30000Get、綾瀬 麻結さんへ捧げます。
Keep The Faith番外編
 
恋路◆1

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 ――― つないだ手を離さないで。
 こんな我儘を、あなたは許して下さるの?



 11月下旬、その日の京都は霧雨に包まれていた。

「……雨」
 京都駅に降り立った辻真咲は、小さく声を漏らして空を見上げた。つられて隣に立つ矢野健も空を見た。細かな霧雨が放射線状に降ってくる。見上げる雨に既視感を覚えて、矢野は記憶を探る。たどり着いたのは、いつかの音楽室での出来事だった。

 まだ夏の盛りだった。辻が隠しきれずに矢野への想いを覗かせた、雨の休日の記憶。
 目の前を横切る制服姿の団体を何気なく目で追いながら、矢野はそこからの出来事を思い返していた。こうして二人で過ごすようになって、早四ヶ月が経つ。数え切れないほどキスを交わして肌を合わせて、同じ時間を過ごした、とろけるように甘い日々。あっという間に過ぎ去った時間は、絆を強くしたけれど。
(お前は今、何を考えてる ――― ?)
 矢野は、眼鏡の奥の瞳を軽く伏せ、黙ってガイドブックを捲る辻を見た。辻の肩から滑り落ちる黒髪は、いつもの同じように整った面立ちを引き立てた。人の目を惹きつけ、矢野の心を虜にする。
「辻、行くぞ。最初は三十三間堂だろ?」
「うん」
 スッと伸ばした矢野の手に、慣れた仕草で辻の手が重なる。繋いだ手の温かさを感じ、辻の笑顔を見ても、矢野の心には薄い霧がかかったままだった ――― 目の前に広がる古都の情景と同じように。



 はじまりは、昨夜遅くに掛かってきた日崎からの電話だった。
『申し訳ないんですが、明日、俺の代わりに辻と京都に行って欲しいんです。日帰りで行く約束をしていたんですが、急用で行けなくなって』
「 ――― 俺はいいけど、辻には連絡したのか?」
『まだです。今から電話しておきますよ』
「わかった。しかし、珍しいな、日崎が辻との約束破るなんて。仕事か?」
『……まあ、そんなところです』
 妙に歯切れの悪い返事だった。仕事じゃないな、と気付いた矢野だが、それ以上深くは追求しなかった。
 
 そして今朝、二人は駅で待ち合わせをしてそのままJRで京都に来た。電車の中で、京都のガイドブックを広げて嬉しそうに一日の行動プランを話す辻を見ているだけで、矢野も楽しくなった。それでも、心の底から笑えない。
 ここ数日、矢野にはずっと引っかかっていることがあった。

 先週の職員室。三年の担任は皆ピリピリとした空気を纏っていた。本格的な受験シーズンの到来は教師の余裕も失わせる。たまたま昼食が一緒になった三年七組の担任は、受験間近の生徒のことを何気なく話し始めた。そのとき、矢野は初めて聞いたのだ ――― 辻が県外の専門学校に行くつもりだということを。
 あと3ヶ月ほどで辻は高校を卒業する。矢野はそれ以後のことを、口には出さずともそれなりに考えていた。辻の進路も気になったけれど、話してくれるのを待っていたのだ。何を目指すか、どの学校に進むかは辻個人の大事な問題だから。
(いつになったら、話してくれる?)
 いつもと変わらない辻の態度に、矢野の不安は募るばかりだった。
 
 そして、それ以上に辻も悩んでいた。

 昨夜、急遽矢野と京都に行くことになった辻は、嬉しい反面、行きたくないと思ってしまった。
(……まだ、心構えが出来てない)
 辻は夏以降、進路の話を意図的に避けていた。矢野も特に聞いてこないので安心していたのだが、さすがにこの時期になると、いい加減正面きって話をしなければならないと焦っていた。ずっと悩んでいたけれど、やっとやりたい仕事を決めて、実は学校の願書提出も済ませている。
 真琴や日崎に自然に話せたことが、この期に及んで矢野には言えなかった。
(卒業したら、もう、矢野さんの側にいられなくなるんだ……)
 離れることが不安で仕方ない。矢野は、元婚約者だったトーコと別れた理由を教えてくれないが、辻は遠距離恋愛になったからだと思っていた。あんなに仲の良かった二人だったのに、距離が離れたことで駄目になったしまったのだと。
 この先のことを話さなければ。そう思えば思うほど、心が重かった。



 三十三間堂は、正式には「蓮華王院」という名の天台宗の寺院である。京都を訪れた修学旅行生が必ず来るこの寺院の堂内には、本尊の千手観音坐像を中心に1001体の観音立像が整然と並び、見る者を圧倒した。

 修学旅行生や海外からの観光客に紛れて、矢野と辻も堂内に足を踏み入れた。重厚な雰囲気に、知らず背筋が伸びる。
「京都は修学旅行以来だ。ほとんど覚えてないけど」
 矢野の言葉に、辻はにっこり微笑んだ。
「私も二回目。ママと一回来ただけで、そのときも清水寺しか行かなかったの」
「辻、修学旅行は韓国だったよな」
 頷いた辻に、矢野は今更ながら世代間のギャップを感じた。ちなみに、今年の修学旅行は沖縄だった。二年の担任が、今年はパスポートがいらない、と話していたのを思い出す。
「すごいね、この千手観音。よく見ると、全部表情が違ってる」
「作った人が違うからだろうな」
 ゆっくりと進みながら、辻は食い入るように居並ぶ像を見つめていた。風神・雷神像、二十八部衆立像。とても木で作られたものとは思えない、いまにも布が靡きそうなほど柔らかな線を描いて、それらは無言で人々の視線を受け止める。
 矢野が全てを見終えて観音像の端まで来たとき、辻はまだ本尊の正面に立って観音像を見上げていた。祈るように真摯な表情で、じっと佇んでいる。
(俺、やっぱり俗物だな。観音像より、辻を見てるほうがいい)
 矢野の視線に気付いた辻が、ゆっくりと微笑んだ。人波に隔てられたまま、矢野は軽く手を上げて応える。
(辻から話すつもりがないなら、こっちから聞くまでだ)
 どのみち、二人の歩む道は同じなのだから。

 三十三間堂を出ると、まだ雨は降り続いていた。
「早いけど、どっかでメシ食おうか」
 矢野が差した傘に、辻がすべりこむように入ってくる。小雨のせいか、歩いている観光客はまばらだった。
「祇園の料亭に予約入れてるの。このまま散歩しながら行こう?」
「……了解」
 矢野は軽く肩をすくめた。旅行を楽しむ術は辻の方が長けている。
「そのあと、甘味処行きたいな。行ってもいい?」
 きらきらと目を輝かせて見上げてくる辻は、本当に楽しそうで、矢野も今だけは何もかも忘れて楽しむことにした。
「せっかく京都まで来たんだ。行きたいところ、全部行こう」
 
 肩を寄せて歩き出した二人の右手に、雨に煙る紅葉の山々がしっとりと佇んでいた。


03.11.08

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