2010年バレンタイン企画 
にぶんのいち ■ 5.デコピン

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 父親と待ち合わせていた杏がkannaを訪れたのは、千夏が出て行ってしばらく経ってからだった。
「こんばんは……何突っ伏してるの、お父さん」
 カウンターにうつ伏せて背中も丸めて、慰めてくれと言わんばかりの父親の姿に、杏は首をかしげた。ニット帽についているポンポンが可愛らしく揺れる。
「――水沢が怒って出て行った」
「千夏が怒った? ってことは、お父さんが怒らせたのね。何を言ったの」
 さっき千夏が座っていたスツールに、今度は杏が座る。杉浦にコロンビアを注文すると、うなだれている父親の背中を軽くたたいた。
「私が仲直りさせてあげるから、話して? お父さん」
 さすが長年一緒にいる娘だけあって、広瀬の扱い方を心得ていた。
 杉浦が杏のコーヒーを入れ終わるまでに、広瀬はおおまかに何があったか説明した。あくまで自分は良かれと思って話をしたのだと強調しつつ。しかし、あらましを聞き終わった後の杏の表情は、出ていく前の千夏とよく似たもので……。
 彼女は無言で父親を睨むと、突然その額に思いきりデコピンを決めた。まったく予期していなかった攻撃に、広瀬は「うっ」と短く声をあげて、額を押さえた。
「もうお父さんは……なんでそんなにしつこく話したの。おばさんっぽいよ、最悪だよ」
 傷つきやすい父親は返す言葉もなく、額に手を当てたままうなだれた。しかし、冷めたコーヒーを一気に飲みほすと、気を取り直したように背筋を伸ばして娘に向き直った。
「そうは言っても、水沢はまだ十九歳なんだぞ。社会人二年目で、仕事に打ち込んで家に帰ったら弟たちの世話して。もうちょっと人生楽しめって言いたくもなるだろ」
「それって、すごく余計なお世話だよ。千夏だって毎日楽しく過ごしてる。あの子ああ見えて我慢するの嫌いなんだよ、好きなことしかしないように自分のポジション考えて動いてる。お父さんが思ってるより、私たちの年代って強かなんだから。
 今日の外食はキャンセルね。私、これから千夏と会う」
 携帯を取り出した杏に、広瀬は
「今から!? 店まで予約してんのに」
「仕方ないでしょう、お父さんのミスをフォローしないと。予約キャンセルして、その後、海よりも深く反省して下さい」
「俺はそこまで言われるようなことをしたのか……?」
「したの! よりによって、この店でそんな話するなんて、馬鹿だよ。
 これに懲りたら、もうおせっかいは止めること。あと、次会ったとき、ちゃんと千夏に謝ってよ」
「……わかりました」
 千夏は電話に出なかった。仕方なく、杏はメールを打つ。その隣で、広瀬は杉浦と小声で何やら話していた。「杉浦はそう言うが、俺にはアイツが恋愛中だなんて思えない」――耳に入ってきた言葉が、杏の指を止めた。
 杏は携帯を握り締めたまま、杉浦を振り返った。目が合うと、杉浦はわずかに苦笑を浮かべて、唇の前に人差し指を立てて見せた。顔を伏せている広瀬には見えない。杏だけにわかる、その内緒の意味。
「杉浦さん……」
 彼は千夏のことをどう思っているのだろう。可愛いお客、友人の部下、それ以外に何か思うところはないのだろうか――気づいているのならば、尚更に。
「杏ちゃん、水沢さんに会ったら、また来て下さいって伝えて。それだけでいいから」
 コーヒーカップを拭きながら、いつもと同じ口調でそういう杉浦の真意が、杏には読めなかった。じっと目を見ても相手は動揺もしない。杏の手の中で携帯が震えた。「いまどこ?」というメールに対しての、千夏からの返事は「会社に戻ってるとこ」。
 いつものファミレスで待ってるから。そう返して、杏は席を立った。



 残業するなら遅くなるだろう。杏のそんな予想に反して、千夏は思いのほか早く店に現れた。
「だって、来週の会議で広瀬さんが使う資料を作ろうと思ってたんだもの。締切までまだ時間もあるし、もうやる気なくなっちゃって」
 公私混同を嫌う千夏がここまで言うのだ、よほど気分を害したのだろう。
「ごめんね、ウチのお父さんが本当に無神経なこと言って。ちゃんと叱っておいたから!」
「悪気がないのはわかるんだけど――参った。なんで杉浦さんの前で……」
 クリスマスも正月も仕事してたなんて、いかにも仕事一筋の人間みたいだ。コイツ、もてないんだ、と言われているような気さえした。杉浦はどう思っただろう。いたたまれなくて、目も合わせずに店を出てしまったけれど。
 深いため息をつく千夏を前に、杏は迷っていた。
 杉浦のあの「内緒の合図」は、広瀬には秘密ということなのか。『また来て下さいって伝えて。それだけでいいから』とわざわざ言い足したということは、千夏に余計なことを告げるなという意味――か。
「杉浦さん、千夏にまた来て欲しいって言ってたよ。変に意識して避けちゃダメだよ」
 千夏が頷いたとき、頼んでいたパスタがきた。二人でいただきますと手を合わせて、とりあえず空腹を満たす。
 そこからは話題が変わって、見たい映画の話でもりあがった。いつものようにデザートのケーキを頼んで、紅茶をおかわりしたところで、千夏がぱちりと瞬きして視線を固定した。湯気がたちのぼる紅茶の表面を凝視している。千夏が考え事をするときの癖だ。
「杉浦さん――なんでわざわざ杏にそんな伝言したのかな。私と広瀬さんが気まずくなるのはわかる、でも私が杉浦さんに遠慮する理由なんて……」
 黙り込んだ千夏の顔がゆっくり上がって、杏を見つめた。杏は視線を逸らしたくなったけれど、我慢して千夏を見つめ返した。知らないフリをしようとしても、無理だ。杏はそこまで大人になりきれない、親友に隠しごとをしている罪悪感の方が強かった。
「杉浦さん、私の気持ちを知ってるの?」
 つぶやく千夏の目にうっすらと涙の膜が張っていく。杏は小さく首を振って、わからないと応えた。
「でも、千夏には好きな人がいるんじゃないか、って。
 前も言ったけど、千夏は綺麗になったもん。お父さんは毎日会ってるから気づかないんだろうけど、時々会う私とか杉浦さんには、すぐわかるぐらいにね」
 可愛くなった、綺麗になった――だから何だというのだろう。千夏は唇を噛んで顔を伏せた。
 いくら髪型を変えても服の印象を変えてみても、同じだ。魔法でも使わない限り、歳の差が縮まることはない。広瀬にあんなことを言われて流すこともできず、感情のままに不機嫌になって立ち去ることしかできなかった。指きりがいくら嬉しくても、杉浦に子供扱いされたくない。
「私……もうあの店に行けないよ。また来てって言われても、どんな顔して行けばいいかわからない」
「なんでそんな結論になるの? また来て欲しいって言ったんだよ。杉浦さんが千夏の気持ちに気づいていてそう言ったのなら、迷惑だとは思ってないってことじゃない」
 千夏はうつむいたまま首を振った。思っていることを口にする前に、涙がこぼれそうだった。
「だって――それなら、なんで何のリアクションもないの。杉浦さん、優しかったけど、それはお客さんの誰にでも向ける優しさで……私の気持ち知ってて、あえて知らないフリしてるのは、応える気がないから、でしょう?」
 涙声でそう言って、千夏はしばらく顔をあげなかった。温かかった紅茶が冷めていく。テーブルに並んだケーキは放っておかれたままだ。
 杏は返す言葉もなく、静かに泣く親友を見守っていたが、やがて千夏の隣に移動して、その手を握った。千夏はぐすりと鼻を鳴らすと、睫毛を涙で濡らしたまま小さく笑って、杏の肩に寄りかかった。


2010.02.23
お題提供『1141』/七瀬はち乃 様 【Hands. 7】

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