2010年ホワイトデー企画 
にぶんのいち ■ 大人の恋にはほど遠く (前編)

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変わらないこと その一、年の差。
変わらないこと その二、敬語。
変わったこと その一、二人の雰囲気。
変わったこと その二、上司の生温かい視線。
変えたいこと――二人の距離感。



 三月ともなれば、気候もめっきり春めいて、道行く人々の服も軽やかになっていく。風には梅の香がまじり、駅には桜祭りのポスターが貼られ、新生活に臨む人々が慌ただしく動き始める、そんな季節。

 店の窓から外の通りを眺め、杉浦薫は時間を持て余していた。基本的にこの店は夕方から夜の方が客が多く、平日の昼間は割合暇なのだ。たまに常連客が仕事をさぼってやってくるぐらいである。
「人聞き悪いなぁ。さぼってんじゃねぇよ、休憩中だ。仕事ってのは緩急が大事だろ?」
 親友というより悪友と呼んだ方がしっくりくる広瀬智明のそんな言葉を、「はいはい」と聞き流した。休憩と言ったって、かれこれ三十分はここで話している。彼の部下である水沢千夏は忙しく働いているに違いないのに。
「お前どうせ、俺じゃなくて水沢がここにいればいいのにとか考えてるんだろう」
「考えてますよ」
「……念のため言っとくが、水沢が忙しいのは、俺のせいじゃないぞ」
 広瀬はマドレーヌの包装を破きつつ、にやりと笑って言った。
 千夏は、入社二年目の将来有望な広瀬の部下だ。
 そして、今現在は杉浦の可愛い恋人でもある。
「彼女が忙しいのは、新規店舗のサポートに入ってるからだってわかってます。でも、水沢さんがここに来るとき、決まって広瀬さんか杏ちゃんが一緒なのはどうしてでしょう。確信犯ですよね、親子そろって!」
「だって気になるだろ。こいつら、うまくいってんのかな、初々しいなぁ、とね」
「人の恋路を観察してどうするんです。ってか邪魔です。見守る気があるのなら、さっさと二人きりにして下さいよ」
「それじゃ面白くないじゃないか」
「結局面白がってるだけか!」
 まったくもって腹の立つ言い分だ。だがしかし、
(見ていてじれったいんだろう。わかるよ――俺自身、何やってんだって思うんだから)
 杉浦の口から、小さく溜息がこぼれた。

 つきあってもうすぐ一ヶ月が経とうとしているというのに、二人の仲は特に変わっていない。千夏が店にコーヒーを飲みに来るときに顔を合わせ、週に一度くらいのペースで食事に行く。
 千夏はあまりメールを送ってこなかった。広瀬のように仕事中に店に寄ることもなく、連絡をとってくることも、まずない。杉浦は、自分が携帯メールが苦手だと言ったせいかと思ったのだが、広瀬や杏の話によると、千夏はもともと仕事中の私用電話やメールを極端に嫌う女の子らしい。オンとオフ、潔いほどの割り切りようである。
 前述したように、千夏が店に来るときは広瀬父子のどちらかがくっついているのだが、さすがに閉店間際のタイミングで二人きりになったことが何度かあって、そのたびに千夏は目に見えて緊張した。意識されるのは別にいいのだが、近寄ると彼女が身構えるのがわかって、杉浦はついからかってしまうのだ。
 カウンター越しではなく、隣に座って話をしたバレンタインの夜を思い出すのだろう。キスされるのではないかと胸高鳴らせている千夏の隣で、素知らぬフリをして、髪に触れたり頬に触れたりして焦らしていた。彼女の頬が赤くなるたび、見上げてくる目が心細そうに潤むたびに、誘われる心を隅に追いやって、ただその手を握って我ながら偽善者じみた笑みを返した。
 そんなことを繰り返していたせいで、罰があたったのかもしれない。

 三月になって千夏の忙しさに拍車がかかり、会う時間ががくんと減った。先週など、杉浦が戸締りをしているわずかな間に、彼女はカウンターに突っ伏してうたた寝していた。疲れているのに無理をして来ているのではないかと心配になったが、「会えない方がしんどいです」と真顔で言われてしまうと、それ以上何も言えなかった。
 会えてもわずかな時間だけ、二人でゆっくりじゃれることもできない――今度は逆に、杉浦の方が焦らされている気分だ。彼女にそんなつもりはないとわかっていても。



 その日、広瀬はkannaの前で足を止めた。
 休日出勤で頑張っている自分には美味しいコーヒーを飲む権利くらいあると歩いてきたのだが、窓にはカーテンがひかれ、扉には「本日臨時休業」の素っ気ない張り紙があった。
(日曜は稼ぎ時だろうが、杉浦。何で定休日以外に休みなんて……ああ、そういえば今日はホワイトデーでしたっけ)
 昨日の夜、会社で残業していた千夏が「明日は絶対出勤したくありません、今日中に終わらせます!」と気合いを入れてキーボードを叩いていたのは、そういうわけか。
(しかし、水沢の為に店まで休みにするとは――結構本気だな、杉浦のヤツ)
 何にしろ、幸せそうでいい事だ。
 広瀬は携帯を取り出すと、晴れ渡った青空を見上げながら娘の杏に電話した。
「三時前には帰るから、なんか美味そうなケーキでも買っといて。Kannaが休みだから、家でコーヒー飲むわ」
『はーい。そういえば千夏、今日はドライブデートだって言ってたよ。杉浦さん、車持ってたっけ?』
「持ってるよ。しかし、ドライブってことは、帰りは自宅まで送るんだろうなぁ」
『そうだと思うよ』
 電話の向こうで、杏がくふふと含み笑いをした。広瀬も口の端を持ち上げた。二人の脳裏に同じ光景が思い浮かんだ。
「ってことは、杉浦もついに」
『受けることになるだろうね――水沢家の洗礼』
 父と子は互いの体験を思い起こし、数時間後の杉浦に心の中でエールを送った。



 海岸線を走る車は、沈みかけた太陽に照らされていた。打ち寄せる波もテトラポットも、鮮やかなオレンジ色に染まっている。助手席からその景色を眺める千夏の横顔も、同じ色に照らされていた。
 ハンドルを握る杉浦は、彼女の無邪気なはしゃぎようを微笑ましく横目で見ていた。
 十時過ぎにkannaで待ち合わせして、それから出かけた。目的地は走りながら決めた。少し遠出して水族館で遊び、カフェで話し込み、ショッピングモールで千夏が手にとっていた花柄のストールをプレゼントした。千夏は遠慮したが、チョコレートのお返しだと言うと、受け取ってくれた。助手席の彼女は早速それを巻いている。よく似合っていた。
 こんなに長い時間を二人で過ごしたのは初めてだ。
 数日前の冷え込みが嘘のように、今日は小春日和で上着がいらないほどの陽気だった。それでも、夜が近づくにつれ風は冷たくなる。海を眺めていた千夏が窓を閉めた。
「綺麗な夕焼けですね。海は久しぶりです」
「砂浜に降りてみますか?」
「ちょっと惹かれる提案ですけど……もう日が沈みそうです。海は、また今度で」
 晩御飯までには帰宅したいと聞いていた杉浦は、時計に目をやって、残りの時間の少なさに小さく吐息した。楽しい時間はあっと言う間に過ぎていく。せめて夕食は一緒にと思いはしたが、未成年の彼女を遅くまで連れまわすのはよくないかと考え、口には出さなかった。
(もしかして、門限もあるんだろうか。親御さんが厳しいのかもしれないな。一度訊いてみるか)
 ハンドルを指で叩きながらそんなことを思っていると、千夏が口を開いた。
「杉浦さんって、アレルギーとかありますか? 苦手な食べ物とか」
「いや、特には。しいたけが苦手ですけど、食べられないことはないです」
「猫は好きですか?」
 脈絡のない会話を疑問に思いつつ、杉浦は「昔飼っていました」と応えた。店名のkannaは、以前飼っていた猫の名前だ。その猫も、妻が逝って一年も経たないうちに、ふらりといなくなってしまったが。
「あの……杉浦さん、この後の予定ってありますか」
 あるわけがなかった。一人で夕食を食べて、風呂に入って寝るだけだ。
 海沿いを走る国道から逸れて、車は市街へと入った。もう十分足らずで千夏の家だ。赤信号で止まると、千夏の手が、ギアの上に置いたままの杉浦の左手を握った。杉村は驚いたが、顔には出さずにちょっと笑ってその手を握り返した。千夏の顔も綻んだ。
「だったら――ウチで晩御飯食べていって下さい」
「今日、このままですか?」
 はい、と千夏は大きく頷いた。
「ウチは家族も多いし、お客さんもよく来るんです。家まで送ってくれた人に対して何のおもてなしもせずに返したら、父にも母にも叱られてしまいます。普通の家庭料理しかありませんけど、是非」
 そういえば、広瀬も千夏の家で夕食をごちそうになったことがあると言っていた。
 杉浦からすれば、恋人を家族に紹介するというのはそれなりにハードルの高いイベントだが、千夏にそんな気負いは見受けられなかった。
(確かに、早めに挨拶に伺おうとは思ってた。この年齢差だからな、最初に『怪しい者じゃない』って、ご家族にわかってもらわないと)
「恋人として挨拶してもいいのなら」
「もちろん、私も彼氏として家族に紹介します」
「じゃあ、遠慮無くお邪魔します」
 千夏が笑顔を返したとき、信号が青に変わった。車が走りはじめても、二人は手を繋いだままでいた。


2010.03.14

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