Keep The Faith
第12話 ◆ 夏至
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 始まりは、いつも何でもないこと。
 けれど、そこから物語は動き出す。



 昼休みの音楽準備室を、訪れた人物がいた。
「こんにちは、ヤノッチ」
 矢野はドアの方を見もせずに、言葉を返す。
「千代ちゃん、『ヤノッチ』は止めなさい。じゃないと、締め出すよ」
「あはは、『千代ちゃん』止めてくれたら、私も『矢野先生』って呼んでやるよ」
 矢野は諦めて、手にしていた雑誌を置いた。侵入者は慣れた様子で窓際まで行き、ポケットから使いこんだ皮のシガレットケースを取り出した。
 肩まで伸びた髪を無造作にひとまとめにして、意外に綺麗な細い指で、一本のタバコを取り出す。ちらりと矢野に視線を投げてから、火をつけた。
「あー、やっぱ食後の一服はいいねー」
 ふーっ、と煙を吐き出す。他人が吸っていると、やはり吸いたくなるものだ。矢野も机からタバコを取り出し、一本咥えた。それを待っていたように、
「ん」
 無言でジッポーを差し出し、火をつけてくれる心使いは嬉しい。
「千代ちゃんさー、毎日毎日、ここに通ってていいわけ?」
「言ったでしょ。村上センセが器官弱くて、美術準備室だとタバコ吸えないんだよ。職員室も禁煙になっちゃったし。愛煙家は肩身狭いんだから、お互い協力しなくっちゃいかんよ、矢野クン」
 美術教師、佐々木千代。気っ風のよさは折り紙付きの27歳。このところ、昼休み後半は、音楽準備室で過ごすのが日課と化している。ちなみに、この高校には美術教師が二名いた。グラフィック担当の村上と、アナログ担当の佐々木だ。村上は今年51歳になる紳士で、年の上でも佐々木は頭が上がらなかった。
「絵は、夏休みまでには完成しそう?」
「今月中に上げるつもり。辻はそこそこ成績いいから心配ないけど、さすがに期末考査の間は、モデル頼めないからね」
「一回見せて、その絵」
「出来上がるまでダメ。
 しかし、面白いねぇ、あのコ。あんなにキレイなのに、自分の顔にあんまり興味ないみたい。もっと人見知り激しいのかと思ったけど、素直に話すし。周りが先に壁作るんだろうね、きっと。
 あとは、北沢のガードが固すぎるから……かな」
「北沢?」
「あいつ、部活終わったら、美術室まで迎えに来るんだよ。あそこまでベッタリだと、好きでもイヤになったりしないのかね。アタシだったら耐えられないな、あの束縛感」
 細い目を更に細めて、佐々木は窓の縁に手を掛け、校庭を見た。四階から見下ろすと、生徒たちは個別の人間には見えない。虫のようだ。このたくさんの男女が、毎日のように話をして、ケンカをして、恋をしている。学校というのは特殊な場所だと、つくづく思う。
「俺もキライだな、束縛されるのは」
「ふーん……なのに、指輪はするんだ」
「 ――― ちょっと待った。何、それ」
 矢野が眉を潜めた。
「大野先生のこと、ひどい振り方したんだって? 女子教員の間に広まってるよ、噂」
 にやりと唇を歪めた佐々木を見て、矢野は天を仰いだ。
「……勘弁してよ。きっぱり『アンタには興味無い』って言った方がよかったのか?」
「矢野クン、そのうち刺されるよ」
「……生徒は知らないよな」
「さあ、どうかな。彼ら、勘鋭いからね。それとも、知られたく無い相手でもいるのかな?」
 矢野は沈黙で答えた。佐々木との会話はいつもこうだ。いつの間にか、お互いの腹を探ってしまう。矢野が二本目を咥えたところで、予鈴が鳴った。
「タイムリミット。続きは明日ね」
「来なくていいッ」
 企んだ笑みを残して、佐々木は廊下へと消えていった。側にいても全く負担にならないのは、お互いを異性と意識していないからだろう。ただ、佐々木の洞察力は鋭すぎて、心臓に悪い。
 眼鏡を掛けなおして、矢野はさっきまで佐々木が居た窓際に立った。
「センセ、たばこ止めてよー。音楽室までヤニ臭くなる」
 清掃に来た女生徒の言葉に、再び眉間に皺を寄せた。



 夜中に目が覚めた。矢野の場合、こういうときは、目が冴えてなかなか寝付けない。諦めてタバコを取り出す。
 昼間の佐々木との会話を思い出した。何だかんだと、辻は目を引く。
(確かに、北沢はガード固い。でも、アイツいなかったら、辻はどうするんだ? ……って、告白片っ端から断ったらいいだけか。ちゃんと日崎っていう恋人もいるワケだし)
 そういえば、日崎とは、最近辻の話ばかりだ。そもそも全くの他人である辻が、なぜこんなにも気にかかるのだろう、と考えてみる。
 始まりは何だったか、と。

 矢野は現役で音大に合格、しかし、入学式一週間前にスキーで両足骨折。約三ヶ月を病院で過ごし、復帰後一週間で事故に遭い、再び入院して留年が決定したという過去を持つ。
 不運である。
 そうして、二度目の一年生となった春、佐伯桃子と出会った。明るくて元気で、馬鹿なことも二人で何でもできた。あっという間に心も体も幸せで、矢野は本気で、桃子に会う為に、不運な一年間があったのだと思ったほどだ。
 しばらくして、矢野は日崎和人を知った。同じピアノを専攻していたせいもあるが、一つ年上の自分に対して決して敬語を崩さない律儀さと、体育会系な外見に似合わず繊細な内面に好意を持ったのも事実だ。
 日崎には年の離れた妹がいて、彼女と一緒にいるときの日崎は、いつものポーカーフェイスが嘘のようによく笑った。妹の友人だと紹介された辻真咲は、まだランドセルを背負っていたくせに頭の回転が早くて、矢野が一言からかえば、三つ言い返される始末だった。
 後に、不幸な事故で日崎は妹を失った。矢野と桃子の中にも、あの事故は大きくこびりついていた。自分たちのせいではなかったと知っているけれど、罪悪感は消えなかった。

 今の高校に赴任したのは、去年の秋だった。教員免許はとったものの、卒業後も教員余りで職につけず、やっと産休代理で臨時採用されたのだ。その年の夏に受けた教員採用試験に合格し、今は晴れて正式採用になっている。
 そうして、辻真咲に再会した。二年ぶりだった。
 卒業してから、日崎とは疎遠になっていた。日崎も就職したばかりで忙しく、矢野も引っ越した上に、ピアノ教室での講師のバイトが予想以上に大変で、お互い意図的ではなかったけれど、会うことが減っていた。それでも、再会した途端に、学生のときのままに空気が流れたのが、嬉しかった。
「近くの高校で働くことになったんだ」
 矢野の報告に、日崎は驚いたようだった。
「……またこっちに戻ってくるんですね」
「ああ。よろしくな」
「その高校に、辻が通ってます。会うの楽しみにしていて下さい」
「……驚かせた方が面白いな。辻には黙ってろよ、日崎」
 日崎が辻と一緒に暮らしていることは、電話で聞いていた。その日はまだ夏休みで、辻は海外に行っていて会わなかった。
二学期の始業式後、職員室から出たところに、一人の少女が立っていた。
「矢野さん! びっくりしたよ、この学校の先生なんて。
 ……久しぶりだね」
 にっこりと微笑む、まるで生ける日本人形。艶やかな黒髪に、くっきりした二重の目。濡れたような瞳は、意思の強さを反映して強い輝きを放っていた。ふっくらとした唇が、なんとも言えず女らしくて。
「……辻、か?」
「そうよ。わからなかった?」
「育ったなぁ」
 しみじみとつぶやいてしまった。確かに、昔も身長は高い方だったけれど、ここまで変わっているとは思いもしなかった。痩せていて、部活で真っ黒に日焼けした辻しか記憶にはなかったから。
「もう足は問題無いんだろ?」
「うん。全然平気。でも、陸上は止めたの」
「元気そうで、よかった」
「うん……矢野さんも」
 廊下の向こうから、男子生徒が「辻」と呼ぶのが聞こえた。辻が振り返って頷く。矢野に手を振ると、迷わずその男の元へと駆けていった。
 その時は「彼氏も居るわけだ」と納得した矢野だったが、その男子生徒は北沢勝だと、後で知った。
 職員の間でも、生徒の間でも、「北沢勝と辻真咲」というのは、もはや不動のカップリングだったようで、矢野はその後も二人が一緒に行動しているところをよく見かけた。
 誰から見ても理想の恋人同士だったので、それが「フリ」だと辻から聞いたときは、内心とても驚いた。本当に好きなのは日崎だと聞かされたときは、もっと驚いたのだが。
 けれど、矢野には納得できないことがあった。日崎と辻が、お互いを支えてきた事情は知っている。鈴子の死がどれだけ辛かったのかも。けれど、日崎の辻への態度は行き過ぎのように見えた。壊れ物のように、大事に辻を慈しむ日崎を見ていると、いつまで経っても辻は日崎に頼らなければ生きていけないような、そんな気がしたのだ。
 矢野がそう言うと、日崎は真っ向から反発した。それ以来、辻のことになると意見が割れる二人だが、どこかで信頼もしていた。お互い辻を思っていることに変わりはない。

 タバコの灰が落ちた、矢野は我に返り、慌てて灰皿を手に取る。
 窓の外には皓々と月。
 僅かに吹く風に、明日は雨だ、と思いつつ、矢野は再び浅い眠りについた。



「矢野セーンセっ、帰ろ?」
「勝手に帰れ」
 矢野は低い声で言い捨てた。その声を聞いて、辻は頬を膨らませる。
「雨降ってるんだもん」
「傘なら貸してやる」
「……待ってたらダメ?」
「休みの日に私服で学校来てんのバレたら、他の先生に怒られるぞ。ほら、見つからないうちに帰れ」
 休日返上で仕事に打ち込むつもりで来てみれば、美術の佐々木に呼ばれて学校に来ていた辻が、雨に降られていた。雨が止むまで匿ってやると言ってはみたものの、なかなか止みそうにない。
(千代ちゃんも、てめぇで呼んどいて、俺に送らせようとするなっつーの。全く)
 細い目をした策略家の同僚に、血管が浮きそうになる。このままでは仕事どころではない。
 拗ねてしまったのか、辻は帰ろうともせずに窓の外を眺めている。ぼんやりとしたその様子を見ながら、矢野は不意に気づいた。
 なぜここまで辻が気になるのか。
 それは辻の無条件の信頼のせいだ。何の疑いもなく心を見せる。辻が全面的に感情を見せる相手は限られている。そうして、その全ての人間が、辻の弱点を知っているのだ。
 もう誰も失いたくないという切実さを。
 鈴子を失ったときの、彼女の悲嘆を。
「……雨で濡れるぞ」
「うん……でも、好きなんだ、雨を見るの。空中分散してるのがわかる」
 言われて矢野も窓辺に寄った。辻は靴音に、何気なく振り返ろうとして、硬直した。
 窓辺にもたれている自分の両側に、矢野の腕があった。シャツを腕まくりした、男らしい逞しい腕。背中に重なる、矢野の気配。
「本当だ、なかなか綺麗だな」
 耳元をかすめる低い声。
 わずかな空気を隔てて、矢野の体温がじわじわと浸食してくる錯覚に陥る。
 そんなことも知らず、矢野は来たときと同じようにあっさりと去っていった。既に視線は手元の譜面に注がれている。
「ほら、もう帰れって、辻。
 ……辻?」
 矢野はようやく、辻の態度を不思議に思った。
「何固まってんだ。
 ああ……もしかして、抱きしめられるかと思った?」
 矢野は譜面を見たまま、軽く笑った。
 そして、
「……抱きしめようとしたの?」
 しっとりとした声に、ゆっくりと顔を上げた。雨に濡れた前髪の間から、真摯な双眸が挑んでくる。うっすらと口元に浮かんだ笑みは、怖いくらい誘惑に満ちて。
 矢野は譜面を置いた。
「 ――― そうだと言ったら?」
 眼鏡も外して、ピアノの上に置く。
 窓際の辻に向かって歩き出す。静けさを破るのは、靴音と、かすかな動揺を見せる辻の呼吸。
 息を詰める辻を見下ろし、矢野は獲物に手を伸ばす。
「……矢野さん!」
「挑発したら逃げは許されないの。ツメが甘いよ、お前」
 息がふれるほど間近で、ニヤリと笑った矢野に、辻はうつむき、
「人間、年取ると狡猾になるのね。先に帰る、バイバイ」
 そう言い捨てて、するりと矢野の腕をすり抜けて去っていった。
 矢野は辻を見送って、そのまましばらく窓の外を見ていた。空気が湿っているのは、雨のせいばかりではないだろう。感情は気配で伝わる。

 泣きそうに潤んだ辻の瞳。
 期待と緊張に目を見開いた、あの一瞬。
 そこに込められた思いは、誰へのものなのか。矢野はそれに気づかないほど馬鹿ではなかった。


(夏至/END)
03.06.22

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