逆転ロマンス
6■粉雪。




 卒業式の日は、あいにくの曇り空だった。式が終わる頃には、冷えた空気の中にちらちらと粉雪が舞っていた。それでも、生徒たちはなかな帰らなかった。校門前で、中庭で、部室棟で、それぞれに別れを悲しみ、門出を祝っている。
 唯人は式の間、千代を見ないように努力して、表面上は平静を保っていた。あの後、ふたりきりで会うことはなくとも、たまに三年生が学校に来たときに、やはり顔を合わせることはあった。そのときは、互いに何事もなかったかのようにふるまった。唯人はそうできる自分にも驚いたが、千代の割り切り方にはもっと驚いた。歳は若くとも女だなと、変なところで感心した。
 あっけなく、その日は終わった。
 雪雲に覆われた空は薄暗く、生徒の姿が消えた校舎はシンとしてよそよそしかった。唯人は一人で美術室の椅子に座っていた。両手の指をきつく組んで、膝の上に置く。ストーブが消えた広い教室は寒かった。目を閉じる。思い出のなかの彼女を、脳裏に描く。
(――最後に、さよならくらい言って欲しかったな)
 こんな時間まで待っている自分が滑稽で、唯人はそっと一人笑った。目尻に涙が滲んだ。

 卒業式が終わっても、在校生の三学期はまだ続いている。なんとか一週間を終えて、唯人は疲れ果てて実家に帰ってきていた。
(まさか、こんなに皆にバレてたなんて……情けない)
 頭を抱えて、ソファに寝転がる。背中にココが飛び乗ってきたけれど、跳ね除ける元気もなかった。
 唯人が千代を好きだということは、公然の秘密だったらしい。同僚の教師はおろか、生徒にも知れ渡っていた。親しい同僚からは『ツライよな、東郷先生』と肩を叩かれ、飲みに誘われ、美術部員からも『元気だして下さいね』とお菓子をもらい、そこまで気遣われる自分は何なのだろうかと、半ばヤケクソで笑いたくなった。
 おかげで、千代はもういないのに、忘れられない。
 
 ココが、散歩に行きたいと跳ね回るのを見て、唯人は重い腰を上げた。手袋、マフラー、ダウンジャケットの重装備で階段をおりる。ココのリードを取りに居間に行くと、ちょうど妹がコーヒーをいれているところだった。
「お兄ちゃん、出かけるの?」
「うん。ココの散歩」
「雪降ってるよー。気をつけてね」
 頷いて部屋を出た。玄関でいつものスニーカーに足を入れる。愛用のニューバランス。リードをつけられたココは、早く外に行きたくて唯人の膝に前足をのせて、早く早くと急かした。
「あ、お兄ちゃん」
 背中に妹の声がかかった。
「そういえば、手紙来てたよ。今度来たときに見るって、母さんと話してなかった?」
 そういえば、母が電話でそんなことを話していた。唯人は差し出された封筒を見ていった。ダイレクトメール、携帯電話の請求書、カード会社からの明細。どうせよく帰ってくるので、そういう郵便物は全て実家に届くようにしているのだ。
そのなかにひとつだけ、真っ白な封筒があった。差出人の名前はない。味気のないそれを、唯人は束の間見つめた。宛先として書かれているのは店の住所だった。どこかで見た筆跡だと思った瞬間、唯人は慌てて封を切った。入っていたのは、便箋一枚だけ。

『――自宅がわからなかったので、お店の方に出しました。ちゃんと先生に届くかな』
 こげ茶色のインクで書かれた、小さな字。横書きの、右肩下がりに斜めになった独特の文字。
『ちゃんと、さよなら言ってないから、最後に』
 
「香織! 悪い、すぐ出かけるから、ココの散歩頼む!」
 バンと玄関のドアを乱暴にあけて、駆け出した。車のエンジンをかけて、反射的に時計を見る。表示された文字に、ギリリと唇を噛んだ。
『会いたいな』
 一緒に書かれていた出国の日にちは今日。出発時刻まであと二時間を切っていた。空港まで、ギリギリ間に合うか。高速に乗ったらフロントガラスに叩きつける細かな雪。高速は混んでいた。渋滞でノロノロと進む車の中、唯人はふわりふわりと舞う雪を見ていた。
 ……願わくば、この雪が彼女をも足止めしてくれますように。



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