2010年バレンタイン企画 
にぶんのいち ■ 2.ゆびきり

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 最近の天気予報は当たらないと、自分の直感を信じたのは失敗だった。しかし、午前中はぽかぽかとした陽気だったのだ。十二月にしては珍しい暖かな日差しが気持ち良かった――それがこんな天気になるなんて、誰が予想しただろう。

 千夏は歩道を歩きながら、小さく体を震わせた。冷たい風が吹き過ぎるたび、首をすくめてしまう。ひらひらと舞い落ちてきた雪が、ビルの谷間を踊りながら飛んでいく。
 千夏はレトロピンクのロングセーターをワンピース代わりに着ていた。襟ぐりが広くて可愛らしいデザインだ。下に着たニットキャミをホルターネックで結んで、レギンスとブラウンのロングブーツで足元を締める。白いダウンジャケットを羽織っているものの、足元からはいあがってくる冷気はどうしようもない。ちょっと天気が崩れただけで、こんなに気温が下がるとは。
 くしゅん、とくしゃみまで出る。このままでは風邪をひきそうだった。
(どこかで休憩……あったかいトコで。カフェで報告書まとめようかな)
 自分の担当区域だ。頭の中に行き慣れた店が何件か浮かんだ。そこで、あのカウンターだけの店を思い出した。
 こじんまりした、焙煎コーヒーのお店。あの後、広瀬に連れられて一度行った。一人ではまだ行ったことがない。あの店には、一見さんお断りという雰囲気がある。そんな決まりはないのだろうが、変に居心地がいいだけに、常連客以外受け入れないような――考えすぎだろうか。
 周囲を歩く人の歩調が変わった。顔をあげた千夏の目に映ったのは、細雪から牡丹雪に変わった白い空。そして彼女の足は、木製の扉を目指して駆け出した。



 冷たい風に背中を押されて、ためらいもなく扉を開けると、あのコーヒーの香りと暖かい空気に迎えられた。それだけで千夏の肩のこわばりが解けた。
「こんにちは」
「いらっしゃい……って、水沢さん! 頭に雪が積もってますよ。大丈夫ですか?」
 たまたま手が空いていたのか、店主の杉浦はカウンターの中でコーヒーのラベルを作っていた。相変わらずの白シャツと黒いエプロン姿だ。今日は焙煎の機械が回っていない。カラカラという豆の音がしなかった。
 杉浦は入口で立ちつくしていた千夏を手招きして、タオルを貸してくれた。
「今日はおひとりですか?」
「ええ、広瀬さんとは別行動なんです。外回りしてたら雪が降ってきちゃって、近くだったからついここに避難を」
「災難でしたね、しばらく休んでいって下さい」
 杉浦がコーヒーの用意をしている間、千夏はぼんやり窓の外を見ていた。窓は半分曇っていて、外で降り続ける雪が垣間見えた。千夏は無意識に、冷え切った両手の指先をしっかりと組んでいた。店内は静かだ。棚に置かれたスピーカーから千夏の知らない洋楽が流れている。アイリッシュ系の音楽は楽器の音色が澄んでいて独特だった。杉浦の趣味なのだろう。

 千夏は鞄から手帳を取り出し、ペンを手にした。午後から回った店舗についてメモ書きしているページを開いて、じっと見る。千夏の視線は動かなかった。伏せ気味の目は手帳の上に注がれ、ペンを持ったままの手がテーブルの上でゆるく握られている。微動だにしない。
 集中して考えているのがわかったので、杉浦は静かに淹れたてのコーヒーを注いだ。彼女の好みはミルクだけ。マドラーで軽く混ぜ、傍らに置く。はっとして千夏は顔をあげた。
「あ、ありがとうございます。いただきます」
 コーヒーカップの熱さが、冷えすぎた指先には気持ちいい。両手でカップを包みこんで、千夏はコーヒーを一口飲んだ。ほっとした。
 杉浦もカウンターの向こう側で、立ったままコーヒーをすする。窓の外を見つめて、千夏に声をかけた。
「こんな天気の日はお客さんも少ないから、仕事してもいいですよ。好きに使ってください。
 俺は朝から晩まで一人でここにいるので、こんな日は誰か居てくれた方がいいんです。一人で雪なんか見ていると、気が滅入ってしまうので」
 照れ隠しの微笑が予想外に幼くて、千夏はしばし呆けてしまった。
「……杉浦さんのお仕事の邪魔になりませんか?」
「なりませんよ。普通のカフェでも、仕事してる人はいるでしょう? 不思議なことに事務所よりもそういう場所の方が、はかどるんですよね」
 確かにその通りだった。千夏は彼の言葉に素直に頷いて、今度は遠慮なくモバイルパソコンを取り出した。そして、しんしんと降る雪と同じように、ひっそりとキーボードを打ちはじめたのだった。



 雪が止むよりも先に、千夏の携帯電話が震えた。広瀬からだった。
「わかりました、三十分ほどで戻ります。報告書はすぐにメールしますので」
 腕時計の針はいつの間にか進んでいて、ここに来てから一時間ほど経っていた。千夏の傍らにあるカップには、二杯目のコーヒーが半分ほど残っている。それを大事に飲み干して、千夏はカウンターの缶に代金を入れた。
「ごちそうさまでした。あと、タオルありがとうございました、助かりました」
 ぺこりと杉浦にお辞儀して、鞄を肩にかけたとき、呼び止められた。ちょっと待ってと言い置いて階段を上って行った杉浦は、マフラーと傘を手にして戻ってきた。
「首元冷やすと風邪をひきます」
「大丈夫です! こう見えて頑丈ですから」
 千夏は遠慮したが、杉浦は構わずに千夏の首にマフラーを巻いた。ダークグレーの、柔らかなマフラーだった。
「次来るときに返してくれればいいですから。広瀬さんに預けてもらってもかまいませんし」
 杉浦は意外に強引に、うろたえている千夏に傘を押しつけた。断る方が失礼だろうか。そんな千夏の迷いを彼は見逃さなかった。
「目上の人間の言うことはきくものですよ」
「じゃあ――お言葉に甘えて、お借りします。あの、ちゃんと自分で持ってきますから! 約束します」

 歩道を歩くうちに、水色の傘にうっすらと雪が降り積もる。借りたマフラーに顔をうずめると、コーヒーの香りがした。千夏はほのかに染まった頬を、うつむいてごまかした。冷たい風のせいで、余計に頬が火照っているのがわかる。
(なんかもう、ズルすぎるよ……杉浦さん)
『約束、ですか。だったら――』
 はい、と差し出された杉浦の手。小指。初めて会ったときの握手を思い出して、気がついたら千夏は同じように手を出していた。指きりなんて、いつ以来だろう。
 子供扱いされすぎている。確かに広瀬や杉浦から見たら、自分など子供なのだろうけれど。
 傘で埋め尽くされた横断歩道に溶け込んで、ダウンジャケットのポケットに入れた右手を握り締める。絡めた小指の感覚がいつまでも消えなくて、マフラーに浸み込んだ残り香が強すぎて、吐く息さえ白い雪に溶けるほどなのに、手のひらの熱は冷めなかった。

2010.02.09
お題提供『1141』/七瀬はち乃 様 【Hands. 7】

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