9999Get、胡蝶さんへ捧げます。
Keep The Faith番外編
 
月下逢瀬◆3

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


 矢野が浴場から部屋に帰ると、辻の姿がなかった。部屋の奥の内湯にもいない。
「辻?」
 強い声で名前を呼ぶと、バスルームから返事が聞こえた。矢野は安堵の息を吐くと同時に、いたずら心を起こして、バスルームへと続く引き戸を開けた。
「お、色っぽい」
「……急に開けないでよ。ちゃんと着てから見せたかったのに」
 洗面所の大きな鏡越しに辻に睨まれたけれど、矢野はにっこり笑って足を踏み入れた。

 矢野の予想に反して、辻は裸ではなく、髪を結い上げ、浴衣を着ている途中だった。帯を体の前で器用に結んでいる。紺地に白と薄紅の桜が舞う浴衣に、赤い帯。古風な組み合わせが、逆に初々しさを感じさせた。
 しばらく辻が真剣に帯を結ぶのを見ていた矢野だが、すっと彼女の背後に立って、背中から腕を回した。
「和装って、そそる」
「そんな甘えた声出してもダメ。もう夕食まで時間無いよ?」
「少しだけ」
 あくまでゆるく回されただけの矢野の腕に嘘はなくて、辻は呆れながらも頷いた。目を伏せて辻の肩に顔を埋める矢野は、とても安らいだ顔をしていた。鏡に映ったそんな矢野を見て、辻は胸の奥がきゅうっと苦しくなった。
 いつもよりずっと、矢野が近い。物理的にという意味ではなく、そう思った。
 背中や項に矢野の温かさを感じながら、ぽうっとなっていた辻だが、はっとして目を見開いた。
「矢野さん」
 首を仰け反らせて、背後の矢野に声を掛ける。
「その浴衣脱いで、部屋で待ってて。すぐ行くから」
「は?」
「いいから。言う通りにして?」
 そう言った辻が、あんまりにも艶やかで、矢野はワケのわからないまま頷くと、バスルームを出て広い和室の真ん中で、旅館備え付けの浴衣を脱いだ。風呂上りの体は、まだ少し汗ばんでいる。本人は気付いていないが、トランクス一枚で和室に立っている図というのは、かなり間抜けだ。
(辻のヤツ、何考えてるんだ? 夕食まで30分も無いのに)
 とりあえず座布団の上に腰を下ろすと、音も無く引き戸を開けて、浴衣を着終わった辻が出てきた。
「お待たせしました」
 しずしずと歩いて、辻はクローゼットの中の荷物から、風呂敷包みを取り出した。畳の上で結び目をほどくと、涼しげな白地に紺縞の浴衣が出てきた。辻は楽しそうにそれを広げると、風呂敷の中から更に、紺地で上部に白い模様が入っている角帯を取り出した。
「……俺の分も、持ってきてたのか?」
「うん。一緒に浴衣着て歩きたかったの」
 辻は頬を染めて、畳の上に浴衣を広げた。矢野に立つように言って、浴衣を手に背後に回りこむ。
 辻は矢野の腕に肩袖を通すと、肩にかけて、もう片方の袖も通した。
 矢野は成すがまま、畳をこする衣擦れの音に耳を澄ませ、目の前で襟元を合わせている辻をじっと見つめていた。自分だけが半裸で、辻が全くその気も無く肌に触れてくるという異常な状況に、気分が高揚するのを押さえられなかった。
「浴衣着せられるのなんか、初めてだ」
 気をそらそうとして掛けた声まで掠れる。
「新鮮でしょう?」
 ふふ、と笑うと、辻は跪いて帯を矢野の腰に回した。腰骨の位置を手で確かめ、しゅるしゅると帯を滑らせながら、膝立ちのまま矢野の背後に回る。
「苦しくない?」
「大丈夫。よく男帯の締め方まで知ってたな」
「知らなかったよ。この旅行決まってから、知り合いの呉服屋さんに行って教えてもらったの。この浴衣も、そこで貸してもらったんだ」
 話しながらも辻の手は止まらず、ものの15分ほどで矢野は浴衣姿になった。

「似合う! すごい粋。ね、眼鏡外して?」
 辻のおねだりに矢野が逆らえるはずもない。眼鏡を外した矢野は、辻に引っ張られてバスルームの鏡の前に立った。
(……我ながら、結構似合ってんじゃないか?)
 辻に煽てられたせいもあって、矢野は浴衣が気に入った。下腹で締められた帯で、気分までキリリとしてくる。予想より涼しいのも意外だった。

「失礼致します。御夕食の支度が出来ましたので、お持ちしてもよろしいでしょうか?」
 襖越しに仲居の声が届いて、矢野と辻は、そろって「はい」と返事をした。
 夕食の膳は予想以上に美しく、また美味しくて、二人は笑顔と言葉を絶やさずに食事を終えた。旅館の仲居は、二人の浴衣姿に驚いて、帯を結んだのが辻だと知ると、手放しでその出来栄えを褒めた。矢野は誇らしい気分で、照れて赤くなった辻を見ていた。



 花火が始まる30分前に、旅館を出た二人は、下駄をカラコロと鳴らしながら、手を繋いで海岸沿いの遊歩道を歩いた。同じように花火会場に向かう人に紛れて、ゆったりと進む。

「まだ少し明るいね」
 水平線は薄ぼんやりとした藍色で、高くなるにつれて色を深くする夜空には、半月と橙色の火星が輝いていた。それに負けじと、道の両側には色とりどりの提灯が可愛らしく灯って、夜店へと誘う。
「東京カステラ食べるか? ピカチュウの形してるヤツ」
「あはは! いい匂いだけど、今はお腹いっぱい」
 人ごみを縫って、二人は浜まで出た。人はますます増えていく。
「あの人、佐々木先生に似てる」
 浜辺を歩く人たちを見て、辻がぽつりとつぶやいた。眼鏡を外した矢野には、遠くを歩く人の顔は判別不可だ。
「何言ってんの。こんなトコに千代ちゃんが居るわけないだろ」
「そうだよね」
 防波堤から浜へと下りる階段の端に腰を下ろして、辻は矢野の肩ににもたれかかった。矢野は団扇を仰ぐ手を止めて、いつもより甘える辻を見下ろす。出掛けに髪に刺した簪が、月の光を跳ね返す。
「辻」
「ヤノッチ」
 二つの声が重なった。
 辻の名を呼んだのは、もちろん矢野。そして、もうひとつの声は。

「ハーイ。奇遇だね」
 月明かりと提灯でほの明るい浜辺。二人に向かって声を掛けたのは、矢野が危惧していた人物だった。深く深く、矢野の口から溜息が漏れる。
「……千代ちゃん。そんなに俺に会いたかったワケ?」
「イヤだなぁ、偶然だってば。花火見に来たんだよ。二人とも、浴衣似合うね」
 語尾に音符がつきそうな千代の口調に、矢野は怒る前に呆れた。
 確かに、辻と旅行に行くことを千代に話した。『どこへ?』と問われて、浮かれて素直に答えたのも事実だ。調子にのって、花火大会があることまで話した気もする。迂闊だった。
「佐々木先生、お一人ですか?」
「いや。連れが一人……って、おーい。東郷」
 少し離れた場所で、呆けたように辻と矢野を見つめる少年がいた。二人にとっても、見覚えのある顔。
「……東郷まで連れてきて」
 天を仰ぐ矢野の隣で、辻は大きな目を瞬いた。
 東郷唯人は、辻と同じ高校に通う二年生で、千代と仲良しの美術部部長だ。生徒に見られるのは、やはりよろしくない。それでも繋いだ手を離さないあたりが、矢野らしい。
「え、辻先輩と矢野先生って……え?」
「つきあってるの!」
 辻の彼氏は北沢だと思い込んでいた東郷の前で、辻は矢野の腕にしがみついた。笑みを浮かべた薄く色づいた唇が、無言で東郷を威圧する。これ以上邪魔しないでね、というシグナルを感じて、東郷は口を閉じた。険しい顔をしていた矢野も、顔をほころばせる。
「で、二人はなんで一緒に来たんだよ。そういう仲なの?」
 矢野は、もうどうでもいいか、とばかりに辻の肩に手を回して、砂浜に立つ千代と東郷を見た。
「部の顧問が、日頃熱心な部長にご褒美上げようと思い立っただけだよ」
「こんなトコまで?」
「そう。こんなトコまで」
 千代は、細い目をさらに細めて、にやりと笑った。
(絶対、嘘だな)
 矢野が冷ややかな目で応えたとき、一斉に提灯の明りが消えた。一瞬何も見えなくなる。人々のざわめきを打ち破るように、突然夜空に大輪の花が咲いた。どんッ、という音が腹に響いて、体を貫く。魂に語りかける音と色。月も火星もかき消して、紺色の闇は流れる光で埋め尽くされる。
 会話も忘れて、四人は夜空を見上げた。千代と東郷も、階段の一番下に座っておとなしくなる。
 
 花火も終わりに近づいた頃、千代と東郷が階段を登ってきた。
「もう帰るのか?」
 同じ段に立った千代を見上げて、矢野が言うと、千代はまだ続く花火に目を向けた。
「終わってからだと、道が混むからね。それに、今から二時間ドライブだし。あんまり遅くなっても、マズいでしょ」
 アタシはいいけど、と小さな声で付け足した千代。東郷は辻と何か話していたけれど、続けて上がる花火の音にかき消されて教師二人にその声は聞こえない。

「千代ちゃんさ、本当は東郷と一緒に花火見たかっただけじゃないのか。俺への嫌がらせでここまでしないだろ。どっちが口実?」
「……ヤノッチ、まだ懲りてないの? 口は災いの元だよ」
 ニッと笑うと、千代は軽く東郷の肩を叩いた。手で、行くよ、と合図する。
 矢野に軽く頭を下げて、東郷も千代の後に続いて去っていった。人波に消える人騒がせな二人を見送る矢野には、千代の心の底はわからなかった。
「東郷と何話してたんだ?」
「まだ帰らないんですか、って聞かれた。泊まりだから時間は気にしてないって言ったら、黙っちゃったけど」
「……そりゃ、黙るだろ」
 耳元で話すので、吐息がお互いの耳を掠める。矢野と辻は視線を合わすと、どちらからともなく顔を寄せた。ゆっくりと口づけを交わす二人を、重なる花火の光が遠慮がちに照らしていた。

 相手のことしか目に入らなくなった二人は、明日へと続く甘い時間を信じて疑わなかったが、旅館では新たな受難が二人の帰りを待っていた。


03.09.10

NEXT : BACK : INDEX : HOME  


Copyright © 2003-2006 Akemi Hoshina. All rights reserved.


inserted by FC2 system