9999Get、胡蝶さんへ捧げます。
Keep The Faith番外編
 
月下逢瀬◆4

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 ざわめく人波にまぎれて、矢野と辻は旅館へ帰った。夜の空気よりも、つないだ手が熱かった。花火の途中のキスから言葉は用を成さず、絡めた指に時々力を込めて、何かの合図のように繰り返していた。
 早く。早く二人だけの時を過ごしたい。
 お互いの感情が先走る。こうなると、もう浴衣の裾から覗く素足さえ艶かしく映る。
「辻」
 すぐ近くで繰り返す波音よりも低く、矢野の声が辻に届いた。
「……何?」
「風呂は、後な」
 意味深な笑みを浮かべた矢野に向かって、辻はこくんと頷いた。何の後かなんて、聞かなくてもわかる。
(……嬉しいとか言ったら、はしたないのかな)
 笑みを隠すように俯いた辻の頬に、結い上げた髪が影を落とす。矢野は、その場で抱きしめたい衝動を押さえて、あえてゆっくりと歩いた。時間はたっぷりとある。
 広がる夜空には、主役に返り咲いた半月が浩々と輝いていた。



 旅館の部屋に帰るなり、矢野は辻を抱きすくめた。間接照明だけが灯った部屋には、二組の布団がきちんと敷かれていた。

「矢野さん……なんで、いつも背後から抱きしめるの?」
「いろいろと都合がいいから」
 辻の耳元でくすりと笑うと、矢野は辻の帯を解きにかかった。結び目をほどいて、腰に巻いてある部分をひっぱると、時代劇の腰元よろしく、くるりと辻の体が回る。よろけて胸にすがり付いてきたのをこれ幸いと抱きしめて、矢野は辻の顎に手を掛けた。音をたてて、軽くキスをする。
「浴衣とか布団とか、いつもと違うのって、燃える」
「矢野さんは、そういうシチェーションとか関係ないでしょ? すぐ抱きたがるし」
「拒まないのは誰だよ」
「だって好きだもん……矢野さんに触られる、の」
 するりと浴衣の襟元に、矢野の左手が入り込んで、あっという間に辻の肩から浴衣をすべり落とす。辻の髪から簪を抜くと、黒髪がさらりと落ちて広がった。ひょい、とその体を抱え上げて、奥の布団に横たえる。カーテンを開けたままの窓から、ライトに照らされた内湯と、その上を覆う緑の紅葉が見えた。
 下着姿で横たわる辻の上、覆い被さるようにして、矢野は彼女を見つめていた。
「……何、緊張してんの」
「わかんない。なんでかな、すごいドキドキしてる。初めてでもないのに」
 見上げてくる辻の耳元で、大丈夫、と囁いて、矢野は上体を起こすと、自分の帯に手を掛けた。
 ――― その瞬間。
 部屋に備え付けの電話がけたたましく鳴って、二人の動きを止めた。矢野は床の間に置いていた腕時計に目をやって、首を傾げる。貸切露天風呂の予約時間まで、まだ一時間ある。フロントからだろうか?
 矢野は立ち上がって、鳴り続ける電話の受話器をとった。

「もしもし」
『――― 矢野さんですか?』
 受話器から聞こえた聞き慣れた声に、矢野は驚きのあまり、声を失った。咄嗟に電話のランプを確認するが、間違いなく内線。
「日崎!? な……ッ、お前、この旅館に来てんのか!?」
 この言葉に、半裸のまま布団で転がっていた辻もガバッと体を起こした。
『すいません。どうしても連れて行けっていう人がいて。今からそっちの部屋に行っていいですか?』
「駄目に決まってるだろ! お前ね、過保護にも程があるぞ。
 ……って、ちょっと待て、日崎一人じゃないのか!?」
『――― 真琴さんと一緒です。ちなみに、もう彼女はそっちに向かいました』
「はぁっ!? 状況を考えろよ!!」
 ガチャン! と受話器を叩きつけた矢野の側に、不穏な気配を察知した辻がちょこんと座った。
「まさか、和人さんも来てるの?」
「それどころか……真琴さんも来てるって」
 辻も、あまりの事態に絶句した。恐ろしい沈黙の中、コンコン、と響いたノックの音に、二人は文字通り飛び上がった。
「……ッ、辻、お前、内湯入ってこい! 今から浴衣着る時間はないだろ。カーテン閉めて、部屋からは見えないようにしておくから。真琴さんは、日崎と俺でなんとかする。わかったな?」
「わかった……けど、ママはそう簡単に帰らないと思うよ」
 全く持って同感だったが、初めての旅行を、ハイそうですか、とぶち壊されるわけにはいかない。矢野は辻が内湯に入るのを確かめてから、気合を入れて部屋のドアをあけた。

「こんばんは、矢野君」
 辻とよく似たくっきりとした二重の瞳が、矢野を見上げていた。旅館の浴衣に見を包んだ辻真琴は、どこから見ても完璧な大和撫子だが、矢野はその背中に、悪魔の翼を見た気がした。
「――― どうも、こんばんは。
 どうして真琴さんがここへ? 今日は、ご友人と過ごされるって聞いてましたけど」
「そこまで真咲に聞いてるのね。
 旅行に行くって真咲は言ってた。でも、相手はキミじゃなくて和人君のはずよ。これはどういうことかしら?」
 真琴の後ろで、息を切らせた日崎が申し訳なさそうに顔を歪めた。矢野は歯軋りしたい苛立ちを抑えて、とりあえず予定外の二人を部屋へと招きいれた。廊下で立ち話では、収まりそうに無い。
「……いいお部屋ね。あの子は?」
「――― 入浴中です」
 低い矢野の声に、そう、と頷くと、微笑みを浮かべていた真琴の顔がすうっと険しくなった。なまじ綺麗な顔立ちなだけに、睨まれただけで息をのむような迫力がある。
「矢野君には悪いけれど、今日真咲と泊まるのは諦めてちょうだい。私とあの子が同室。キミと和人君が同室。いいわね?」
「嫌です。俺も辻も、今回の旅行を楽しみにしてたんだ。
 今まで俺たちのことを黙認してきた真琴さんが、どうして急にこんなマネするんです!?」
 負けずに睨み返した矢野を、真琴はしばらくじっと見ていた。日崎は、部屋の入り口で、事の成り行きを見守っていたが、その顔は、とっくに事態の収拾を諦めていた。彼が知る限り、一対一で真琴に勝てた男はいない。
「真咲が嘘ついたからよ。正直に、矢野君と旅行に行くって言えば許したのに。
 今度旅行するときは、私が国外にいるときにするのね」
 そう言われては、何も言い返せない。

 絶句する矢野を一瞥すると、真琴は音も立てずに部屋の奥へ足を進めた。カラカラと内湯へと続くガラス戸を開けると、淡いライトの中、檜作りの露天風呂に浸かったままの辻が、気まずそうに真琴を見上げた。
「――― ここにいたの、嘘つきな娘は」
「……ちゃんと、温泉に行くって言ったわ」
「相手が矢野君だって、どうして言わなかったの?」
 辻は唇を噛むと、ぷくんと顔の半分をお湯に沈めた。
(いくらなんでも、ママには言えないよ。もう、そういう関係ですって、教えるようなものじゃない!)
 黙りこくった辻を見て、真琴は溜息をついた。後ろ手にガラス戸を閉めて、部屋の中に声が聞こえないようにする。浴衣の裾を捲くって、足だけをお湯に浸し、真琴は小さくなって拗ねている辻の頭を撫でた。
「……とにかく、今日は私と一緒に泊まりなさい。矢野君とは別。いいわね?」
「いくらママの言うことでも、嫌!」
「真咲」
 厳しい声で名前を呼ぶと、辻が水音をさせて、立ち上がった。裸を隠そうともせずに、キッと真琴を見たその大きな瞳に、見る見る涙が浮かび上がる。
「だって……っ、初めての旅行なのに。矢野さんが、誕生日プレゼントだって、誘ってくれたのに! 夏休みになってから、あんまり会えなくて、すごく楽しみだったの。
 ママに嘘ついたのは、恥ずかしかったからよ。信用してないわけじゃ、ない」
 しくしくと泣き出した辻は、真琴から見れば子供の頃のままだったが、その胸元には艶やかなキスマークがくっきりと刻まれていた。見逃す真琴ではなかったが、十七歳にもなれば、全て自己責任だと彼女は思っている。恋人が出来たのなら、肌を重ねるのは自然な行為だ。そのことについて咎める気はない。
(……泣かれると、弱いのよね)
 苦笑を浮かべて、真琴は近くの籠からバスタオルをとって、愛しい娘の頭からかけた。タオル越しにやさしく頭を撫でて、頬を流れる涙を拭う。
「仕方ないなぁ。じゃあ、ひとつ提案ね。そのかわり、矢野君には内緒よ?」
 そう言うと、真琴は悪魔のように魅惑的な笑顔を浮かべて、辻の耳元で長い内緒話をした。


 
 一方、部屋に取り残された二人の男は、気まずい雰囲気で内湯の方を眺めていた。と言っても、矢野自身が大きなカーテンを引いて目隠しをしていた為、露天風呂の様子は全くわからない。

「……なんで真琴さんにバレたんだよ」
 畳の上で胡座をかいた矢野が、立ったままの日崎に問い掛ける。
「辻の携帯に掛けても出ないからって、俺の携帯に連絡あったんです。辻に換われって言われて、今別行動中なんで後で掛けさせますって言った途端に『キミ、今仕事中でしょう』ってズハリ言われて、もう誤魔化しようもなかった。すいません」
「だからって、連れて来なくてもいいだろ……」
「俺の監督不行き届きと言われたら、それまでですよ。
 仕事終わって帰宅したときには、旅館に予約入れた真琴さんが待ってましたからね。怒らせると怖いですよ、あの人は」
「や、もう身に染みた」
 矢野は、大きな溜息をつくと、肩を落としたまま、ぎゅうっと両手の指を組んだ。
「辻と一緒に泊まるの、許してはもらえないんだろうな……」
「わからないですよ。なんだかんだいいつつ、真琴さんも辻には甘い。親子で、どんな話してるんでしょうね」
 かすかな希望を抱いて内湯を見やった矢野だったが、しばらくして現れた真琴の顔は、満面の笑みだった。それに比べて、開いた戸の向こうから、ちょこんと顔だけを覗かせた辻は、涙で潤んだ瞳で哀しそうに矢野を見つめていて―――。
「部屋割り決定」
 続く勝ち誇った真琴の言葉に、絶望の淵にいた矢野は、そのまま奈落に突き落とされるような気がした。
 ――― 貸しきり露天風呂の予約時間を告げに来た仲居は、異様な部屋の雰囲気にしばし声を失ったらしい。


03.09.17

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