2010年バレンタイン企画 
にぶんのいち ■ 6.ピース

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 二月になると、kannaのカウンターにはチョコレートが山積みされる。杉浦あてのバレンタインチョコではなく、もちろん売り物でもない。バレンタインチョコの特設売り場で入手できる珍しいチョコを常連客が買ってきては置いていくのだ。
 そして、その量は十四日のバレンタイン当日に膨れ上がる。頂きもののチョコレートを置いていく不届き者が後を絶たないからだった。
 ――広瀬も、その一人である。

「お前も食う?」
 広瀬が差し出した箱の中では、整然と並んだ生チョコが艶やかに光を跳ね返していた。杉浦は遠慮して、首から下げたタイマーに視線を落とした。店の中には、ぱちぱちと豆の焼ける音が小さく響いている。
「美味いのに。これ、昨日水沢からもらったんだ、今日休みだから前倒しで」
「それは良かったですね。
 すっかり仲直りしてるようですけど、あの件以来、彼女はウチに来てくれなくなりましたよ。間違いなく広瀬さんのせいです。ウチみたいな小さな店は、お客さん一人減るだけでも痛いんですよ……まったく」
 豆の焙煎具合を見る為、杉浦は機械に歩み寄った。広瀬はその背中をなんとなく見ていた。冗談めかしているけれど、広瀬に対して多少なりとも怒っているようだ。いつもより口数が少ない――というより、素っ気ない。
 この店で広瀬が千夏を怒らせた、その翌々日。広瀬は会社で千夏に会うなり、おはようの挨拶もすっとばして、すまなかったと頭を下げた。杏から詳細を聞いたわけではない。千夏から何かを打ち明けられたわけでもない。ただ、あの後の杉浦の態度と杏の行動で、なんとなく察しただけだ。
 千夏は「いいえ」と短く答え、しかしエレベーターの中で二人きりになると、わずかに躊躇してから広瀬の顔をまっすぐに見上げて、こう言った。
「広瀬さんのことは尊敬しています。私のことを考えて下さってるのもわかります、アドバイスも注意もありがたく思っています――ただ、それは仕事のことだけにして下さい。
 プライベートに口出しされるのは……好きじゃありません」
 最後はうつむいて、小声になりつつもなんとかそう続けた。
 言いにくいことを言わせたのは自分だ。広瀬は千夏の小さな頭を見降ろして、そのてっぺんにトンと手の平を置いた。くしゃりと髪を撫でる。
「以後気をつける。ごめんな、水沢」
「やめて下さい、髪が乱れます」
 広瀬の手から逃げようと膝をかがめた千夏は、けれど言葉ほど嫌がっていなくて。
 見上げてきたときの、一瞬の心細そうな表情が、笑顔に変わった。
 それ以降は再び仲良しの上司と部下として日々楽しくつきあっているわけだが、即座に関係を修復した広瀬の場合とは違って、千夏はそれ以来kannaに顔を出していない。

 白いシャツに、腰で結ぶシンプルなカフェエプロン。今は見慣れた杉浦のこの姿も、店を再開した三年前はぎこちないものだった。
 杉浦は、広瀬の二期下で入社してきた後輩である。仕事に対して一途で、頑張り屋で、すぐに他人を信用する――そんな男だった。三十歳になったとき、結婚したい相手がいると打ち明けられた。すぐに二人は籍を入れた。杉浦の妻は趣味が高じてコーヒー豆の店を始めた。元気に働いていたがある日倒れて――余命半年だとわかったとき、杉浦は躊躇することなく会社に辞表を出した。
 半年だと言われた命は、十ヶ月後に静かに消えていった。杉浦はどうするのだろう。また会社に戻る気はないのか。広瀬が上司から預かった言葉を抱えて杉浦を訪ねたとき、彼は妻の残したコーヒーショップを続けたいと言った。そうして、今に至る。
(俺より三つ下だから、今は三十八歳か。子供がいないせいか、コイツはかなり若く見える。独りになってもう四年だ、そろそろ吹っ切ってもいい頃だろ)
 タイマーの電子音が響いて、杉浦が焙煎できた豆を器に移していく。彼の仕事が一段落するまでに客が一人来た。オリジナルを中挽きで200グラム。杉浦が手が離せないようなので、広瀬はカウンターに入り、慣れた仕草で豆を挽き袋詰めして、客に手渡した。客が店を後にして、また店内は男二人になる。
 広瀬はカウンターの内側から、狭い店内を見渡した。豆の入った瓶が種類別に並んだ棚、大きな冷蔵庫、電気ケトルと手動のミルが並んで置かれ、客用のシンプルなコーヒーカップがいくつか。通りに面した店の窓からは、通り過ぎる人々がよく見える。
 この景色が広瀬の日常だ。誰かが訪れて、一休みして――去っていく。

「お前、水沢にまた来てほしいのか」
「……それはそうですよ」
 豆を挽いたときに飛んだ粉が、杉浦のエプロンにくっついていた。手を洗いつつ振り向いた彼の笑顔が当たり障りのないものだったので、広瀬は眉間に皺を寄せた。気に入らない。
「だったら、ほら」
 広瀬は自分の携帯を手にとると、千夏の番号を表示させて杉浦の目の前に差し出した。
「お前が直接誘えばいいだろ。また来てくれって、会いたいって言えば来るよ、アイツは」
「そういうつもりでは」
「じゃあどういうつもりだ。二週間経っても俺に対して怒ってる理由が、他にあるのか?
 確かに俺は、水沢が誰を想ってたか気付かなかったくらい鈍いよ。だがな、つきあいが長いせいか、お前のことは多少わかるんだ――水沢のこと、気になってるだろ。
 水沢から、プライベートに口出しするなと言われた。杏にも、おせっかいは止めろと言われた。だけど見ていてじれったいときは、なんかしてやりたくなるんだよ、仕方ねぇだろ!」
 杉浦は、無理矢理手の中に押しこめられた携帯電話を見つめた。
「……俺でいいんですかね」
「決めるのは俺じゃねぇよ。ただ、変に期待させて泣かすのなら、動くな」
 期待させないように、千夏の気持ちに気づかないフリをしていたのは本当だ。
(だって、面倒じゃないか。あんな純粋な目で見られて、ちょっと手が触れただけで真っ赤になるくらい一途に好かれて――気のある素振りなんかしたら……)
 こっちまでそんな気になってしまう。

 半分は憧れなのだと思う。まだ少女と呼んでもいい千夏から見れば、杉浦は落ち着いて見えるのだろう。中身はそれほど大人ではないのに。
 初めて会ったとき、差し出された手を握って内心ひどく驚いた。冷たくて小さな手の平だった。温めてあげたいと考えたのは、しごく当たり前のことなのだと思う。
「俺だって、手当たり次第に誰にでもマフラー貸したりしませんよ。いじらしくて可愛い子だと思ったから、助けたんです。
 ただ、いざ向かい合うとなると、水沢さんが素直すぎて、どう扱っていいのかわからないんです。こういうの久しぶりすぎて――加減がわかりません」
 加減って、何の?
 広瀬が問いかける前に、杉浦はコールのボタンを押していた。



 千夏の上着のポケットで、携帯が震えた。
「広瀬さんからだ」
 一緒に買い物をしていた杏が、「父さんから?」と足を止めた。ショップの紙袋を肩にかけたまま、千夏はフロアの端に移動した。歩きながら携帯を耳に当てる。
「はい、水沢です」
『杉浦です、こんにちは』
 急ぎ足で歩いていた千夏が急に立ち止まったので、杏はその背中にぶつかってしまった。「急に止まらないでよ、千夏!」という杏の抗議は、彼女の耳に届いていない。千夏の頭は真っ白になった。
 どうして、耳元で杉浦のささやきが。
『なかなか店に顔を出してくれないので、寂しくなってしまいました。もう来てくれないんですか?』
 二週間以上会っていなかった。声も聞いていなかった。だから、久しぶりに聞く声に千夏は舞いあがってしまった。からかうように、笑いを含んだ杉浦の声。嬉しくて、どう返事をすればいいのかわからなくなって、金魚のように口を開いてはまた閉じた。行きたい。行きます、すぐにでも。
「あ、の」
 軽く答えればいい、簡単だ。思うほどに千夏の体は固まった。
 ――この人は私の好意を知っている。
 ショッピングモールの通路で立ちつくしたまま、千夏は時計を見た。午後四時。この時間なら、今からだって行ける。
「……会いに行ってもいいですか。困りませんか?」
 どうせ知られているのなら、もう開き直ってしまおう。ずっと避けて会えないより、伝えたいことをすべて口にした方がいい。会えなくて寂しかったと、杉浦が言ってくれたのだ。それだけで、千夏は前に踏み出すことができた。
『困ったりしません、いつでも来て下さい。
 俺は、お互い気まずくなりそうだという理由で、いろんなことを見ないふりしていました。こんな人間なので、親しくなったら水沢さんを失望させるかもしれません。それでもよければ、また店に来て下さい。ついでに、どこかで晩御飯でも食べながら、ゆっくり話をしましょう』
 千夏は、はい、と短く返事をした。反射的に応えてしまった後で、慌てて付け加える。
「今日! あの、今日は駄目ですか」
 待ってますと、杉浦は言ってくれた。千夏は電話を終えると、いろいろ聞きたくてうずうずしている杏の手を引いて、階段近くにあるベンチに腰を下ろした。
「電話、杉浦さんから?」
「うん」
「それで、どうなったの? ねえ」
 千夏は真っ赤になった顔を両手で覆ってうずくまっていたが、無言のまま、杏にピースサインを出した。



2010.03.01
お題提供『1141』/七瀬はち乃 様 【Hands. 7】

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