2010年バレンタイン企画 
にぶんのいち ■ 1.握手

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誰かの手を握ったとき
その体温に安心するのは
寂しいからだと思っていた



 地下鉄の駅から地上に出ると、大きな書店やファッションビルが、こちらにおいでと誘惑してくる。
水沢千夏は、白い息を吐きながら暗い空を見上げた。雪が降りそうで降らない、湿った空気がビルの谷間をゆらりと流れている。
 ひとりならば、いつものようにショップへと足を進めたに違いない。まだ十一月だというのに、街はクリスマス一色だ。十月末から姿を表すツリー、プレゼントにお勧めのアクセサリーや小物類がショーケースの向こうできらきらと輝いている。他にも欲しいものはある。チェックのコート、ブーツ、透かし編みのチュニック。
しかし、まだ千夏の仕事は終わっていなかった。隣には上司の広瀬智明がいた。上機嫌で千夏に話し掛けてくる。
「あの店舗はディスプレイがいいな、すごく良かった。やっぱりお前に任せて正解」
 目を輝かせて千夏を誉める横顔は、とても四十過ぎには見えない。無邪気な笑顔だと思いながら、千夏もにこりと微笑んで見せた。誉められるのは素直に嬉しい。
 広瀬は眼鏡の奥の眼を優しく細めて千夏の頭を軽く撫で、腕時計に目を落とした。
「水沢、時間ある? 急ぎの仕事がないなら、ちょっとコーヒー飲んでいかないか」
 妙に楽しそうな口調を不思議に思いつつ、千夏はいいですよと返した。このまま直帰してもいいような時間だ、多少の息抜きも大切だった。



 年代を感じさせる木製の扉をそっと開けると、ふわっとコーヒーの香りに包まれた。
 あまりのいい匂いに、千夏は店の入り口で立ち止まった。店の中に満ちているのは、香ばしくてほんのり甘い、煎りたての豆の匂いだ。小さな店だった。カウンターと、スツールが五つ。それだけしかない。
「いらっしゃいませ」
 控えめな声に顔を向けると、奥のごみごみした場所からひょっこりと一人の男が顔を出したところだった。彼の隣では、大きな円柱形の機械が動いていて、時々ぱちぱちと音をたてている。
「忙しそうだな、今手が放せないのか?」
 広瀬が声をかけると、彼は首に提げたタイマーを見て、頷いた。手には分厚い皮の手袋をつけている。
「あと少しでこの豆が終わります。もう少し待ってくれれば、俺がコーヒー淹れますよ」
「ああ、いいよ。自分でやる。コロンビアある?」
「あります。今朝焙煎したのが、冷蔵庫に」
 店主と思しき男は、広瀬に向かって得意げに微笑みかけると、千夏にも「いらっしゃい」と声をかけてきた。

 細い、というのが、その男に対して千夏が抱いた第一印象だった。
 背が高く見えるのは、体格がやせ型だからだろう。白いシャツと腰に巻いた黒いエプロン。典型的なギャルソンスタイルが、とてもよく似あっている。実際の身長は、広瀬と同じか、少し高いくらい。クセっ毛の黒髪が個性的だが、あとは特に印象にも残らない。この店を出たとたん、すぐに忘れてしまいそうな存在感のなさは、あえてそう見せているようにも感じられた。腕まくりした白いシャツから見える腕は、けれど千夏の予想に反して筋肉質だった。着痩せするタイプなのかもしれない。不格好さや不健康さは感じない、バランスのよい体型だ。自社の服なら、どのブランドが似合うだろうかと、無意識に考える。
 ほんの一瞬でそれらの観察を済ませて、千夏は「こんにちは」と笑顔を浮かべ、広瀬に言われるままスツールに腰掛けた。ほぼ同時に広瀬が目の前の籠を千夏に寄越した。
「はい、どうぞ。あっちにチョコクッキーもあるから、欲しいなら食え」
 籠の中には、小さめに切ったシフォンケーキが入っていた。広瀬は上着を脱いで手近なスツールに掛けると、慣れた仕草でカウンターの中へと入って行った。端におかれたサーバーにフィルターをセットし、冷蔵庫からコーヒー豆の入ったガラス瓶を取り出す。
 千夏は何か手伝うべきかと思ったのだが、腰を浮かせたときに「いい子だからじっとしてろ」と広瀬に笑いかけられ、おとなしく座っていることにした。
 広瀬が手動のミルで豆を挽くと、ガリゴリと大きな音が響いた。コーヒー用のケトルから細くお湯が注がれ、コーヒーの表面が滲むように泡立つ。深く甘い香り。実際は苦味の強い飲み物なのに、どうしてこんなに豊かな香りがするのだろう。コーヒーより紅茶が好きな千夏でも、うっとりしてしまう。
「水沢はブラックだっけ?」
「いえ、ミルクだけ入れます」
「じゃあ、オプションはセルフサービスで頼むな」
 シンプルな白いカップとソーサーに、澄んだコーヒーが注がれる。広瀬が指差したテーブルの隅には、ミルクポーションとスティックシュガー、マドラーが入っていた。当の広瀬は、カウンターの中で立ったままブラックコーヒーを口にしている。
 瞬時に曇った眼鏡を外し、広瀬は唐突に店主を振り返った。
「杉浦」
 焙煎できた豆を機械からとりだし終えた店主が顔をあげる。
「この子、俺と一緒に働いてる水沢さん。水沢、このひょろっとしたのは、俺の友人の杉浦。見ての通り、コーヒー豆の焙煎と量り売りをやってる」
「……ひょろっとしたのって……ひどい言い方しますね」
「ぬるっとしたのよりマシだろ」
「それは普通、人の紹介として使わない単語です」
 親しげに交わされる会話は、小学生の軽口のようで、千夏はつい笑ってしまった。杉浦がそれを見て、広瀬に向かって小さなため息をつく。
「広瀬さんのせいで、俺まで笑われてるじゃないですか」
「バカ、水沢はコーヒーが美味いから笑顔になってんだよ。そうだよな、水沢?」
 確かにコーヒーは美味しかったので、千夏は笑ったまま頷いた。

 杉浦に勧められるがままシフォンケーキも口にして、そこで初めてメニューが無いことに気づいた。正確に言えばメニュー表はカウンターの上に置かれているのだが、そこに書かれているのは、豆の種類と100gあたりの値段だけだ。すでにコーヒーは飲み終えてしまっている。猫舌の広瀬はゆっくりとコーヒーを飲んでいた。時間から考えて、すでに会社に戻る気はないのかもしれない。
 どこかに別の飲食メニューがあるのだろうか。千夏がこっそり店内を見回していると、コーヒー豆を量っていた杉浦がそれに気付いた。
「どうかしましたか?」
「いえ、あの……ここ、カフェもやってるんですよね? メニューはどこかなと思って」
 おずおずと質問を口にした千夏に、杉浦が柔らかく微笑む。
「カフェなんてきちんとしたものじゃないんですよ。そのコーヒーは、試飲みたいなものなんです。最初は椅子だってなかったのに、広瀬さんが勝手に持ってきて置いたんですよ。お菓子も常連さんがいろいろと持ってきて下さるので、お代はいただいていません」
「――と言っても、毎回タダで飲むのも肩身狭いだろ? だから、コーヒー代だけ払うわけ。菓子はここに置いていたら腐るだけだから、遠慮なく食っとけ」
 広瀬がカラフルな缶を千夏の前に置いた。あきらかにテーマパークで売っているお土産の空き缶だ。そこに『コーヒー代 一杯200円』と書かれた紙が貼られている。なんとも適当な、小学校のときの募金箱のようだ。
「こんなに美味しくて、挽きたてを飲ませてもらって、この金額でいいんですか?」
「本当は無料サービスにしたいんだけど、広瀬さんたちが、金払うからいつでも飲ませろって言うから……仕方無く。俺は、ここで豆を買ってくれればそれでいいと思ってるんですけどね。
 あ、水沢さんは今日が初めてだから、それは本当に試飲ってことで。ウチのコーヒーが気に行ったら、また遊びに来て下さい」
 言葉通りに甘えてしまっていいのだろうか。千夏が広瀬に視線を向けると、親愛なる上司はニヤニヤと笑いつつ、小さく頷いた。どこか面白がっている表情だった。
「それなら……遠慮なくごちそうになります。ありがとうございます」
 コーヒーを飲み終えた広瀬が、手早く食器を洗ってカウンターのこちら側に戻ってくる。上着を羽織って、手慣れた様子で空き缶の中に百円玉を二枚入れた。カン、と鈍い音がする。
「ごちそうさん。また来るわ」
「本当においしかったです。ごちそうさまでした」
 さっさと店を出ていく広瀬を見て、千夏も慌てて杉浦に頭を下げた。杉浦は「是非またいらして下さい」と言って、すっと右手を差し出してきた。まくりあげたシャツの無造作さが、千夏の印象に残る。
 彼の動作があまりに自然なので、千夏もその流れで彼の手を握り返していた。まるで商談が成立したときのようだ。
「ありがとうございました、気をつけてお帰り下さい」
 大きな手が一瞬千夏の手を包んで、すぐに離れていく。見上げれば杉浦は優しい目で千夏を見て、そのままちらりと扉に目をやった。待っているだろう上司の存在を思い出して、千夏はコートに袖を通し、もう一度頭を下げた。

 扉から出ると、背後でドアベルの音が消えていく。シンプルなプレートに、『コーヒー焙煎 kanna』と小さく店の名前が彫られていることに、千夏は今更気づいた。建物の外観は、店なのか住居なのかわかりにくい。店だと知らなければ、間違いなく素通りしてしまうだろう。
「杉浦と仲良くしておけば、きっといいことがあるぞ」
 隣を歩く上司は、思わせぶりにそう言って千夏の肩を軽く叩いた。どういう意味ですかと問い返しても、軽く交わされてしまう。
 千夏は店の場所を頭の中に刻みこみつつ、最後の握手を思い出していた。杉浦の手には、ところどころに火傷の跡があった。手の形は神経質そうだったのに、触れた感触は皮の厚い職人のものだった。そして、温かでひどく心地よかったのだ。
 千夏は冷たい風の中、会社に戻る道すがら、何日後にあの店に行くのが自然だろうかと考え始めていた。

2010.02.05
お題提供『1141』/七瀬はち乃 様 【Hands. 7】

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