2010年バレンタイン企画 
にぶんのいち ■ 7.手をつなぐ

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 杉浦の手の中で、役目を終えた携帯が閉じられた。それを広瀬に返し、杉浦は何事もなかったかのように仕事に戻った。広瀬は目の前で可愛い部下をあっさり口説かれ、これから先の展開を思ってうなだれた。
「……よくもまあ、あんなセリフがさらさらと出てくるもんだな」
「本心ですから」
 コーヒーカップを並べ終えた杉浦は、エプロンを外して椅子に腰かけた。広瀬もカウンターの内側から出て、客としての位置に戻る。上着に腕を通して、一度天を仰いだ。
「――うまくいくことを祈ってるよ」
「とりあえず、もう少し仲良くなってみます。いろいろありがとうございました」
 ひらりと手を振って、広瀬は店を出て行った。扉の向こうに垣間見えた町並みは、夕方の太陽に照らされて金色に輝いていた。



 久し振りに訪れたkannaの扉の前で、千夏は大きく深呼吸した。
(メイクよし、髪も跳ねてない、春色ワンピとペチコートのバランスも完璧。チョコレート準備良し。あとは笑顔だけ!)
 木の扉に触れると、急に緊張がこみあげてきた。
 あの後、杏とひとしきり抱きあって喜んで、今着ているワンピースを買いに行って、杉浦用のチョコも慌てて用意した。手作りする時間はなかったので市販のものだが、そんなことには構っていられなかった。
 時刻はもう少しで20時。閉店間際のkannaは、夜の街の中でひっそり佇んでいた。窓から溢れる光は、ほのかにオレンジ色で優しい。他に客はいないのだろうか。気になった千夏は、そうっと窓の方へ歩き出した。
 すると、
「――いつになったら入ってくるんです、冷えますよ」
「ひゃあッ!」
 内側から開けられた扉の向こうで、杉浦が苦笑していた。なぜ気づかれたのかわからなくて、千夏は赤くなったまま慌ててお辞儀した。
「こ、こんばんは……」
 招き入れられた店内に、客はいなかった。杉浦はいつもと同じ穏やかな笑顔で、カウンターの内側にある小型のモニターを指さした。
「屋根のすぐ下に小型カメラをつけているんです。だから、誰か来たらすぐわかるんですよ」
 長々とためらっていたのも見られていたに違いない。千夏はちょっと泣きたくなった。

「久しぶりですね。元気でしたか?」
 促されてカウンターに座った。いつもと同じ、ミルクだけ入れたコーヒーが千夏の前に置かれる。杉浦は自分のカップにもコーヒーを注ぐと、カウンターを挟んで千夏の向い側に腰を下ろした。二人、しばし無言でコーヒーを飲んだ。千夏の視線がお菓子用の籠に向く。
「お茶菓子、チョコレートだらけですね」
「みんな貰いものを持ってくるんです。
 そういえば、夕方広瀬さんが来たとき、水沢さんに貰ったチョコを見せびらかしていきましたよ」
「広瀬さんは、本当にもう……ちゃんと杉浦さんにもあります! こっちが本命チョコですよ」
 意気込んで千夏は鞄を開けた。本命だと堂々と宣言されて、杉浦は面映ゆい気持ちになったが、千夏はチョコを取り出すのに懸命で、彼の微妙な表情の変化には気づかなかった。
「ささやかですが、どうぞ」
「ありがとうございます」
 銀色のリボンで綺麗にラッピングされたチョコを受け取りつつ、杉浦はごく自然に千夏の指先を捕まえた。王子が姫の手をとるように、彼女の左手を下からすくいあげて、ゆったりと握りしめる。
「外で長い間立ってたから、まだ指が冷たいままですね」
 また顔を赤くして照れてしまうのだろうか。そんな予想をした杉浦だが、目の前の千夏はまったく違う反応を見せた。
 桃色の唇をわずかに開いて、うるんだ瞳でまっすぐに杉浦を見つめ返してくる。どこか夢をみているような視線は、杉浦が思わず手に力をこめた途端に、ふっと緩んだ。束の間二人を包んだ、艶っぽい雰囲気がほどけていく。
「杉浦さんの手、好きです。初めて会ったときも、握手してくれたでしょう? 綺麗な手なのに火傷の跡があって、職人さんだなぁって思ったんです」
 彼女の、すべすべとした手のひらが心地よくて、杉浦は親指の腹でゆっくりとなぞってみた。さらりとした皮膚は薄く柔らかで、指の先まで辿ると、するりと逃げていく。千夏は可愛らしい照れ笑いを浮かべた。
「手を繋いだときほっとするのは、寂しいからじゃなくて、嬉しいからじゃないかって――杉浦さんにそう言われたとき、私、目から鱗だったんです。でも、他の人と握手したときと、杉浦さんと握手したときは、全然違ったから」
 そういえば、そんな話をしたかもしれない。適当にもっともらしい言葉を返しただけだから、自分は覚えていないけれど。
 千夏はコーヒーカップを両手で包みこみ、こくりとコーヒーを飲んだ。相変わらず、おいしそうに飲む。
「違ったって、どんな風に?」
 きょとんと目を瞬いて、千夏は思案顔になった。上目使いで杉浦を見ている。
 我ながら意地悪な質問だと苦笑して、杉浦は扉の表に掛けているプレートをクローズにすると、窓のカーテンを閉めた。いつもより少し早い時間だが、もう店じまいだ。いま客に入ってこられても困る。
「うまく言えませんけど……一気に爪先まであったかくなる感じというか、できればこのまま離したくないなって考えたり」
 杉浦は単に素直な子だと捕えていたのだが、どうやら彼女は、考え事をしているとき思ったままにしゃべる癖があるようだ。
(離したくない、とは――また殺し文句を)
 鍵こそ閉めていないものの、この小じんまりした店の中に二人きりだとわかっているのだろうか。杉浦のテリトリーに飛び込んできた白ウサギに、危機感は全くない。
 杉浦は、いつも広瀬が座る席――千夏の隣に腰をおろして、カウンターの上に右手を置いた。
「はい、どうぞ。好きなだけ握っていいですよ」
「ええと……改めてそう言われると、すごく恥ずかしいですね」
 口でそう言いつつ、千夏は彼の手に自分の手を重ねた。杉浦の顔は見ないまま。純情なのか大胆なのか、よくわからない。
 杉浦は左手で頬杖をついて、千夏の横顔をじっと見つめた。至近距離でこれだけ見つめられれば嫌でも意識するだろう。ついでに繋いでいる手の方も、指をからめたり付け根を軽く爪でかいたりして遊んでいたら、千夏の肩がどんどんこわばって、最後には杉浦と真逆の方を向いてコーヒーを飲み始めてしまった。
 耳どころか、うなじまで桜色だ。
(綺麗な首筋だ。触りたくなるな)
 くるりとねじってピンで留めた髪は、触ってと言っているようだ。
 ここまで考えて、杉浦は自分にまだこういう感情があることに驚いた。好きな相手に初めて触れて、心が沸きたつ――ずいぶん前に味わったまま、忘れていた衝動。
「真っ赤ですね」
「勝手になるんです!」
「……晩ご飯食べに行きますか? もう遅い時間だから、居酒屋みたいなところになりますけど」
「全然平気です! 居酒屋でもファミレスでもファーストフードでも、どこでも。あと、敬語やめませんか」
「水沢さんもやめてくれるのなら」
 それは、と思わず千夏が振り返った。杉浦がほぼ無意識に近づいていたせいで、互いの前髪が触れようかという近さだった。キスしなければ失礼なのではないかと勘違いするくらいに。
 千夏の指先に力がこもった。彼女の目から警戒心が消えていくのがはっきりわかって、杉浦は逆に手をほどいた。ゆっくり伏せられた千夏の瞼を見ながら、ゆるく抱きしめる。そうして、耳元で囁いた。
「キスはまた今度にしましょうか。なんだか、もったいないので」
 肩透かしをくらった千夏は、とまどいながらも杉浦の腕の中に納まっていた。借りたマフラーと同じ、コーヒーの匂いに包まれて、酔う。ずっとここにいたい。
「もったいないって……意味がわかりません。今の雰囲気に流されないなんて、余裕ありすぎですよ」
「まあ、ゆっくりでいいかな、と」
 杉浦は言いながら、説得力の無さに笑いそうになった。
 抱きしめたのは失敗だった。互いの体が違いすぎて、確かめたくなる。つきあってみてもいいかと軽く考えていたはずなのに、触れてみると千夏は思ったほど幼くはなく、杉浦は手の置きどころに迷った。どこもかしこも柔らかくて、困ってしまう。
 名残惜しく離れて、杉浦はコーヒーカップを片付けた。
「閉店準備、早いですね」
「慣れてるから。パソコン閉じて、現金片付けて、火の元、戸締りチェックして終わり。
 じゃあ行きましょうか、何が食べたいですか?」
「寒いからお鍋とかどうですか」
 杉浦はエプロンを外して、捲くっていたシャツの袖を下ろした。一度二階に上がって、パーカーとダウンジャケットを羽織ってきた。私服は意外にカジュアルだ。足元も皮靴からスニーカーになっている。千夏は内心浮足立ったが、平静を装ってちんまりと椅子に腰かけて待っていた。二人並んで店を出る。
「じゃあ鍋にしましょう。お酒は飲める?」
「はい、誕生日は来月ですが、先月成人式もしましたし」
「成人式……昔すぎて、何やったかも覚えてないな。楽しかったですか?」
 千夏は無邪気に頷いて、杉浦が差し出した手を握り返した。少し外にいただけなのに、千夏の手はひんやりしていた。
「そういえば、水沢さんは手袋しませんね」
「好きじゃないんです、マニキュアが隠れちゃうので」
 そういうものかと、杉浦は頷いた。それならば、冬の間この手を温めるのは自分の役目だ。来月が誕生日だという情報も得たので、プレゼントの候補から手袋を除外する。異性にプレゼントを贈るのも久しぶりで、さて何をあげたものかと星を見上げた。
 息が白くなる程度には寒い夜だというのに、千夏が歩くたびに、桜色のシフォンワンピースの裾がひらりひらりと波打つ。杉浦を見上げる笑顔は、花が咲いたように鮮やかだ。
 暦よりも一足早く、そこだけが春だった。



(にぶんのいち/END)
2010.03.04
お題提供『1141』/七瀬はち乃 様 【Hands. 7】

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