少年ロマンス
第10話 ☆ Sleeping Beauty (2)

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 クラスマッチは夏休み前のラストイベントだ。
 この炎天下に走って飛んで、球追っかけて。高校生って元気。今アタシがやったら、倒れるね、絶対。まあ、現役高校生にもこの猛暑は堪えるみたいで、今日の保健室は大繁盛らしい。
 アタシは朝から、村上先生と一緒に、受け持っている一年の新設クラスの応援をしていた。インドア派の生徒が圧倒的に多いせいか、あっさり予選三試合で敗退。クラスの女子が用意してくれた素麺を、教室でみんなで食べた。それぞれ打ち合わせして麺と薬味を用意して、つゆも手作りなんて、すばらしい! 可愛いコたちだ。
「村上先生、ゼリー作ってきたんです!」
「あ、私もおにぎり握ってきた! 先生、食べてー」
 担任の村上先生は、結構人気だ。
 ……ただ、生徒たちの間で、こっそりと『ジャムおじさん』と呼ばれていることを、先生自身は知らない。

 クラスマッチの日は、部活は休みにしていた。みんな眠くて集中できないからだ。一日中運動した日くらい、早く帰って休みなさいとも思う。それは私が赴任してきてからの決まり事なのに、やっぱり一人、夕方の美術室に顔を出す馬鹿がいる。
「失礼します」
 予想通りに唯人は現れた。制服のズボンに、Tシャツという格好で、スケッチブックを抱えている。いや、だから今日は休みなんだってば。
「……一人部活はいいけど、アタシと村上先生、今日は上なんだ」
 アタシは指で、四階のコンピュータ室を示した。せっかくの空き時間だから、村上先生にCGの指導をお願いしていたのだ。
「いいですよ、適当な時間に鍵閉めて帰りますから」
 さらりと答える顔には、寂しさは微塵も感じられなかった。一年前なら、あからさまに残念そうな表情を浮かべたくせに。そういう些細なことが、成長を気付かせる。
「……じゃあ、頑張って」
 はい、と頷く唯人を残して、アタシと村上先生は美術室を後にした。
 



 三十分後、美術室に戻ったのは本当に偶然だった。
 二冊あるはずの解説書の一冊を、自分のデスクに忘れて取りに戻った。ついでに、唯人に一言、もう帰りなさいと言うつもりで。あの子、いつまでも待っていそうだし。
 まず美術準備室に入って、本を手にした。カタンという物音に気付いたのは、そのとき。
 隣の美術室で、人の気配がした。開け放した続き扉の向こうに、誰か入ってきた。今頃誰が、と眉を潜めたアタシの耳に、かすかに茅野の甘い声が届いた。
 先輩、と唯人を呼ぶ声。

 なぜか息を殺して、アタシは美術室へと続くドアの際まで近づいた。
 静寂に包まれた美術室。唯人は椅子に背中を預けて、わずかに首を傾げて目を閉じていた。一日中動いた後、日陰の風通しのいいこの場所で、眠るなという方が無理か。
 唯人の前に、屈んだ茅野の姿があった。白いセーラーの襟と赤いスカーフが、風でゆらゆらと揺れて。アタシに背中を向けている、その頭が、ゆっくり唯人に近づいていくのを ――― アタシは、冷めた気持ちで見ていた。
 眠る唯人の唇に、茅野の唇が触れるのを。

 階段を駆け下りてくる生徒の足音が中庭に響いて、茅野が弾かれたように顔を上げた。耳まで真っ赤にして、アタシの存在に気付かないまま、慌てて美術室から出て行った。
 静けさを取り戻した美術室に一歩足を踏み入れると、急に怒りが込みあげてきた。
 コンピュータ室の冷房で冷えた肌に、七月の熱気が纏わりつく。ぬるく感じていた風は、突然鬱陶しい暑さに変わった。
 静かに唯人に歩み寄った。風が、机の上に置かれたスケッチブックのページを捲る。乾いた音まで、窓の向こうに攫われて行った。
 唯人はあどけない顔で眠っている。馬鹿みたいに無防備に。

 知らず握った手の平に、汗が滲んでいた。
 やっぱり嫌いだ ――― あの女。
 
 わかっている、こんなにも茅野が気に障る理由。
 唯人が靡くとは思ってない。そもそも、唯人が彼女を選んだところで、アタシに文句を言う権利はないのだ。
 童顔で、愛嬌のある素直な唯人。身長150センチ以下の、性格はともかくとして、カオは唯人より女の子らしく可愛い茅野。並んでいるのを見れば、誰が見たってパーフェクトだ。絵に描いたようにお似合いの、可愛らしい高校生カップル。
 そう、誰が見たって、唯人の隣にいるのがアタシじゃ、おかしい。
 人のモンに手ぇ出してんじゃない。
 それぐらい言いたいのに、隠れて見ていることしかできなかった。
 大人になんてなるもんじゃない。我慢することばかり増えていく。アタシからは動けない……動けないんだよ、この場所では!

「起きろ!」
 突然の怒声に、唯人は椅子から落ちかけて目覚めた。ぱちぱちと瞬きをした後、アタシの顔を認めて微笑んだ。可愛い顔がよけいに憎らしい。なんでアンタは、その優しい笑顔を誰にでも向けちゃうの。
「もう、講義終わったんですか?」
 唯人の問いかけを無視して、スケッチブックを押し付けた。唯人は戸惑いながらも受け取る。机の上に手をついて、アタシは前に体重を掛けた。唯人を至近距離で見つめる。お互いの吐息が触れるくらいの距離で。
 唯人はスケッチブックをぎゅっと握って、大きく目を見開いた。対照的に、目を細めて睨んでやる。
「学校で、すやすや寝てんじゃないの。
 そんなに無防備に寝顔さらしてたら ――― 襲うよ?」
 そのまま唇に噛み付きたい衝動を逸らす為に、左手で唯人の鼻を摘んだ。唯人は笑って首を振り、逃れた。襲ってもいいですよ、なんて、頬を染めてアタシを見上げる。
 笑ってる場合じゃないよ、もう襲われてるんだから。

 茅野なんかに、唇奪われて ――― どこまで心を乱してくれるの。

 アタシが真顔になったのに気付いて、唯人も笑うのを止めた。
 溜息が出てくる。
「唯人、アンタもう部長じゃないんだから。それに、顔出すだけで絵を描くわけでもないなら、無駄にここに来ないの。後輩たちの気が散るでしょう」
 ……傷ついた顔を、見ないフリした。
「先生に ――― 会いに来る理由まで、とりあげないで下さい」
 泣きそうな声にも、冷たい眼差しで応えた。
 唯人はわずかに顔を歪めると、深々と頭を下げて、静かに美術室を出て行った。垣間見えた横顔は、涙を堪えて目元が赤くなっていた。やるせない。
 誰もいなくなった美術室の窓を閉め、鍵を掛けて村上先生の待つ四階に向かう途中で、取りに行ったはずの本を忘れてきたことに気付いた。集中力ゼロだ。何をやってるんだか。

 結局、本を忘れたことにして、今日の講習は次に回してもらった。村上先生は快く許してくれたけれど、自己嫌悪からなかなか動く気がしなかった。
 四階の廊下の角に立って、人気の無い校舎を眺めていた。沈みかけた夕日がグランドを金色の洪水で埋めていた。綺麗だった。
 ポケットからシガレットケースを取り出して、タバコを咥えた。学校内だけど、隠れて一服。タバコでも吸わなきゃ、やってられない、本当に。なんで唯人を泣かさなきゃいけないのよ、このアタシが。

 顔を見る回数が減ったっていい。他の女に、あんな無防備な君を見せるぐらいなら。
 心が狭い女で、ごめん。
 染み入るような夕焼けを見たって、心が落ち着いたりはしない。
 細く煙を吐き出すと、嵐のような後悔が、胸の中で渦巻いた。


(Sleeping Beauty/END)
04.08.25

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