2010年バレンタイン企画 
にぶんのいち ■ 3.バイバイ

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 広瀬杏はカフェオレを飲みつつ、目の前の親友を見つめた。
 中学生の時に知り合って以来ずっと親しくしている水沢千夏は、可愛い見た目と堅実な内面のギャップが大きい。高校時代、彼氏と長続きしないことで有名だった千夏は、恋愛に対して淡泊だった。本人いわく「非恋愛体質」。高校卒業後はバイト先にそのまま就職して、現在は仕事が恋人状態だ。
 大学に入った杏とは大きく生活スタイルが変わったけれど、二人は昔と変わらず仲良しだった。年末年始は千夏の仕事が忙しかったせいで会えず、年が明けてかなり落ち着いてから、久しぶりにこうして会っているわけだが。

 一ヶ月ぶりに会った彼女が、大好物のアップルパイを前にして、深いため息なんてついているのだから、杏としてはどうしても気になった。クリスマス前は元気いっぱいだったのに、この変貌ぶりはどうしたことか。
 まだ二十年程度しか生きていないが、杏は最近、恋愛中の人間特有の雰囲気がわかるようになってきた。特に女友達の場合はわかりやすい。恋すると女の子は可愛くなるというのも、あながち間違いではないのだ。やはり少しでもよく見られたいという気持ちの表れなのだろう、突然女らしくなる。
 今日の千夏などその典型だ。元々お洒落好きな子ではあったが、気合いの入り方がいつもと違う。さりげなく髪も巻いているし、爪も凝っているし、ショートパンツの丈が短い。黒のニーハイソックスに包まれた美脚が惜しげもなく晒されているので、さっきからちらちらと視線を向けられているのだが、当の千夏はまったく気付いていなかった。
「ちなっちゃーん、美味しいケーキもまずくなるんですけど。何、その溜息」
「んー、自分の想像力の無さを思い知って落ち込んでるだけ。杏と会うのは楽しみだったし、ここのアップルパイは相変わらず美味しいし、コーヒーもまずまずだよ」
 そういえば、紅茶好きな千夏がコーヒーを頼むのは珍しい。杏はアップルパイをフォークで突きさしている親友にストレートに訊いてみた。
「好きな人できた?」
 ぴたりとフォークの動きが止まったのは、一瞬だけ。
「……それらしき人はいた……そうかなぁと思ったけど、もういいの。玉砕したから」
「展開早すぎるよッ。それって、仕事関係の人? 詳しく話してみなよ、ってか聞きたい!」
「そんな面白い話じゃないよ。
 すごく親切でいい人で、けっこう年上で。私のことを子供扱いする――白いシャツが似合うひと」
 頷いていた杏の眉間に、わずかに皺がよった。ひとり、思い当たる人物がいる。
「――もしかして、ウチのお父さん?」
「違うッ!! なんで杏パパに片思いしなきゃいけないのよ。それこそ何年もお世話になってるし、今は私の上司なんだから。無いよ、絶対」
 千夏は高校時代、杏の父親である広瀬智明の紹介でセレクトショップのバイトを始め、その販売力を買われて、卒業と同時に正社員になった。入社二年目にして店舗から営業に異動、現在は広瀬の下で日々仕事に勤しんでいる。いまでこそ「広瀬さん」と呼んでいるが、中学の頃は「杏パパ」と呼んでいた。その名残が杏と話すときだけ、時々出てしまう。
「杏パパ……広瀬さんじゃないよ。広瀬さんの友達。
 昨日ね、広瀬さんと話してる時に、その人が結婚してるって聞いて――年齢的に既婚者でもおかしくなかったのに、まったくその可能性を考えてなかった自分にへこんだの。指輪してないから勝手に安心して、そこらへんのこと、考えてもみなかった。
 で、それを聞いて予想以上に落ち込んじゃって、鈍い私でも、そういうことかって自覚した。それだけ」
「父さんの友達かぁ。じゃあ、かなり年上だね。それで既婚者だと、確かにどうしようもないかも。
 ちなみに誰?」
「杉浦さんっていう、コーヒー屋さん」
 つまらなそうにつぶやいて、千夏は残りのアップルパイをさくりと突きさし、口に放りこんだ。シナモンとバターが効いたリンゴは甘く口の中で溶けて、千夏の沈んだ気持ちを少しだけ浮上させてくれた。その正面で、杏は複雑な面持ちでいた。
「……杉浦さんですか」
「杏、知ってるの?」
「知ってるよ。小さい頃から、よく遊んでもらってる」
 だから杏は、千夏の知らない杉浦の情報をかなり持っている。
 たとえば、杉浦は広瀬親子の会話によく登場する人物として、ずいぶん昔から千夏のことを知っていた。彼にしてみれば、千夏に初めて会った時も初対面とは感じなかっただろう。噂の人物にやっと会えたという気持ちだったのではないだろうか。
 杏にとって杉浦は、話のわかるおじさんだ。両親が離婚して母親が出て行ったときも、杏がさみしくないようにと、杉浦はご飯を作りに来てくれた。杉浦にとっても、杏は娘のようなものだろう。だから、千夏に対しても必要以上に優しくしてしまうのかもしれない。必然的に、女として見てもらえる確率は低そうだった。
(このまま諦めさせた方がいいのかな。でも、千夏は本気っぽいし……)
 彼氏なんて別にいらないと平然と言い放っていた千夏が、ここまで変わったのだ。事実を知っているのに黙っているのも気持ち悪い。
「お父さんから何を聞いたの? 何て言ってた」
「……杉浦さんとずいぶん仲いいんですねって言ったら、『俺はアイツの結婚式で、苦手なスピーチまでしたんだぞ』って」
「それは本当。写真見せてもらったことある。でもね、それって私たちがまた赤ちゃんだった頃の話なの。結論から言うと、今の杉浦さんはシングルだよ」
「――バツイチ?」
「ってことになるのかな。ウチの親は離婚だけど、杉浦さんの場合は、死別。四年前に奥さんが病気で亡くなったの。杉浦さんは、奥さんの看病するために仕事を辞めた。それまでは、父さんの同僚だったんだよ」
「そうなの!?」
 もし杉浦が仕事を続けていたとしたら、一緒に働いていたのかもしれない。千夏は不思議な気持ちになった。

 杉浦について突然たくさんのことを知って、頭が整理できない。
 ただ千夏は、広瀬から話を聞いた時、杉浦が既婚者だとすんなり納得した。そういう落ち着きが杉浦にはあったし、彼の心には誰かがいるのだろうという気が、なぜかしていた。
(亡くなった奥さんのこと、まだ想っているんだ……杉浦さん)
 千夏は隣の椅子に置いている荷物にちらりと目をやった。自分のバッグと並んで置いてある、小さな紙袋と水色の傘。
「今日、杏と別れた後で、『Kanna』に行くつもりだったの。借りた傘とマフラーを返しに」
「じゃあ、一緒に行こう。私も久しぶりに杉浦さんのコーヒー飲みたい」
 言うなり席を立った杏に笑顔を向けられ、千夏もコートを手にした。



 木製の扉をくぐると、珍しく先客がいた。千夏と杏は店の中に入ったものの、カウンターに座れずに立ちつくした。
「こんにちは。繁盛してますね、杉浦さん」
「杏ちゃん。水沢さんも、いらっしゃい。少し待っててくれるかな、今日は午後からお客さんが続いてて――こんなこと珍しいんだけど」
 カウンターに座っていた先客たちが、「我々はもう帰るから、どうぞ」と席を立とうとしたので、千夏は慌てて顔の前で両手を振った。
「いいです、お気遣いなく。今日は、この前借りたものをお返ししようと思って……コーヒーはまた今度飲みに来ます」
 千夏が傘と手提げ袋を持ち上げてみせると、杉浦も思いだしたようで、「いつでも良かったのに」とカウンターから出てきてくれた。
「ありがとうございました、すごく助かりました。これ、クッキーです。少しですけど、みなさんで召し上がってください」
 紙袋には、綺麗に畳んだマフラーと一緒に、昨日焼いたクッキーが入っていた。渡すだけなのに、千夏は自分の顔が熱くなるのを感じていた。この前は二人きりでも平気だったのに、どうして。
 せめて一杯だけでも飲んで帰ればと他の客にいわれ、なんだかいたたまれなくて、千夏は用事があるからと嘘をついてしまった。杏は隣で呆れながらも、黙って一緒に店を出てくれた。
「――借りてきた猫みたいだねぇ、千夏。おどおどしちゃって、可愛いー」
「うるさいっ」
 千夏は、まだ火照ったままの頬を手で押えて、足早に歩いた。と、杏が千夏のコートを掴んで引きとめた。
「ね、杉浦さん、見送ってくれてるよ」
 振り向けば、店の大きな窓の向こうから、杉浦がこっちを見ていた。杏が手を振ると、柔らかく微笑んで手を振り返してくれる。
「ばいばーい、また来るねー!」
 聞こえないだろうに、杏はそう言ってにこにこと笑った。
 気がついたら、千夏も手を振っていた。いつもお辞儀で見送ってくれる杉浦が、少しだけ近くなった気がする。
(好きだって思うだけなら、別にいいのかな……)
 彼が笑いかけてくれる、手を振ってくれる、それだけでこんなに嬉しい気持ちになるのだから、無理に気持ちを殺す必要はないのかもしれない。相手にされないのはわかっている、欲張らなければ――想うだけなら。

 そのまま駅まで歩いていると、杏の携帯が鳴った。杉浦からのメールだった。
「――『水沢さんに、手作りクッキーありがとうございます、って伝えておいて。おいしくいただいてるよ』だって」
「……杏、本当に仲いいんだね」
「私にヤキモチやかないでよー、もう!」
 ふざけて杏が抱きついたので、千夏はよろめきながらも受け止めた。そのままじゃれあって駅まで向かう二人を、杉浦は遠くから微笑ましく見ていたのだった。


2010.02.12
お題提供『1141』/七瀬はち乃 様 【Hands. 7】

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