Keep The Faith
第10話 ◆ 水の球体(1)
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 常日頃、思っていることがある。
 生まれたときの自分の意識が白紙であるなら、今の自分の思考というものは、生きてきた中で習得した知識の寄せ集めではないか。では、オリジナルというものは存在しないのか。
 心に浮かぶ思考、感情を認めるたびに、『これは何に影響されて生まれたものなのか』を考えてしまう。
 誰も答えを与えてくれない。

 誰か ――― 俺に救い、を。



 初夏を迎えた空は鮮やかに青く、太陽は瞬く間に気温を上昇させる。正午近くになって、カーテン越しにもわかるほど日差しがきつくなった。
 その眩しさと暑さに耐えかねて、ベッドの中で唸っていた男はようやく起床することを決意した。髪は寝癖でぐちゃぐちゃで、見るからに不機嫌な表情のまま、タオルケットを引きずって、窓に近づく。半分窓を開け、すぐ脇のチェストに腰掛けて、ぼんやりと空を眺めた。もちろん、意識は半分も覚醒していない。
 日崎和人、二十四歳。音楽大学卒業後、IT関連の会社で働いている。
 その耳に、ピアノの音が届いた。階下の住人の誰かが、窓を開けたまま弾いているのだろう。ショパンのノクターン。
 日差しの暑さが、風の涼しさに中和されて心地いい。漂う調べに耳を傾けたまま、彼は目を伏せた。ピアノの音の向こう、近くの公園から届く子供の声が微かに聞こえた。
 ピアノの音と、子供の声。
(そういえば、むかし、ピアノの練習の邪魔ばっかりする鈴子と辻相手に、本気で怒ったことがあったな……)
 そのとき、二人はうるさいくらいに泣いた。
 小学生だったチビ二人が、相手にしてもらいたくて駄々をこねていたのだとわかってから、優等生だった彼はとても上手に二人に接した。
 自他ともに認める『いいお兄ちゃん』だった彼にとって、辻は二人目の妹だった。七歳離れた妹たちは、小さくて無垢で、彼はかなりの兄馬鹿ぶりを発揮していたのだ―――あの日、鈴子がいなくなるまでは。



 大学に入って、日崎は、一つ年上で同期の矢野と親しくなった。同じピアノ専攻だったせいもあるが、彼の楽天的な部分に憧れたのも事実だった。彼には佐伯桃子という、面倒見のよい元気な恋人がいて、彼女も何かと、生真面目さで損をしていた日崎を気に掛けてくれた。
 イタズラ好きの辻が、鈴子を伴って大学のピアノ練習室にこっそり遊びに来たときも、矢野と桃子は面白がって二人の相手をしてくれた。負けず嫌いの辻は、矢野にからかわれるとすぐにムキになり、よく噛み付いていたのを思い出す。

 大学三年だった、あのクリスマス直前の祝日も、三人は一緒だった。クリスマスは、日崎の自宅で集まって祝うのが恒例になっていたので、その買出しに行ったのだ。鈴子と辻も連れて、五人で。
 買い物を済ませ、荷物を一度車に運んだあと、カフェで一休みして駐車場に向かった。鈴子と辻が大切そうにショップの袋を抱えて、内緒話をしているの微笑ましく見ながら。
「お前ら、何こそこそしてんの」
 矢野が隣に並んで笑うと、辻が「内緒っ!」と舌を出した。
「真咲、先に行こう! いいよね、お兄ちゃん」
「ああ、車に気をつけろよ」
 鈴子が辻と手をつないで、通路を駆けていった。
「かーわいい! あれ、絶対男の子へのプレゼント買ったんだよ」
「男ぉ!? 色気ゼロじゃん、特に辻」
「……まぁ、確かに辻は色気ないですけどね」
 好き勝手言いながら見送る三人の前で、その事故は起こった。

 あっという間の出来事だった。耳障りな音のあとに、悲鳴が幾重にも重なって空気を切り裂いた。建物から飛び出してきた車が、何の躊躇もなく人ごみにつっこんで行く。
 車になぎ倒された人波の中、鈴子と辻はあっという間に見えなくなった。周りがパニックに陥る。
 耳元で悲鳴を上げる桃子を尻目に、日崎と矢野は走り出していた。混乱する人波をかきわけて、そこへ向かう。
「鈴子……ッ、辻!!」
 うめく人々の中に、二人はいた。頭から血を流した辻が、鈴子を抱きしめるようにして倒れていた。しっかりとその手は繋がれたまま。
「矢野さん、救急車!」
「今、呼んでる」
 日崎が叫びながら跪く。矢野は携帯から救急に連絡をとり、座り込んだ日崎に問い掛けた。
「二人の状態は?」
「意識無し、脈はあります。とにかく早く!」
 そのまま救急センターに伝えて、矢野も二人の側にしゃがみこんだ。見る限り、辻の方が重傷だった。頭部からの出血はアスファルトにどんどん広がっていて、名前を呼んでもピクリとも動かない。右側から叩きつけられたのか、顔や腕の右側にすり傷があって、右足も不自然に曲がっていた。
 日崎が辻を動かさないように注意しながら、その腕の中から鈴子を抱き起こした。
「鈴!」
 見た目に外傷はほとんど無い。けれど、その顔色は真っ青だった。その目が震えながら開かれる。
「……お、にいちゃん……」
「大丈夫か?」
 安堵した日崎だったが、鈴子の目が辻を捕らえた瞬間、その右手が、左胸を強く押さえた。
「う……ぁッ」
 苦しげに顔が歪む。心臓の発作だった。そのまま鈴子も意識を失った。
 救急車が来るまで、日崎は鈴子を抱きしめ、その左手首に手を置いて、時計を見ながら心拍を数えていた。いままでの経験上、大きな発作ではなかったのに、少しずつ弱くなっていく脈拍に不安が増した。
 運ばれた病院で、辻と鈴子の状態を説明されて、打ちのめされた。鈴子は、内臓破裂の重傷で、今すぐ手術が必要だった。辻も脳内出血の可能性がある為、検査後でないと何もできないということだった。
 両親と、辻の母に連絡をとり、ただ手術室の前で待った。
「……残念ですが……」
 二時間後、手術室から出てきた医師は、低い声で鈴子の絶命を告げた。

 両親が放心状態だった為、葬儀の手配や学校への連絡は、日崎が行った。葬儀当日はマスコミも駆けつけ、あまりの無神経さに怒りが湧いたが、努めて押さえた。葬儀の前後は、忙しさに紛れていたが、落ち着いてからの喪失感と悲しみは、容赦なく家族を襲った。
(こんなときは、「どうするべき」なんだろう)
 ぼんやりと考えていた日崎は、そんな自分の考えに突然背筋が寒くなった。
 妹が死んだ。両親は悲嘆にくれている。なのに自分は、その両親にどう接すればいいのか、どんな反応をすべきか『考えて』いる。
 無意識の自分の思考が怖かった。
(そういえば、いままでだって ――― )
 いい息子、いい生徒、いいお兄ちゃん……。どうすればそう思われるのか、常に考えていたのではないのか。周囲の視線に動かされてはいなかったか?
 そのとき彼は、自分というものが消えてしまったような気がした。中身が空っぽだということに気付いてしまった。
 自分のそれまでの生き方を、自分自身で否定した。

 自宅にいると息が詰まりそうで、大学の近くにマンションを借りた。もう二度と、他人の視線を気にするようなことはしたくなかった。自分のやりたいことを、とりあえず見つけたいと躍起になっていた。
 それでも、静かな夜に、ふと鈴子のことを考えることがあった。
(ちっとも、いいお兄ちゃんじゃなかったな)
 鈴子を可愛く思っていたのは本心だが、『いいお兄ちゃん』を演じていたのも事実である。罪悪感が彼を責めた。
 精神的にも参って、満足に就職活動もしていなかった。そろそろ先のことを考えなければ、と思っていたときに、バイト先の上司から、このまま正社員になる気はないかと打診を受け快諾した。
 就職と同時に、辻が一人暮らしすると知って、日崎の側から同居を提案した。やはり女子高生の一人暮らしは危険だし、辻自身が「日崎と暮らせれば」と希望しているのを知っていたからだ。両家がこれまで家族ぐるみでつきあってきたせいもあって、話はすんなりと決まった。日崎は辻と同居する為に、会社近くの3DKのマンションに引っ越した。

「和人さんと居ると、すごく安心する。鈴子と一緒にいるみたい」
 辻がそう言ったとき、何を考えていたのか、日崎には知る術もなかった。ただ、子供の頃のままに笑っている顔を見て、その頭を撫でた。
「……今まで通り、兄ちゃんでいてやるよ」
 ――― 鈴子への後悔を、繰り返さないように。
 お互いの中に鈴子を感じながら、二人は生活を始めた。
 辻が高校三年になった今でも、日崎にとっては大事な妹分だった。



 軽やかなインターフォンの音に、日崎は目を覚ました。窓辺に座ったまま、うとうとしていたらしい。
「ただいまー」
 玄関から辻の声が響いた。あくびをしながらリビングに向かうと、辻が声をたてて笑った。
「和人さん。今まで寝てたの?」
「ああ、よく寝た」
 顔を洗ってリビングに戻ると、辻がコーヒーを持ってきた。
「学校行ってたのか?」
「うん。佐々木先生に呼ばれて。お昼ご馳走になっちゃった」
 カフェオレの入ったカップを両手に、辻が頷く。
 最近、辻は帰宅が遅かった。美術の先生に個人的にモデルを頼まれたとかで、放課後は毎日美術室で過ごしているらしい。今日のように、土曜日に呼ばれることもあった。
先週の月曜、遅くなったからと、わざわざその美術教師 ―― 佐々木千代と言った ―― が辻を送ってきて、ご丁寧に挨拶して帰った。目の細い、知的な感じのする女だった。
「辻が、モデルね……」
「ただの絵のモデルよ。ママとは違いますから」
 辻は落ち着いた微笑みを浮かべて、日崎を見返した。
 辻の母は、現在アメリカにいる。ずっと通訳の仕事をしていたが、知り合った会社重役にスカウトされて、その会社の秘書になった。昔モデルをしていたというのは、最近辻に教えられた事実である。言われてみれば、あのスタイルの良さに納得するしかない。
 血は争えないというやつだろうか、日崎から見ても、ここのところの辻は綺麗になったと思う。凛としているのに、どこか儚さがあって、どんどん艶を増していく。
(苦しい恋を、しているからだろうか)
 開け放した窓から、涼しい風が入ってきて、辻の髪を揺らす。ゆるくひとつに結った髪の後れ毛が、ゆらゆらと日崎の視界の隅で踊った。
「久々に晴れたな」
「うん、朝からいいお天気。こんな日に半日眠ってたなんて、もったいないことしたね、和人さん」
「贅沢でいいだろ」
 軽く笑いあう、こんな穏やかな時間が好きだった。
「ご飯まだだよね。今日は私が作ってあげる」
「じゃあ、お言葉に甘えて。軽めで頼む」
 家事分担は明確に決めていなかったけれど、料理はほとんど日崎がしていた。ただ単に趣味だからだ。凝り性なので、学生時代に自炊を始めた腕前は、現在では自宅でピザ生地を作るぐらいになっている。彼にいろいろ習った辻も、もともと料理をしていたこともあって、それなりにレパートリーを増やしていた。
「鶏肉あったから……グリルパンで焼いてレモン絞ってー、レタスと一緒にパンに挟もうか。トマトも一緒がいいかな?」
 日崎が頷くと、辻は嬉しそうにキッチンに向かった。

 一緒に暮らして二年、日崎と辻の生活は、何の問題もなく続いている。二ヶ月に一度ぐらい、真琴が帰国するので、辻はそのときだけ外泊する。その為に学校を休むこともあるほど、辻は真琴に会うのを楽しみにしていた。
 そんな辻が、たった一度だけ、他の男のところに泊まった。二ヶ月前、矢野からかかってきた電話……『今日、辻を泊めるから』。
 日崎はダメだと言い張ったが、『辻には、俺にしかできない相談だってあるんだ。学校でのこととか』と言われ、渋々承諾した。
 真夜中に、連れ戻しに行けばよかった。今更ながら、日崎はそう思う。
 あの夜以来、日崎は矢野と会っていない。もちろん、辻が学校以外で矢野と会うこともなかった。電話やメールで連絡はとっていたし、お互い仕事が忙しいせいもあったけれど、それだけではないような気がした。
 矢野のところから帰ってきて、矢野のことが好きだと、諦められないと泣く辻に、日崎は言った。
『やっぱり、こんなの辻らしくないと思う。お前が自分で決めたことだから、仕方ないけど。
 ――― だけど、俺、矢野さんのこと嫌いになりそうだよ』
 わずかに眉間に皺を寄せた日崎を見て、辻は困ったように微笑んだ。


03.06.19

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