振って、目を閉じたまま、独り言のようにつぶやいた。
「さっき考えたんだけど ――― ありとあらゆる手段を使ったら、矢野さんはきっと私のものになるよ。自信ある」
『私のもの』というリアルな言葉に、日崎は息をのんだ。
さっきまで、子供の頃のままにすやすやと眠っていた彼女の内側は、寝ても覚めても矢野のことで埋められているのだろうか。考えているうちに、日崎は嫌な気分になった。
辻は、日崎の心中も知らず、淡々と言葉を続けた。
「でも、そんなの、ただの愛情の押し付けだよね。そんなことしても、あの人は認めてくれない……絶対に。すぐ側にいるのに、心では他の人を思ってるなんて切ないし。
だから、止めた」
ゆっくりと目をあけて、くすりと笑った。
「時々、自分の思考が怖くなることってない?」
その瞳はあくまで無邪気だったが、日崎にはなぜか痛々しく見えた。
「俺は、自分自身が怖くなるときがあるよ」
「……何で?」
少し逡巡してから、日崎は口を開いた。
「自分のオリジナルが無いように思うんだ」
辻の隣に寝転がって、深く息を吸った。辻のまっすぐな視線を受け止める自信がなかった。心の奥底をさらけ出すのは、いつでも怖い。
「……どこかで見たり聞いたりしたことを寄せ集めて、その場その場で自分を作ってるような気がして、考え始めるといつも怖くなる。笑うなよ。
自分がとても不安定で、どうでもいいものに思えるんだよ」
息をついて、日崎は目を閉じた。こんな話は、誰にもしたことがない。
辻は、繋いでいた手を自ら放し、背筋を伸ばしてその場に座りなおした。寝たままの日崎を見下ろす。
「和人さん。大事なことを質問します」
静かな辻の声に、日崎は目を開けた。優しい、伏せがちの辻の目に……その長い睫に視線が吸い寄せられる。
「私のことが好き?」
「もちろん、好きだ」
即答した日崎だが、辻の真意を測りかねていた。
「ショパンとラヴェル、どっちが好きなの?」
「今は、ラヴェル」
「日本酒は何が好き?」
「越乃寒梅……何なんだ、一体」
辻が得意げに唇の端を持ち上げる。彼女はこういうとき、本当に嬉しそうに笑う。
「きちんとあるじゃない、オリジナル。
こんなにたくさんの情報や物事の中から、自分に必要なものを選ぶとき、何が基準になってると思う? 生まれたときから積んできた価値観だよ。
そうやって選んだものを、自分のフィルター通して、理解して消化して、自分のものにするんでしょう。きっと、精神には核みたいなものがあるんだよ……それが『価値観』で、『フィルター』で、『オリジナル』なの。
私ね、理想の精神状態って、水で出来た球体みたいなものだと思うんだ。透明で、何もかもを穏やかに受け止められそうでしょう。でも、私はまだ未熟だから、濁ったり、カチカチに固まったり、波立ったりする。
私にとっては、和人さんが理想なんだよ。
――― 和人さんが、『水の球体』なの』
日崎は、眩しいものでも見るように、目を細めて辻を見つめた。あんまり長い間日崎が黙っているので、辻は自分の説が理解不能だったのかと不安になって首を傾げた。その拍子に、長い髪が蜘蛛の糸のように、日崎の上に落ちてきた。
日崎の手がその髪を掴む。そのまま両腕は伸びて辻の首に回され、彼女は鮮やかに捕らえられた。
「お前、めちゃくちゃ賢いな」
「今更、何をおっしゃいます……ッ」
慰められて抱きしめられることはあっても、普段抱き合うことのない二人だ。辻は狼狽のあまり硬直していた。日崎はそんな辻のことなどお構い無しに、その髪を撫でた。今の彼に怖いものはない。
「俺は、何があっても辻の味方だからな。誰を裏切っても、お前だけは裏切らない」
囁く声に辻が顔を上げると、目の前に日崎の鎖骨があった。男らしい首のラインに焦って更に視線を上げる。気が抜けるほど嬉しそうな日崎の表情を見て、辻の緊迫が解けた。
「……和人さん、私に甘すぎると思うわ」
「我ながら同感」
二人は額をくっつけるようにして顔を見合わせ、くすくすと笑った。
外ではまだ雷鳴が轟いていた。
「……雨、止みそうにないな」
「もう一時間も降らないよ。晩御飯、外に食べにいこう?」
窓の向こう、雨に包まれた世界はぼやけた輪郭とともに存在を感じさせない。外界から隔離された部屋で、二人はうとうとと微睡んだ。
淋しがりな本性を見せた辻は、半分眠ったまま日崎の腕を放そうとしない。赤ん坊が母親の腕で安堵するように、人は誰かの体温を感じて眠ることを心地いいと感じるのだ。意味は後からついてくる。
例えば ――― 恋愛感情であるとか。
夕方、辻の予言通り雨は上がった。
(水の球体/END)
03.06.20
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