2010年ホワイトデー企画 
にぶんのいち ■ 大人の恋にはほど遠く (中編)

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 車から降りた杉浦は、呆然と水沢家の門構えを見た。
 どっしりとした左右の柱と、年代を感じさせる分厚い扉は、神社仏閣を彷彿とさせた。門のすぐ脇に、小じんまりとした閉じられた格子戸があった。庭が透けて見える。が、ここは裏手なのだという。
「杉浦さん、表玄関はこっちです」
 千夏は上着を手に、杉浦を促して歩きだした。そもそも、駐車場からしてかなり広い。すべて水沢家の所有スペースだという。十台くらいは停められそうだ。
「……水沢さんの家って、旧家か何か? ご両親が会社経営してるとか」
「いえ、父は庭師で母は主婦です。昔は地主だったみたいですけど、そんなに大した家じゃありません。昔の家だから広いだけなんです」
 塀に沿って角を二回曲がると、さっき見た門とはうってかわって現代的な門扉があった。これが表玄関なのだろう。石造りの門と表札。黒い鉄柵は千夏の手で開かれ、杉浦を招き入れた。
(どこの武家屋敷だ、これ)
 庭の真ん中に続く石畳。薄闇の中で、庭に咲き誇る梅の花と緋寒桜の薄紅の花弁が浮かび上がる。庭の奥には長い渡り廊下も見えた。旅館のようだ。
「ただいま。お客さんだよー」
 杉浦は久しぶりに、土間と上がりかまちのある玄関を見た。古めかしく、懐かしい。上がり端の床板はよく手入れされ、磨かれて鈍く光っている。重厚な靴箱の上に生けられた水仙の黄色が一際鮮やかだった。
 奥からとたたと小さな足音が聞こえ、それに続いて「こら、走らないの!」と、はきはきした女性の声がした。すぐに声の主はわかった。玄関に出てきた女性は、千夏によく似ていた。
「母です」
 千夏が小さな声で言った。
「いらっしゃいませ」
 千夏の母親は、正座すると杉浦に軽く頭を下げた。ふっくらとした顔が優しい印象だ。
「はじめまして。千夏さんとおつきあいさせていただいております、杉浦と申します」
「お話はよく伺っています。何もないところですが、どうぞお上がり下さいな」
 杉浦が拍子抜けするほどあっさりとした対面だった。千夏の母に、杉浦を吟味するような様子は微塵もなかった。
「お父さんは?」
「犬の散歩。もう戻るわよ、ご飯の時間だから」
 千夏の母はさっさと立ち上がると、廊下の影からこちらをうかがっていた子供たちに「ちゃんとご挨拶なさい!」と声を掛け、何事もなかったように台所へと去って行った。柱の向こうから男の子が二人顔を出して、杉浦を見た。そして、「千夏の彼氏がきたー!」と奥へ駆け去ってしまった。何とも騒がしい。
「……弟さん? 聞いてたよりずいぶん小さいような」
「いえ、あの子たちはウチで預かってるんです。二人兄弟で、やんちゃだけど可愛いんですよ」
 杉浦は以前聞いた千夏の家族構成を思い出していた。千夏は確か、五人兄弟の二番目。長男は家を出て造園の修行中。あと、高校生と小学生の妹、中学生の弟、だったか。多すぎて記憶があやふやだ。

 靴を脱いで上がると、千夏の後をついて歩いた。さきほど見た渡り廊下を過ぎる。「千夏、手前の座敷にお通ししてね」と、途中ですれ違った千夏の母が言った。客間も複数あるのだろう。こんな広い家をどうやって維持しているのか、杉浦はつい下世話なことを心配してしまった。
「ご飯の用意ができるまで、ゆっくりして下さい。運転お疲れ様でした」
「ああ、大丈夫ですよ。そんなに疲れてません。水沢さんこそ、昨日は遅くまで仕事してたんじゃないですか? 途中で眠そうだったから――寝ても良かったのに」
「杉浦さんと一緒にいるのに眠っちゃうなんて、そんなもったいないことできません」
 わずかに頬をふくらます仕草が可愛らしい。座敷から見える庭が見事なので、後で見たいと言うと、縁側へどうぞと誘われた。廊下の縁に腰を下ろしたところで、人の気配がした。杉浦が振り返ると、お盆を手にした少女が立っていた。短く切った黒髪と、すらりとした細い首が印象的な少女だった。
「お茶、ここに置いてもいいですか?」
「はい、お願いします」と答えたのは杉浦。「ありがとう、万里」と千夏。少女はそれぞれにお茶とお菓子を出し終えると、改めて杉浦に向き直った。そして、千夏が口を開こうとしたのを制し、自ら自己紹介をはじめた。
「妹の水沢万里です、いつも姉がお世話になっております」
「はじめまして、杉浦です」
 名乗った後、ゆっくりと頭を下げる仕草が千夏の母親とそっくりだ。きちんと躾けられているのがよくわかる。彼女が千夏のすぐ下の妹なのだろう。
「以前姉がいただいてきたコーヒー、とても美味しかったです。私、いつも適当にドリップしちゃうんですけど、時々薄かったり苦かったりして……後で、ちゃんとした淹れ方を教えてもらえませんか?」
「僕でよければ」
 杉浦の答えに安心したのか、万里が年相応の華やいだ笑顔で「よかったぁ」とつぶやいた。杉浦の隣で、千夏はそんな妹をわずかに睨む。
「――コーヒーの淹れ方なら、私が教えてあげるのに」
「だってお姉ちゃん、忙しくって口ばっかりじゃない。どうせなら本職の人に習った方がいいに決まってるわ。
 じゃあ杉浦さん、食後のコーヒー淹れるときに、よろしくお願いします」
 万里はすっと立ちあがり、廊下の角へと消えて行った。
「……杉浦さんって、本当に誰にでも優しいですよね」
 拗ねた千夏は小声でそんなことを言って、杉浦の近くに座り直した。ぴたりと肩を寄せてくる。
「好きな人の家族には、嫌われたくないですから」
 千夏は上目づかいで杉浦を見上げると、そうですかと、すぐにうつむいてしまった。杉浦が顔をのぞきこむと、唇を噛んで何かこらえるようにしていた。
「――どうかしましたか?」
「いや、あの……不意打ちで『好き』って言われると、嬉しいのと恥ずかしいので、どうしていいかわからなくなりますね」
 いきなりそんな反応をされると杉浦も困る。場所が場所なので、抱きしめるわけにもいかない。はにかむ千夏を見ていたらそんな冷静な判断もできなくなりそうで、杉浦は軽く彼女の頭を撫でると、さりげなく視線を庭へと戻した。と、池の奥のつつじが揺れた。
 姿を見せたのは、大きな犬だった。茶色の毛並みに大きな足、首には赤い首輪。杉浦に向かっていきなりワンワンと吠えだしたが、千夏が「小太!」と呼ぶと、嬉しげに庭を横切って走ってきた。
 杉浦は猫は好きだが、正直犬は苦手だった。人間の都合おかまいなしに懐いて飛びかかってきて舐めまわす。可愛いとは思うが、その全力の愛情表現が苦手なのだった。子供のころ近所の犬に飛びかかられたときの記憶も、原因のひとつかもしれない。
 千夏は、若干腰の引けている杉浦に気づきもせず、足元でじゃれつく犬を両手で撫でまわした。
「番犬の小太郎です」
「飼い犬じゃなくて、番犬ですか?」
「はい、この子にもちゃんと仕事があります」
 小太郎は庭石の上にお座りして、ちらちらと杉浦を見ながら大きく尻尾を振った。誰だろうこの人はと伺っている、そんな仕草だった。
「おーい、小太郎。戻れよ」
 門の方から声がした途端に、小太郎は勢いよく帰って行った。忙しい犬だ。
「父が帰ってきたみたいです」
 千夏の声は弾んでいた。家族の仲はとてもいいようだ。そして、誰も彼もが杉浦についてあれこれ詮索しない、ただ受け入れてくれる。妙に居心地がいい。
 廊下を走る騒がしい音が薄闇の庭に響き、さきほどの子供が二人、揃って走ってきた。
「ちぃ姉ちゃん、ご飯できたって!」
「できたって! お母さんが、呼んで来てって!」
 千夏の後ろで急ブレーキをかけるように止まり、それぞれに杉浦を見た。興味津津の態だ。
「おじさん、本当に千夏の彼氏?」
 おじさんと言われ、杉浦は少なからず傷ついた。が、たぶんこの子たちの父親は自分より若いのだろうと気付いて、努めて平静を装った。「そうだよ」となんとか微笑んで応える。
「おじさんじゃありません、杉浦さんだよ。あんたたち、ご挨拶もできないの?」
「できる!」
 叫んで、二人は口々に名前を言った。幸太です、雄也です。杉浦が年を尋ねると、九歳と七歳だった。
 子供二人に急かされて居間に向かった杉浦は、なぜか拍手で迎えられて困惑した。どっしりとした木のテーブルと炬燵が並んだ広い居間に、ずらりと座っている千夏の家族を見て、ほんの少しだけ、早まった気がした。



 食器が配られる間に、千夏の家族はそれぞれに名乗って自己紹介してくれたのだが、杉浦は途中から覚えられなくなった。炬燵に座っているちんまりとした老女が九十を超えていると聞いて驚いた。千夏のひいおばあちゃんだという。
 杉浦は千夏の父親の向かいに座った。千夏は当然杉浦の隣である。鍋をよそってくれたりと、なかなか甲斐甲斐しい。いただきます、と皆で手を合わせて言うので、慣れない杉浦は照れてしまった。食事は大抵一人なので、こんなことさえ久し振りだ。
 千夏の父も、大らかな人だった。作業着のままタオルを頭に巻いて、おいしそうにビールを飲みながら杉浦に話かけてきた。いろいろ訊かれる覚悟をしていたのに、珈琲の焙煎の仕方や、春の花の話で終始した。ただ、ほろ酔いになった千夏の父の、
「杉浦さんのような落ち着いた方が千夏と一緒にいてくれたら、私らも安心できます」
 という一言が、妙に引っかかった。
(自分より十ばかり年下の男を娘が連れてきたのに、なんでこんなに上機嫌なんだ? 普通、もう少し硬い対応をされそうなものだけど……)
 中学を卒業したばかりの千夏の弟も、思春期真っ直中だろうに特に何も言わない。こんばんは、以後よろしくお願いしますと杉浦に挨拶して、避けるそぶりもない。さっきお茶を出してくれた万里も、まだ小学生の一番下の妹の一花も、どちらかと言えば杉浦に好意的だ。いきなり懐かれている感じさえする。
 というか、日常の食卓に杉浦が混じっても、誰も気にしていないように思えた。
「お客が多いって言ってたけど、いつもこんな感じなんですか、水沢さん」
 千夏に問いかけたつもりだったのに、返事をしたのは千夏の父親だった。口を開こうとしていた千夏が「なんでお父さんが返すの」と、少々拗ねてつぶやいた。
「いや、『水沢さん』と言われたので、つい」
 確かに、ここにいる人々は、ほぼ「水沢さん」だ。杉浦は自分に非があると思った。なので、しばし千夏を見つめたあとで、
「千夏――さん?」
 と呼んでみた。千夏は即座に、「さん、は要りません」と顔を赤らめ、杉浦は「じゃあ、千夏って呼びます」と、彼女だけに聞こえるくらいの声で囁いた。と、いつの間にそこまで来ていたのか、さきほどの男の子が杉浦の後ろでぴょんぴょん飛び跳ねた。
「千夏、顔赤いー!」
「幸太、うるさい! まだご飯終わってないでしょう、ちゃんと座ってなさい」
 怒られても幸太少年は平気なようで、千夏と杉浦の間に無理矢理座ろうとした。すると、弟の雄也が追いかけてきた。
「僕もちぃ姉ちゃんのとこに座る!」
 が、その手にはしっかりとコップが握られていて、たぷんと中の牛乳が跳ねた。
「雄也、コップ持ったまま歩かないで。こぼすから」
 そんな千夏の母の注意はわずかに遅く、雄也は炬燵布団に足をひっかけて見事に転び――コップに入っていた牛乳が、綺麗な放物線を描いて飛んだ。杉浦の背中に、ぱしゃんと水音を立てて。
 千夏の母と弟が手近にあったタオルやふきんをすぐに差し出し、妹たちは雑巾を取りに台所へ走った。杉浦は、冷たいと思ったものの、子供のしたことなので「大丈夫ですよ」とタオルを受け取った。が、ふと隣を見れば千夏の形相がすごいことになっていた。
「……何してんのよ、あんたたちはッ。よりによって、なんで杉浦さんに!
 飲み物持ったまま歩くなってあれほど毎日言ってるのに、学習しなさい。言われたことを守らない子とは、もう口きかないんだから!」
 怒っているのに、声は涙混じりになっていた。千夏は杉浦の腕をぐいっと掴むと、立ち上がって居間を出ようとする。「お風呂場に案内します」と言われて、杉浦は慌てた。
「本当に、大丈夫だから。こんなの拭いておけば」
「杉浦さん」
 ゆっくりと千夏の目に涙が滲んでいく。杉浦は、泣きたいのはこっちだと慌てたが、千夏の家族を振り返れば既に少年たちに対する説教と掃除の係に分かれ、なにやら忙しそうで、杉浦と千夏のことなど蚊帳の外だった。ただ、千夏の父とだけ目が合った。
「すいませんね、騒がしい家で。風呂入ってきて下さい。杉浦さん、髪まで濡れてますよ」
 手をやれば、本当に濡れていた。借りたタオルで拭いていると、千夏が杉浦の手を握って歩き出した。

 先ほどの渡り廊下まで戻って、杉浦がぽつりぽつりと明かりの灯った庭に見とれたとき、どんと体に衝撃を感じた。肩に掛けていたタオルが落ちる。
「杉浦さん――私のこと嫌いになりましたか」
 振り返って突然抱きついて、千夏は杉浦の胸に顔を伏せてそう言った。嫌いになったりはしないが、困惑していた杉浦は、すぐに返事ができなかった。壁に押し付けられて、濡れた背中がじわりと冷たくなる。千夏の指がシャツに食い込む。居間の喧噪はもう遠くて聞こえない。
 静けさの中で不意に背伸びした千夏のまっすぐな眼差しだけが、杉浦の目に映った。
「千夏」
 涙の膜の向こうに、揺るぎない決意を秘めた真っ黒な瞳があった。千夏の伏せた睫毛に見惚れる間もなく、杉浦は押し付けられた唇をただ受け止めることしかできなかった。


2010.03.24

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