2010年ホワイトデー企画 
にぶんのいち ■ 大人の恋にはほど遠く (後編)

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 年齢と経験値がイコールでないことを、杉浦は身をもって知った。

 湯船に浸かると、入浴剤で白く濁った水面が波打った。水沢家は、風呂も一般家庭にしては広い。タイル貼りのレトロな壁なのに、天井を見上げれば浴室暖房乾燥機完備。いきなり風呂場に放りこまれても適温で、杉浦は初めて来た家の見慣れぬ脱衣所で、牛乳臭くなった服を脱いだ。
 少々熱めの湯が心地いい。ぼんやりと目を閉じれば、浮かぶのはさきほどの千夏の唇の感触や腕に抱いた柔い体ばかりで、しばらく記憶を反芻した後、杉浦はいたたまれなくて冷水で顔を洗った。
(どこであんなキスを覚えてきたんだ、あの子は――舌まで入れられた……)

 それは十分ほど前の出来事だ。
 いきなりのキスに面食らった。初めてだというのに、千夏は容赦なく攻めてきた。腕を杉浦の首に回し柔らかな胸を押しつけて、杉浦が彼女の名を呼ぼうと口を開いた途端に舌が入ってきて、杉浦の咥内を撫でた。
 最初は千夏の肩を押しとどめていた杉浦だが、千夏の指先が無意識に杉浦の項を撫でたとき、我慢する気が失せた。首は弱いのだ。腰をぐいと抱き寄せると、背伸びしていた千夏はバランスを崩して杉浦の胸に飛び込んできた。勢い、互いの顔が離れる。至近距離で見た濡れた唇がひどく艶めかしかった。
 いつもより乱れた吐息、上目づかいに傾けた首の角度。誘惑以外の何物でもなかった。これはまずい、ヤバい、場所を考えろと頭の中で警鐘が鳴るのに、杉浦の手は千夏の頬を包んで強引に上向けた。小指の先で千夏の耳たぶを擦ると、千夏の背筋がひくりと震えて、小さく睫毛が揺れた。
「杉浦、さん」
 もうそれに応える余裕もなく、杉浦は千夏を抱え込むように抱きしめて、荒々しく唇を塞いだ。舌先を甘く噛んで、味わいつくそうとした――そのときだ。
 ワンワン、キャワン! と可愛らしい小太郎の声が庭に響いた。次いで、
「ただいまー。よう小太郎、元気か」
 低い男の声が、裏門の方から聞こえた。二人がいる渡り廊下は裏門からほど近い庭に接していて、杉浦は反射的に千夏の肩を掴み、自分から引きはがした。千夏は驚いて何度か瞬きした後、一歩退いて声の方へ顔を向けた。
「お兄ちゃんまで帰ってきたんだ」
 独り言のようにつぶやいた、その横顔が月明かりに照らされて白く浮かび上がる。杉浦の手のひらに彼女の体温がよみがえった。
 足音は裏庭から庭を斜めに横切り、表玄関へと去って行った。扉を開けるカラカラという音と、「ただいま」という声がかすかに聞こえた。
 なぜか息をひそめていた二人は、同時にほっと息をついて、互いに顔を見合せた。千夏は気まずそうに目をそらし、頬にかかる髪を耳に掛けて、杉浦に背を向けた。
「え、と……杉浦さん、こっちに。お風呂は二階なんです」
「あ――はい」
 階段を上って、引き戸を開けると脱衣所だった。千夏はドアのプレートをひっくり返して「入浴中」にすると、「タオルと着替えはすぐ持ってきますから、お風呂入っちゃって下さい」と早口で言い、あっという間に出て行ってしまった。その間、一度も杉浦の目を見なかった。

 杉浦には、彼女の考えていることがわからない。
(嫌いになったのか、なんて……どうしてあんなことを訊いてきたんだ。今朝から一緒に過ごして、あんなに楽しかったのに)
 かけ湯をして、体を洗う間も考えていたけれど、答えは見つからなかった。
 嫌いなりましたか、と問われた。直後にキスされた。それが今日でなかったら、焦らしすぎたせいだろうと納得できた。だが、昼間一緒に食事をしたり水族館で遊んでいたとき、お互いの恋心がはっきりわかった。繋いだ手から、向けた笑顔から、疑いようもなく。
 ――彼女はそうではなかったのだろうか?

 カタンとドアの開く音がして、磨りガラスの向こうに人影が揺れた。
「杉浦さん、ここにタオルと着替え、置いておきます」
 こもって聞こえたけれど、間違いなく千夏の声だった。杉浦は湯船の縁に頬杖をつき、一瞬の迷いの後、「千夏」と呼びかけた。おずおずと、ほんの数センチだけ浴室の扉が開いた。
「あの、何か」
 指先しか見えないのがもどかしい。
「湯船に浸かっているので、こっちを見てもいいですよ。髪を洗おうと思ったんですけど、ボトルがたくさんありすぎて、どれを使っていいのかわからないんです」
「ご、ごめんなさい! そうですよね、みんな自分のシャンプーとかどんどん置いちゃうから……。じゃあ、失礼します」
 扉が開くと同時に、浴室にたまっていた湯気が大きく動いた。千夏は入ってきたものの、扉に背中をはりつけるようにして、うつむいていた。ほのかに顔が赤いのは気のせいだろうか。杉浦は思わず自分の体を見下ろした。入浴剤でお湯が濁っているから、肩より上しか見えていないはずなのだが。
「恥ずかしいですか?」
「……直視できません」
「そこまで話しに行きましょうか」
「絶対ダメです! 立ち上がらないで下さいッ」
「じゃあ、ちゃんとこっちを見て下さい。早めに誤解は解いておきたい。さっきの質問の答えです」
 千夏がためらいながら顔を上げた。会話には応じてくれるようだ。杉浦は彼女の不安を消したくて、できるかぎり優しい声で言った。
「俺は、あなたのことを嫌いになっていません。むしろ今日一日でいろんな表情を見ることができて、昨日より好きになったくらいです――さっきのキスには驚きましたが」
「あれはッ! その……」
 一度は顔を上げた千夏が、うつむいて唇を噛んだ。ぎゅっと握りしめた手が小さく震えている。言いたいことが言葉にできなくて、上手く伝えられなくて、泣きそうに見えた。
 あの時、杉浦は驚いただけだ。千夏を留めたのは場所を考慮したからであって、恋人からキスされて嫌なわけがない。むしろ嬉しかった。なぜ千夏はなぜこんな表情をするのだろう。何か明後日の方向に思考をねじまげているような、そんな気がした。
 いま捕まえなければ、心まで遠のくような錯覚に襲われて、考えるより先に杉浦の口から言葉がこぼれた。
「――千夏、おいで」



 千夏は言われるがままに、浴槽のすぐ側まで来た。ゆっくりと膝を屈める彼女に、目を閉じるように言う。杉浦が動くと、水面が大きく揺れて水音をたてた。たぷんと縁に当たって波打つ。
 杉浦は浴槽の縁に両手をかけて、湯の中で膝立ちになった。濡れた上半身は湯気に包まれてさほど寒くはない。頬に触れたいけれど、彼女が濡れてしまうので我慢した。体を乗り出して、ゆっくりと唇だけを触れさせる。押しつけて、少し離れて、角度を変えて鼻先にもキスを落とす。千夏が薄く目を開いたので、ちょっと笑いかけてもう一度唇にキスをした。
 激しさの欠片もない、ただ優しいだけの口づけだった。
 離れて見つめあった。互いの顔は10センチほどしか離れていない。
「……キスしたかったのは、千夏だけじゃないよ」
「そんな風には、見えませんでした。杉浦さん、また今度って言ったのに、全然そんな素振りも見せてくれなくて――だから、一ヶ月つきあって、私のこと子供すぎてダメだと思ったのかな、好きになってもらえないのかなって不安になって、私」
 あんなキスを、仕掛けてしまった。
 千夏はちょこんと座ったまま、膝に両手を置いて杉浦を見ていた。
 滑稽なほどに素直だと、杉浦は思った。呼べば入ってきて、言われるがままに近づいて目を閉じる。どこまで言うことを聞いてくれるのか興味がわいたが、それは次にとっておくことにして、杉浦は腕を伸ばした。水滴の伝う指で、千夏の頬に触れた。さっきは我慢できたのに、一度口づけてしまうと駄目だった。触れたくて仕方無い。
「不安だったのは千夏だけじゃない。俺だって不安だった」
「うそです」
「嘘じゃない。今だって、真っ裸なのに千夏を呼びとめるくらい焦ってる。わからない?」
「わかりません――なんで、杉浦さんが」
 できることなら、こんなことずっと黙っていたいけれど。
「……いい歳した男が歯止めきかないくらい君に夢中だなんて、格好悪いだろう。今日だって千夏と過ごすために店まで休んだんだ。朝から一緒に過ごせて、本当に嬉しかった。なのに気持ちを疑われてたなんて心外だ。さっきだって、ちょっと煽られただけで乱暴なキスをしてしまって――怖くなかった?」
 千夏はふるふると首を振った。湿って重くなった髪がぱさりと彼女の肩に落ちる。杉浦はほっとした。嫌われたのではなかったのだと安堵して、そんな自分に苦笑を浮かべた。

だから――だから、今更こんな感情を抱えるのは面倒くさくて、恋になる前に終わらせようとしたのに。

(余裕のある男のフリくらいさせてくれよ、最初くらい)
 キスだけで想いの丈がバレてしまう。思春期の男子のように抱きすくめて離したくなくなる。格好付けられる間くらい、大人のままでいさせて欲しかった。彼女の理想が壊れないように、幻滅させないように。
 それがどうだ。見知らぬたくさんの人々にひっかきまわされて、すっかりペースを狂わされ、怒るタイミングも失って、初めて訪れた恋人の家の風呂場で向かい合って、こんな有様で何を語るつもりなんだか。
 それでも、千夏に応えたことを悔やんではいない。指先に触れる体温ひとつで、ここまで有頂天になってしまうくらいに楽しい日々だ。多少の面倒な事柄も楽しめる。こういうときは、それなりに人生経験を積んでいてよかったと思う。
 杉浦の手に甘えるように、千夏が頬を擦り寄せてきた。可愛らしい仕草に、つい杉浦の頬がゆるむ。
「私、鈍いんだと思います。今までもそんなに恋愛経験なくて、言われるまで杉浦さんがそんな風に思ってるって気付かなかった。
 ――もっと話したいです。杉浦さん、服が乾くまで時間もかかるし、今日はウチに泊まって下さい」
「服って……もしかして、洗った?」
「洗っちゃいました、帰って欲しくなかったから。
 天女の羽衣を隠した昔話みたいに、杉浦さんがこのまま側にいてくれたらいいのにって思って」
 はにかんだ千夏に、杉浦は両手を握り締めた。力いっぱい抱きしめたいのにできない。だから、
「じゃあ泊めてもらおうかな」
 あえて軽く、そう返事をした。
 話すだけで終わるのだろうかと自問自答しながら、長い夜を覚悟した。


2010.05.18

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