7777Get、naoさんへ捧げます。
Keep The Faith番外編
 
恋待ちの君◆3

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【side:H】

 夏休み前期補習期間。
『夏休み』なんて名前だけで、普通に授業に通ってる感覚のままだ。選抜クラスの受験生には、盆も正月も休み無しで当たり前。それでも、14時には学校を出られるので、自由時間は満喫できた。

 前期補習最終日のその日、僕と井上、そして沢渡と合田さんは、皆で息抜きに映画を見に行くことにした。夏休み中だけあって、街を歩く人は多い。
 4人で行ったけれど、井上と合田さんはやっぱり並んで歩くので、必然的に僕は沢渡と話した。
 その日、彼女が手にしていた本は、万葉集。
 活字中毒者の性なのかな、移動中に読めるように、いつも本を携帯するのは。
「沢渡は、本当に古典好きだよな。漢文とかも得意?」
「まあ、大抵読めるよ。でも、日本の古典の方がずっと好き。言葉がとにかく綺麗で、洗練されてるから。日崎君は、漢文好きだよね?」
「好きなだけで、得意じゃないよ。僕が興味持ったきっかけが、そもそも三国志だから」

 沢渡と仲良くなったきっかけも、三国志だったと思い出す。
 委員会のとき、隣に座った彼女が、吉川英治の「三国志」を読んでいたのだ。その時、僕も小脇に同じ本の次の巻を抱えていた。お互いに相手の持っている本を知ったとき、自然に会話が生まれた。
 僕が『三国志人物辞典』を持っていると知ると、土下座するような勢いで貸して欲しいと頼んできて、思わず笑ってしまったのを思い出す。
 面白い子だと思ったんだ。正直言って、あまり話し易いタイプじゃないし、頭の回転が早くて、時々会話に振り落とされそうになるけど、とにかく自分の知識欲に正直なんだよな。ガリ勉で首席キープしてるというよりは、勉強が面白くて仕方ないっていう風に見える。

「万葉集って、原文読んで意味わかるものなのか」
 いくつか資料集で見たけれど、そんなに読み易いものではなかったと思う。
「わかるよ、結構簡単。例えばね……
 ――― うち日さす 宮道みやぢを人は 満ち行けど わがふ君は ただ一人のみ
 ……ね、なんとなくわかるでしょう?」
 いや、わからないって。そう心の中で即答しつつ、沢渡が口にした短歌を反復する。
「冒頭はよくわからないけど……人はたくさん居るけど、自分が好きな人は一人しかいないって、こと?」
 沢渡の目が、眼鏡越しに嬉しそうだったので、あながち外れてはいないとわかった。

「うち日さす、は宮道に掛かる枕詞。宮道は、そのまま、宮に続く大通りぐらいの意味。たくさんの人が道を歩いてるのね。でも、こんなにたくさん人がいるのに、好きな人は、この世にたった一人しかいないんだって、実感している歌。
 今でも、よく言うよね。どんなに人ごみに埋もれていても、視界に入った瞬間、好きな人がどこにいるかわかるって」
「そういうもんかな」
「そういうものでしょ。ね、美弥?」
 いつの間にか、井上と合田さんが僕らの話を聞いていた。合田さんは、沢渡の言葉に、少し頬を染めて頷いた。
「うん、わかるよー。なんかね、たくさんの人の中にいても、視線が吸い寄せられるみたいに、達也を見つけちゃうの」
 井上が蕩けそうなカオで合田さんを見ている。
 ……なんだか、この二人につきあって映画行くのが馬鹿らしくなってきた。沢渡も同じように思っているらしく、呆れたカオをしている。
「ただでさえ暑いのに」
 ぼそっと沢渡が呟いたとき、前から急いで歩いてきた男の肩が、彼女に当たった。平均より少し背の低い彼女の、横顔に。

「うわっ、すいません!」
 男が焦った声を上げたとき、パキンと不吉な音がした。
「……あ」
 沢渡が低くつぶやく。その顔からは、トレードマークの赤いフレームの眼鏡が消えていた。男は足元から、フレームが曲がってレンズの割れた眼鏡を拾い上げて、沢渡に何度も頭を下げた。
「本当、すいませんーッ。弁償します。
 でも、今時間無いんで、これで。足りなかったら、連絡下さい!」
 気弱そうな男は、早口にそう言うと、名刺と一万円札3枚を沢渡の手に押し込んで、再び人波に飲まれていった。なんて慌しいんだ。

 沢渡は呆然としている。
「……どうしよう。眼鏡なかったら、全然見えない」
 その口から漏れた言葉に、最初に反応したのは、合田さんだった。
「茜、スペアの眼鏡持ってる?」
「家に帰ればあるけど……眼鏡二つも持ち歩いてないよ」
 沢渡は、そう言って、握らされた名刺を顔のまん前まで持っていった。
『あんなに頼りなさそうなのに、課長って勤まるのね』なんて言ってるけど、そんな近くまで持っていかないと見えないくらい、視力悪いんだな……。
「ザキ、沢渡送って行ってやれよ。映画も見えないし、それじゃ一人で帰れないだろ」
 井上に言われるまでも無い。こんな途方に暮れてる沢渡、初めて見た。
 合田さんもそう思っていたらしく、ぱちぱちと瞬きする沢渡を見てくすっと笑った。
「……なんか、茜、眼鏡無いと可愛いねー。コンタクトにすれば?」
「本当にイメージ変わるな。少しは可愛げ出るぞ」
 井上まで。予想通り、沢渡は急に不機嫌な顔になる。
「はいはい、勝手に言ってて。コンタクトって、目が疲れそうで嫌なの」
「俺は、眼鏡の方が疲れるけどな」
 コンタクト愛用の井上は、沢渡の意見を鼻で笑った。ああ、コイツはまたワザと沢渡を怒らせている……。

「ま、後はザキに任せるわ。じゃあな」
「日崎君、茜のことよろしくねー」
 怒らせるだけ怒らせといて、井上は合田さんと手を繋いで去っていった。全く、周辺温度が三度は上がるよ。いつまで経っても仲がいいよな、あの二人は。
「僕らも行こう、沢渡」
 え、とこっちを向いた沢渡は、なんだかあどけない。いつもキリッとして見えるのは、眼鏡のせいなのか?
「……申し訳ないけど、家まで送って。本当に遠くは見えないの」
「僕の顔はわかる?」
 お互いの距離は1メートルにも満たない。沢渡は、しゅんと肩を落として、「ぼんやりわかる」と小さい声で言った。叱られた子供みたいで、見ていて微笑ましい。本人に言ったら、怒るんだろうな。
 黙って彼女の手を握ると、弾かれたように顔を上げた。構わずにそのまま歩き出す。慌てて隣に並んだ顔は、かすかに赤い。

「沢渡、眼鏡無いと、なんか頼りなくて可愛いな。放っておけない感じがする」
「……今、手を放されたら、すっごく困るんだから。放っておかないでよ?」
 この憎まれ口! やっぱり、沢渡は面白い。
 


【side:S】
 
 眼鏡を外したまま、天井を見上げる。なにもかも輪郭がはっきりしなくて、優しいフォルム。
 結局、あの日の眼鏡は修理不可。あの赤いフレーム、女教師みたいで気に入ってたのにな。でも、新しい眼鏡を作ろうかどうしようか、迷っている。手元に、他のデザインの眼鏡は二つあるから、作らなくてもとりあえず困らないし……。

『沢渡、眼鏡無いと、なんか頼りなくて可愛いな。放っておけない感じがする』

 ああ、また思い出してるよ、日崎君の一言。
 あのとき、はっきり目が見えなくてよかった。至近距離で、彼の顔見ながらあんなセリフ聞かされたら、きっと何も言えなかった。恋愛免疫ないからなー、私。考えただけで恐ろしい。
 彼は、どうしてああいうことをサラッと口にできるんだろう。……だからモテるのか?
 明日から後期の補習が始まる。どんな顔で日崎君と会えばいいのか、考えてる自分がおかしい……って、昨日からこればっかり。悪循環。
 こういうときは、気分転換だ!
「お母さん、図書館行ってくるー!」
 私は大き目のトートバッグに筆記用具を詰め込んで、暑い日差しの下、図書館へ向かった。

 図書館の閲覧室は予想通り、学生の姿が目立った。その中に、小さな知り合い二人を見つけて、思わずあたりを見回す。
 どうやら、彼は来てないみたいだ。私は、二人の向かいの席に座って、小さく声をかけた。
「こんにちは」
 二人が同時に顔を上げる。きょとん、とした四つの目。
「茜さん! こんにちはー」
 小声で挨拶を返してきたのは、鈴子ちゃん。辻ちゃんは、相変わらず真っ黒に日焼けして、ノートの上で両手を小さく振っている。ああ、可愛いなあ。解いてる問題も可愛いよ、算数ドリル。
「夏休みの宿題?」
「そう。わかんないとこがあるから、鈴と二人で悩んでるの」
「茜さん、すごーく頭いいんでしょう? お兄ちゃんが言ってた。
 ここだけ教えて欲しいの。ダメ?」
 うわっ、この子たち、自分の武器をきっちり把握してる……! こんな可愛い子に『ダメ?』なんて首傾げられたら、なんでも『いいよ』って言っちゃうよ。日崎君、どういう教育してんだか……。

「構わないよ。どこ?」
 ひそひそと小声で交わす会話は、内緒話みたいで、なんだか楽しかった。話してる内容は、証明についてだけど。ヒントだけ言って、二人が答えを見つけるのを待つ。二人が降参したら、またひとつヒントを。教えるこっちまでワクワクしてくる。
 結局、算数だけでなく、社会(歴史)のテキストまでやって、その後はお互いに借りて帰る本を選んだ。辻ちゃんは、読書感想文用の本を探していて、結局、閉館時間まで三人で過ごしてしまった。
 外に出ても、まだ明るかった。当然か、夏の17時なんて、まだ夕方になったばかりだもんね。図書館の隣の公園も、まだまだ人が多い。
「茜さんが教えてくれた本、どれも面白かったよ!」
「本当? よかった」
 鈴子ちゃんの笑顔に、こっちまで嬉しくなる。知らなかった、私、結構子供好きだったんだな。まあ、相手がこの子たちだからかもしれないけど。
 妹がいたら、こんな感じかな。私には弟しかいないから、なんだか不思議。
「また遊んでくれる?」
「うん。今度は面白い推理小説持ってくるね。少し難しいけど、鈴子ちゃんなら読めると思う」
 
 そのとき、ずっと黙って歩いていた辻ちゃんが、ぴたっと足を止めた。
「鈴、大丈夫? 顔色悪い」
 言われてみれば、鈴子ちゃんの顔色は、白いように思う。体調悪かったのかな?
「大丈夫だよ! 早く帰ろう。真咲、今日はウチに泊まるよね、花火しよう」
 鈴子ちゃんは、笑いながらそう言うと、足早に先を歩き出した。けれど、何歩も行かないうちに、しゃがみこんでしまう。どうしたっていうんだろう?
 辻ちゃんと一緒に追いつくと、鈴子ちゃんは、ぎゅっと眉根に皺を寄せて、目に涙を浮かべていた。額にじわりと汗が浮かぶのが見える。その手は、左胸を押さえていて。
「薬は?」
「カバンの中。青い箱……」
 うめくような鈴子ちゃんの声に、辻ちゃんは素早く動いた。鈴子ちゃんのカバンから青いピルケースを取り出すと、白い錠剤をひとつ取り出す。鈴子ちゃんが口を開けて、それを舌に乗せた。呆然と見ていることしかできない。
「……何?」
「ニトロ。ごめん、茜さん。鈴を見てて! 私、タクシー停めてくる」
 えええ!? ニトロって、心臓発作の薬じゃないの?
 辻ちゃんが瞬く間に見えなくなる。私はしゃがみこんで、鈴子ちゃんの顔を見た。ひっく、としゃくりあげて泣いている。ぼろぼろと流れる涙。
「苦しい?」
 こくん、と頷く姿が痛々しい。何も出来ずに、ただその背中を撫でていた。
「……ごめん、なさいっ。迷惑、かけて」
 泣きながら私に言う。ああもう、何言ってるんだろう!
「迷惑じゃないよ。でも、無理したらダメ。もう少し頑張ってね。タクシー来るから」
 ふるふると、鈴子ちゃんは首を振った。荒い呼吸を、一生懸命静めようとしている。しばらくそうしていて、ようやく大きな息をひとつ吐いた。
「だって、私が発作起こすと……もう、みんな遊んでくれないもの。さっきからね、ちょっとしんどいと思ってたけど、病気のこと、茜さんに知られたくなかったもん……」
 伏せた顔から、ぱたぱたと落ちる涙を見て、言葉に詰まった。

 この子は、どれだけのものを諦めてきたんだろう。外で走り回ることだけじゃない。口に出す前に諦めてしまったものが、たくさんあるんじゃないかな。
「知っても平気! 読書仲間でしょ、まだまだ面白い本はたくさんあるよ。また遊ぼうって、さっき約束したじゃない」
 鈴子ちゃんは、泣き笑いの表情をして、私に抱きついてきた。その背中に腕をまわして、ぽんぽんと叩く。ああ、なんか私まで泣きそう。

 辻ちゃんが車道に停まったタクシーから下りてきて、私を呼んだ。タクシーの運転手さんに頼んで、鈴子ちゃんを後部座席に乗せてもらう。辻ちゃんが助手席で病院の名を告げ、私は鈴子ちゃんの隣に座って、その肩を抱いていた。
 気を抜けば、不安で胸が押しつぶされそうで……車窓に広がる夕焼けを、ただじっと見ていた。


03.07.31

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