2010年バレンタイン企画 
にぶんのいち ■ 4.握りこぶし

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 一月が終わろうとしている。
 一年で最も寒い時期だというのに、今日は妙にあたたかい。広瀬はコートすら着ていなかった。背広だけを隣のスツールに置いて、Kannaのカウンターで熱いコーヒーをすすった。今日の豆は杉浦の勧めでハワイコナ。いつも飲むものより酸味が強かった。

「水沢がちょくちょく来てるんだって?」
 杉浦がパソコンの画面から目を離さないまま頷いた。今日は広告の版下を作成中だ。自営業、従業員は自分のみというこの店で、杉浦はオールマイティな仕事ぶりを身に付けた。
「時々顔を出してくれますよ。この前は杏ちゃんも一緒でした。毎回お菓子の差し入れをしてくれます。ちょっと気を使いすぎなところもありますが、いい子ですね」
「あの歳にしちゃ目端が利きすぎるきらいがあるが、有能だよ。何より素直だしな」
 嬉しげに語る横顔は、我が子を自慢しているようだ。それを垣間見て、杉浦は思わず笑ってしまった。
「あからさまに店長候補として育ててますよね、広瀬さん」
「まあな。三年後には店長やらせるつもりだよ。あいつ、バイト期間含めると三年店舗にいたから、もう接客とか在庫管理は教えることないんだよ、読みも要領もいい。営業やって、他店に半年くらい研修いかせて、その後は本人の希望次第だけど――企画やりたいとか言いだしそうな気配もあるから、微妙だけどなぁ。
 あの子は店でお客さんと直に接するのが、一番向いてると思うんだ」
 杉浦は仕事を辞めて四年経つが、その前は広瀬と同じチームで働いていた。
 自分も会社に残っていたら、こんな風に下を育てていたのだろうか――杉浦はぼんやりとそう思った。
 個性のばらばらな人間が集まって、意見を言い合いぶつかったり意気投合したり、そんなことを繰り返しながらひとつのことを成し遂げていく、その難しさと面白さ。それは組織に属していない今の杉浦からは遠い景色だった。
 だが、今の立場を後悔しているわけではない。毎日コーヒーを買いに、または飲みに来てくれる人たちがいる。世間話から悩み相談まで、誰かの話を聞く日々もまた、楽しい。

「そう言えば、この前水沢さん、こんなこと言ってましたよ。
 ――『手をつないだとき、人の体温にほっとするのは寂しいからでしょうか』って。すごく寒い日だったから、何となく口にしただけかもしれないけど、なんだか気になりました」
「で、お前は何て答えたんだよ」
 勝手に二杯目をおかわりしている広瀬に問われ、杉浦は顎に手を当てた。しばし考える。
「さあ、適当に何か返した記憶はありますが……あまり覚えてません。ただ、あの子はぽつんとそんなことを言ってしまうくらい寂しいのかと思ったんです。いつも手が冷たいし」
「そりゃただの冷え症だよ。杏も冷たい手してるぞ。そもそも、アイツら薄着すぎるんだよ。冬でもショートパンツに生足だからな」
「広瀬さんが『生足』って言うと、いやらしい単語に聞こえますね」
「偏見も甚だしい! 娘をそんな目で見ねぇよ」
「水沢さんは違うでしょう」
「あれだって、娘みたいなもんだ」
 ことりと杉浦の前にマグカップが置かれた。広瀬は杉浦の分も淹れてくれたらしい。
 杉浦は礼を言うと、パソコンから指を離して椅子に背をあずけた。一度ぐっと体をのばしてから、マグカップを手にとる。我ながらいい香りだと満足した。
「話を戻すけど、水沢が寂しがりなんて気のせいだよ。あいつの家庭環境は今どき珍しくてな」
「複雑なんですか?」
「いや、ごく普通の家庭だ。ひいばあさん、じいさんとばあさん、両親、弟妹が三人、あと親戚の子が二人居候してる。総勢十一人の大家族。いまどき珍しい、当たり前の家庭だよ。
 一回送って行ったときに晩飯よばれたけど、賑やかでテレビの音も聞こえないんだ。いただきますって全員で手を合わせて、大人も子供もつまらないことでよく笑って、よくしゃべって――楽しい家だった。
 俺やお前が作りたくて作れなかった……そんな理想の家庭で育ったんだよ、アイツは。礼儀正しくてしっかり者で、たくましい上に素直。その上、俺に懐いてる。どうしたって可愛いわけだよ」
「……だから目を掛けてるんですか。広瀬さん、可愛がりたい気持ちはわかりますけど、社内で変な噂立てられないように注意しないと。スキンシップ過剰ですよ、よく頭撫でたりしてるでしょう」
「お前なー、そういうのは絶対ない! まだ十代の子供相手に、そんな気持ちになるか馬鹿。
 可愛がってんのは、アイツがやる気のある新人だからだ。砂が水吸うみたいに、どんどん吸収して伸びていく。ミスして反省しても、必要以上に落ち込んで引きずらないのもいい。そういうヤツは、見てて楽しいだろ? 
 水沢な、高三の夏に、卒業後社員として雇ってもらえる可能性はないかって直談判してきたんだ。願ってもない話だった。当時の店長からもスタッフからも推薦きてたし、残ってほしいっていつ切り出そうか、俺も迷ってた。
 だが気になることもあった。水沢は成績がいいって杏から聞いてたから、大学行こうと思わないのか、って訊いたわけ。そしたら、『四年間大学に行くのと、四年間今の店で働くの、どっちが今後の私にプラスになるか考えたら、絶対後者です』って、きっぱり」
「男前ですね」
「かなりな。ぶれないよ、水沢は――お、噂をすれば」
 窓の外、遠くに見える交差点を歩いてくる千夏に、広瀬が気づいた。二人ともいい大人である。直前まで千夏のことを話していても、本人にそれを悟られるような愚は冒さない。

 千夏は、外の冷たい空気をまとって入ってきた。指先と頬が赤い。
 そんなに気温は低くないのにと、広瀬は不思議に思ったが、何のことはない。さっき話していたように、ボアのついたショートパンツから伸びる千夏の足は素肌のままだった。正確には柄の入ったニーハイソックスをはいているのだが、さらけ出された太腿が見ているだけで寒い。足元はもこもこしたブーツ、上もセーターにダウンベストだけ。薄着すぎるだろう。広瀬はわずかに顔をしかめたが、口には出さなかった。自宅で娘に同じことを注意して、「うるさい」と言われた記憶がそうさせた。父親は傷つきやすいのだ。
 千夏は肩から黒いトートバッグを下ろし、広瀬の隣に座った。
「広瀬さんも来てたんですか? 今日、直帰になってましたけど」
「そうそう。今日は杏とデートなんでな、仕事は早めに切り上げ。ここで待ち合わせだよ」
 はあ、と気のない返事を返した千夏の前に、ミルク多めのコーヒーが置かれた。豆はkannaのオリジナルブレンドだ。毎回同じものを注文するので、千夏が来るとわかった時点で杉浦は席を立って用意していたのだった。
 軽く息を吹きかけて一口飲む。千夏の顔がほっこりとほころんで、その笑顔が何より「美味しい」と語っていた。確かに素直だ。杉浦は広瀬の言葉に納得した。
 当の千夏は、ちびちびとコーヒーを飲みながら広瀬の方を向いた。
「私はここでコーヒー飲んだら、事務所帰って会議用の資料まとめますよ」
「よく働くなぁ、お前」
「明日休暇なので、心おきなく休みたいんです。メールしておくので、明日チェックお願いします」
「わかった。ところで水沢、今の杏の彼氏と会ったことあるのか」
 強引な話題の切り替えに、カウンターの中にいた杉浦でさえ、がくりと肩の力が抜けた。千夏は目を細めて、溜息をついている。こんな上司は嫌だろう。
「黙秘します。私から何か聞き出そうとしても無駄ですからね」
「バイト時代は、恋愛相談にもいろいろのってやったのに……ずいぶん冷たくなったなぁ」
「そういうこと言うと、どんどん冷たくなりますよ、私」
「まあ半分冗談だけどさ。杏と同じように、お前のこともそれなりに心配してるわけだよ。
 ――そういえば、マーケティング課の後藤って知ってる?」
「知ってます。新人研修のときに指導係でした」
「一回メシでもどうかって誘われてんだよ、お前も一緒に」
「私もですか? どうして」
「仕事の話にかこつけた方が誘いやすいからだろ。俺はおまけで、お前がメイン。後藤みたいな男はどうだ?」
「……仕事上はいい方だと思いますが、プライベートはどうでもいいです。特に興味ありません。」
 話を聞いていた杉浦の方が、二人の温度差にいたたまれなかった。千夏から広瀬に対する信頼度が、目に見えて失われていく。
(娘のようだと思うのは勝手ですが、水沢さんはあなたの子供じゃないんですよ、広瀬さん)
 人付き合いの中で、踏み込んではいけないラインというものがある。
 恋愛関係でおせっかいを焼くのは、本人が希望してない場合、かなりの確率で嫌がられる。杉浦はマグカップを拭きつつ、じっと広瀬に視線を送ってみたが、広瀬はまったく気付くことなく、千夏に向かって後藤氏の長所を並べていた。
「余計なお世話だと思うだろうが、仕事ばっか頑張ってもオフの張り合いがないだろ? 水沢は、クリスマスも仕事、正月も仕事だ、心配にもなるよ」
「――私は別に、彼氏が欲しいとは思いません。食事にも行きませんし、これ以上話す意味もわかりません、お先に失礼します。
 杉浦さん、コーヒーごちそうさまでした、美味しかったです」
 百円玉をいつもの缶に入れて、さりげなく籠に新しいお菓子を追加し、千夏は素っ気なく出て行った。いつものように柔らかく笑んで手を振ることもなく、杉浦がカウンターから出て見送る前に、もう扉は閉まっていた。
 店の中の空気が一気に重苦しくなる。さすがに嫌われたとわかったのか、広瀬は頬杖をついて、ううんと唸った。
「……広瀬さんって、仕事はできるのに、変なとこ鈍いですよね。彼女、好きな人がいますよ」
「なんでそんなことがわかるんだよ、杉浦」
「わかりますよ――見ていれば」
 杉浦は遠ざかる千夏の背中を窓越しに見送って、ぽつりとつぶやいた。白い冬空の下、足早に歩く彼女の手がきつく握りしめられていることに気づいて、かすかに胸が痛んだ。


2010.02.19
お題提供『1141』/七瀬はち乃 様 【Hands. 7】

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