2010年ホワイトデー企画 
にぶんのいち ■ 大人の恋にはほど遠く (余話)

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 既に夜は更け、もう少しで日付が変わろうという時刻。
 渡り廊下でつながった離れの一室をあてがわれ、杉浦は真新しいパジャマに身を包んで、八畳の和室であぐらをかいていた。ちびりと熱燗を一口飲む。静かに春の庭を眺めつつ酔いを楽しむ――そんな夜なら良かったのだが、あいにく杉浦の耳に届くのは、騒がしい兄妹喧嘩の声だった。

 風呂から上がって居間に戻れば、子供たちはそれぞれに隣の部屋で過ごし、既に大人組が酒宴に突入していた。初対面の千夏の兄は、匠といった。
 そこから千夏の父と兄に囲まれ、障子を開けて月を愛でながら軽く飲んで、和やかな雰囲気の中解散したのは、一時間ほど前のこと。
 杉浦を離れに案内してくれたのは、千夏の母だった。千夏からは、『お風呂からあがったら遊びに行きます』と、メールが届いた。
 杉浦は敷かれた布団の上に仰向けに寝転がり、千夏が来たらどうしようかと考えていた。しばらく話してから、もう遅いからと諭して部屋に帰す――そんな真似ができるだろうか。無表情なまま想像を膨らませていると、軽く襖を叩く音がして……廊下に立っていたのは、にこやかな笑顔を浮かべ、一升瓶を手にした匠だった。
 布団を部屋の隅に寄せ、火鉢の上には湯気をたてるやかん。文机にはお銚子とお猪口が置かれ、ほんのりと日本酒の香りが部屋に漂っていた。

 そして現在、杉浦のいる部屋の隣、襖一枚へだてた向こうで、匠と千夏が喧嘩の真っ最中なのだった。
(彼女の気持ちもわからないでもない……けど、丸聞こえなんだよな)
 風呂上がりの色香を漂わせつつ千夏がこの部屋に来たとき、杉浦と匠はすでにほろ酔いだった。匠の飲むペースに合わせてぐいぐいと杯を重ねてしまったあたり、杉浦も若干緊張していたのだろう。
 最初は二人につきあうように、ちびちびと日本酒を舐めていた千夏だが、いつまでも席を外さない匠に業を煮やしたのか、いきなり匠の手を取って隣の部屋に連れだした。最初はひそひそとした声で杉浦には何も聞こえなかったのだが、酒のせいなのか次第に声は大きくなり、今では気持ちのままに兄と妹は言い合っていた。
「いい加減に寝れば、お兄ちゃん。杉浦さんだって疲れてるんだよッ」
「じゃあお前がさっさと寝ろよ。俺たちはまだ飲むから」
「あのねぇ、いい加減自分が邪魔者だって気付いてよ。恋人たちの部屋に割り込んで来てるんだよ、普通気を利かせて二人きりにしてくれるものじゃないの?」
「ここは杉浦さんが泊まる部屋だ、客間だぞ客間。それに、俺は男の部屋に夜這いにくるような、はしたない妹を持った覚えはない。ほら、さっさと自分の部屋に帰れ」
「やーだー! 今日は杉浦さんと朝まで話すんだもん。約束したんだから!」
 この言葉に、杉浦は思わずむせてしまった。口元を押さえて咳きこみながら、朝までなんて言ったか!? と自問自答していると、スパンと勢いよく襖が開いた。仁王立ちした千夏を、杉浦は呆然と見上げた。
「私、今日はここで寝ます!」
 言うなり千夏は杉浦の隣に腰を下ろし、前触れもなくコテンと寝転んだ。胡坐を組んだ杉浦の腿に頭をのせて、一瞬で固まった杉浦を潤んだ瞳で見上げてくる。
「杉浦さん、ちぃ、ここで寝たらダメ?」
 縋る視線も甘えた口調も計算なのか。酔っているせいでしゃべり方まで妙に幼い。どう返事をしたものか悩んでいるうちに、千夏は頬をふくらませて背を向けてしまった。杉浦の膝を枕にしたまま。
 声を殺して笑う匠に気づいて、杉浦は困り顔のまま千夏の髪に手をやった。
「――ちゃんと布団で寝ないと」
 千夏は杉浦に微笑むと、そのまま目閉じた。彼女の頬と眼尻が赤いのは、酔っているからなのだと今頃気づく。
「もう寝ますよ、ソイツ。自分のことを『ちぃ』って言い始めたら限界です。
 日本酒に弱いんで、黙らせたいときは飲ませるといいですよ」
 匠はからからと明るく笑うと、押入れから毛布を一枚取り出し、千夏の体にかけた。杉浦もいい加減水沢家の雰囲気がつかめてきたので、開き直って千夏に膝を貸したまま匠が腰を落ち着けるのを見ていた。
「ああ、やっと邪魔がなくなった。
 杉浦さんとは早めにちゃんと話しておきたかったんです、その馬鹿のことで」



 すぅすぅと寝息をたてはじめた千夏を布団に横たえ、男二人はお猪口片手に向かいあった。ちなみに千夏をお姫様だっこで運んだのは匠だ。慣れた様子に、匠がこれまで妹をどう扱ってきたのか、目に浮かぶようだった。
(憎まれ口たたいても、可愛くてしょうがないってところか)
 敷かれた布団で眠る千夏を見つつ、じゃあ自分はどこで寝るのだと杉浦はひそかに思ったが、もう考えないことにした。どうにでもなれ。
「驚いたでしょう、こんな家で」
「ええ、正直かなり流されてます。なかなか皆さん強引で」
「昔からそうなんですよ、ウチは。誰か来たら、まずメシ食わせて、そのままもう泊まれって言って。一回泊まったら身内扱いです。次来るときは、最初から泊まる用意してこいって言うくらいで」
 だから杉浦が急に泊まることになっても、新しいパジャマが出てきたのか。杉浦がそう言うと、匠は首を振った。
「それは千夏が用意してたんですよ。杉浦さんが来たときの為に」
 ……どうりでサイズがぴったりなわけだ。
 杉浦は千夏の寝顔に目をやった。匠が空になったお猪口に熱燗を注ぎ、ぐいと一息に飲みほす。
「千夏には、彼氏ができたら連れて来いと、事あるごとに言ってたんです。親父を筆頭にウチの家族が認めた相手じゃなきゃ、つきあいは許さないという約束でね。過保護すぎて笑えるでしょう。
 ――杉浦さん、裏門の防犯カメラに気がつきました?」
 杉浦は小さく頷いた。Kannaに設置しているものより小さなカメラが、門の雨除けの下に、さりげなく付けられていた。
「コイツは昔、今よりさらに馬鹿でね……男を見る目が、本当に、壊滅的に無かった。
 高校に入った頃から急に色気づいて、ウチに男連れてくるようになって――所詮ガキの恋愛なんてままごとみたいなモンなんで、俺は放っておきました。恋愛中の友達が楽しそうだから、自分も彼氏が欲しかった、その程度の気持ちだったんだろうと思います。
 千夏は、見た目はそこそこ可愛いから、寄ってくる男は多かったんじゃないですかね」
 静かな部屋に、トクトクと酒を注ぐ音が響いた。杉浦は目線で先をうながした。あまり聞きたくない話だと思いつつも、匠がこうして時間を設けてまで語る内容を無視することはできなかった。

「千夏が高二のときだから、もう三年前になりますが……近所の人から、知らない学生がウチの周りをうろうろしてるという話を聞くようになりました。その頃ウチは今よりも更にオープンで、表門も裏門も開け放しです。親父が丹精こめた庭はこの通りで、ツツジの植え込みにでもしゃがんでいれば、隠れるのは簡単です。誰にも気付かれずに庭に入れば、部屋にはすぐあがれる。障子ですから、鍵なんてありません」
 そこからは、だいたい杉浦の予想通りの話だった。
 以前千夏とつきあっていた少年は別れたくなかった。会いたくて毎日遠目から見ていた。たぶんそれは見ていたというよりは――監視に近かったのだろう。千夏が一人になるのを待っていたら夜中になり、忍び込んだ千夏の部屋には妹たちも寝ていた。強い執着と愛情は表裏一体だ。水沢家の娘三人が寝ていた部屋には悲鳴が響き、駆け付けた父親と兄の手で少年は捕えられた。

「好きになれると思った、って――そう言ったんですよ、千夏は」
 友達として好きだったから、つきあっていけば自然に好きになると思った。だけど強引に迫られて嫌いになった。だから別れた。私のこと好きって言ってくれたのに、どうして私は彼のこと、好きになれなかったんだろう?
 泣きながらつぶやいた千夏を見て、匠は妹の幼さに呆れ、それでも慰めた。
『好きになろうといくら努力したって、感情は動かねぇよ。義務じゃないんだ』
 妹も弟もまだ幼なかった。父は仕事で出張することもあった。だから番犬として小太郎を飼い始め、念のため門にはカメラをつけた。
「その件で懲りたのか、千夏はそれから恋愛方面はおとなしくなりました。親父と俺が『心底惚れた男ができたらウチに連れて来い、生半可な男だったら追い出すぞ』って、脅してたせいで、家族にバレないようにつきあってたのかもしれませんけどね。
 で、千夏がやっと連れてきた恋人が、杉浦さんです」
「――追い出されなかったということは、面接は合格ですか? 俺としては、むしろ誰も反対しないことに驚きましたが」
 匠は、くくっと声を殺して笑った。
「正直言うと、最初話を聞いたときは、どっかのオヤジに騙されてんじゃないかと思ったりもしましたよ。でも、俺がそう言ったら、千夏が珍しく怒ってね。杉浦さんはオジサンじゃない、すごくカッコいいんだからって、家族全員の前で熱弁奮ったわけです。
 だから、みんな杉浦さんが来るのを楽しみにしてました。どんな男前が来るんだろうって、かなり期待して」
「それは……がっかりさせたんじゃないでしょうか」
「いいえ、千夏が言ってた通りの方で安心しました。
 こんな騒がしい家ですが、いつでも遊びに来て下さい。賑やかなのも、たまにはいいでしょう」
 明るく笑って、匠は杯を乾した。杉浦は、また来ますと素直に応えて、彼に習った。

 きっと匠も千夏の両親も、杉浦に聞きたいことはあったのだろう。前の妻のこと、店のこと、千夏との今後のつきあいについて。それらについて何も言わず、杉浦を信頼してただ受け入れてくれた度量の大きさが嬉しくて、杉浦はこの家に来て良かったと、しみじみと思った。



「杉浦さん、おはようございます」
 そう囁く柔らかな声と差し込む太陽の光に、杉浦は目覚めた。小さく呻いて右手で顔を覆った拍子に、ザラリとひげが手のひらに触れた。
 細めた目で見やると、千夏は既に着替えを終え、軽く化粧もしているようだった。杉浦は無意識に時計をさがし、枕元の携帯電話に手をのばした。午前八時半。控え目に開けられた障子の向こうから入り込んでくる朝の空気は、冷たい。
 障子が閉められ、布団の脇に千夏がちょこんと正座する。
「まだ眠いですか?」
「……眠いし、飲みすぎた。ごめん、酒臭いだろう」
 奥の部屋で寝ていた千夏が起きたことにも気付かなかった。一人の家ではもう少し物音に敏感なのだが、驚くほど熟睡してしまった。
「そんなことありません。寝起きの杉浦さんなんて貴重です」
 これからいくらでも見られるよと言いそうになって、杉浦はあわてて口を閉じた。
 昨夜の甘い記憶のせいか、夢見がちな妄想と現実が混ざっている。杉浦の中では、一緒に眠って朝を迎えることが、遠くない未来の確定事項になっているが、現実は昨日やっとキスしたばかりの、恥ずかしいくらいに初々しい二人だ。
 昨夜、匠と飲み終えた後、杉浦は隣の部屋で寝ていた千夏の寝顔をしばらく眺めていた。頬や唇を指先で撫でたりもした。そのせいでなかなか寝付けなかったことなど、彼女には絶対に知られてはならない。
「……あまり見られたくないな。寝起きなんて、それこそただのオッサンだから。幻滅されたら困る」
「しません! むしろ、そういうだらしないとこが見たいです。あんまりカッコイイと、私が隣にいていいのかなぁって不安になるし。
 あ、これ杉浦さんの服です。あと、タオルも。廊下の右のつきあたりに洗面所があるので、好きに使ってください。朝ごはんできてるんで、用意できたら居間に来てくださいね。一緒に食べましょう」
 そのまま立ち上がろうとした千夏の手を、杉浦は掴んだ。昨夜のことが夢に思えて、少しわがままを言いたくなった。障子の向こうから、チチチと鳥の鳴き声がする。そのさえずりと同じくらいの小さな声で、杉浦は「キスしてもいい?」と尋ねた。
 照れて恥ずかしがるかと思ったが、千夏ははにかんで目を閉じた。チュッと軽く口づけて離れると、頬を染めて本当に嬉しそうに笑ってくれたので、杉浦は思わずそのまま抱きしめてしまった。朝から自制心がゆるんでいる。
「――杉浦さん、あんまりゆっくりしてると、遅刻しちゃいます」
「ごめん、つい」
 千夏も杉浦も、今日は仕事だ。
「最近忙しそうだけど、たまにはウチに息抜きにおいで。広瀬さんは相変わらず、よく来るよ」
 そう言うと、一緒に布団をあげていた千夏がちょっと困った顔をした。
「私、ひとつのことに集中すると、他のこと忘れちゃうんです。あんまり器用じゃなくて。
 だから、仕事中に杉浦さんの声聞いたり、会ったりすると、駄目なんです。杉浦さんのことでいっぱいになっちゃって、仕事モードにすぐ戻れないから。
 仕事中にメールも電話もしないのは、そういう理由なんです。会いたくないわけじゃないですよ! 今日も仕事が終わったらKannaに行きます。一日頑張ったご褒美に、おいしいコーヒー飲ませて下さい」
 にこりと笑って、千夏は部屋を出て行った。

 杉浦は顔を洗い、ヒゲを剃って、丁寧にアイロンがかけられたシャツに腕を通した。
(俺が傍にいると何も手に付かないなんて、ちょっと重症だな)
 彼女の気持ちは素直に嬉しい。だが、杉浦はそこまでのめり込めない。彼女の一途さは若さ故だと、心のどこかで考えていた。大切な誰かを失ったことがない分、怖いもの知らずなのだ。
 崖から飛び込むようなそんな恋ではなく、もっと柔らかな、ゆっくりとした流れで互いを想いあえればいいと、杉浦は思う。自分の気持ちひとつで、恋愛は辛いものになってしまうと、知っていた。
 だが、今のところ千夏は幸せそうに笑ってくれている――先のことを案じるのは、まだ早いのだろう。
 膨らんだ桜のつぼみを眼の端にとらえ、彼は賑やかな声があふれる水沢家の食卓へと向かった。


(大人の恋にはほど遠く/END)
2010.08.09

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