逆転ロマンス
5■恋じゃなくなる日。




 初冬の海に来る物好きは自分たちぐらいだと思っていたら、そうでもなかった。防波堤の近くに釣り糸を垂れる人影がちらほらと。海水浴場は閉鎖されていたので、堤防を乗り越えて狭い砂浜にたどり着く。
「……めちゃくちゃ寒いな」
 ダウンジャケットを持って来ればよかった、と唯人は首をすくめた。犬の散歩に出るところだったので、長袖Tシャツに厚手のシャツを羽織っただけだ。
 海風が耳元で鳴る。顔と耳が冷えていく。灰色の海は夏とは別の顔で、美術教師と元部員を威圧した。砂浜にスニーカーの跡がつく。千代のブーツのヒールにも、砂粒がまとわりつく。

「うー、缶コーヒーもすぐ冷める! 手が冷たい」
 千代の言葉に、反射的に唯人は手を伸ばしていた。千代の冷たい手を握る。歩きながら、当たり前のように。
「――先生の手、あったかいね。男の人って体温高いの?」
 千代も握り返して、そんなことを言う。唯人はそうして歩きながら、このままどこまでも砂浜が続いてしまえばいいと思った。引き返す場所がなければ、何もかも忘れたフリして、この手を握っていけるのに。
 ああもう、と空を仰ぐ。引き返すなら、引き返せるとするならば、もう今しかない。
「佐々木、ちょっとお願いがある」
 ん? 何です? そんな風に可愛らしくみあげてくる顔を、心底好きだと思った。
「佐々木がオレを嫌ってないってわかってるから、そこにつけこんでるだけかもしれない。イヤならイヤだって言っていい。もうこんな風に二人で会える機会なんて無いと思う」
 だから。たぶん最後だから。
「――抱きしめても、いい?」

 正直言って、スキンシップは苦手だった。なのに、千代は唯人は平気なのだ。手を握られるのも、髪を撫でられるのも、抵抗がない。抱きしめてもいいかと問う声はあまりにも真剣で、千代は自分がいかに唯人に甘えていたか気づいた。
 唯人の好意につけこんできたのは、自分の方。この手のあったかさに、慣れてしまうところだった。
「いいよ」
 にこりと微笑んで、千代は自分から唯人に一歩近づいた。それだけで二人の距離は縮まった。唯人の腕が背中に触れる。抱きしめる腕はふわりとして優しい。千代も唯人の背中に腕を回した。唯人のコーデュロイシャツに頬をくっつける。あったかくて気持ちよくて、目を閉じた。
「……駆け落ちなんて、してないんだ」
「え?」
 ぽつぽつと千代は話し出した。唯人にしか聞こえないほどの小さな声で。
「そのときつきあってた人は、三つ年上の先輩だった。その人自身も描く絵も、目が逸らせないくらい綺麗で強いの。美術大学に通ってたのに、急に留学するって言い出して、すぐにヨーロッパに飛んじゃった。だから、追いかけた。次の日に、貯金全部下ろして、片道の航空券買って」
 三年前。唯人の知らない、15歳の千代。
「ローマで彼を捕まえて、何でもするから側にいさせてって言ったの。でも、ダメだって諭された。三年後、卒業したらね、って。卒業したら、ずっと一緒にいようって――聖と、約束した」
 我慢できずに、去年の夏会いにいった。彼は変わってなかった。自分の好きなことをだけを追い求めて進んでいく。その目に千代は映っていないように見えた。
(私が側にいてもいなくても、この人はきっと平気だ)
 それを知っているのに、気持ちは急に変えられない。彼だけ見つめてきた。道はずっと決まっていた。聖が千代を必要としていなくても、千代には聖が必要だった。
「そっか」
 千代の頭上で、溜め息まじりの声がした。唯人の腕に少し力がこもる。
(……優しいなぁ)
 顔を伏せたまま目をあける。肌に馴染んだ、色褪せた紺色のTシャツ。深いグレーのコーデュロイシャツ。私服の唯人は先生に見えない。踵を踏んだ跡のついた、ニューバランスのスニーカー。
 こんな風に抱きしめられることは、きっと、もうない。

「先生、私のこと好き?」
 
 腕の中から問い掛けられて、唯人は千代の肩に顔を伏せた。柔らかな髪が耳に触れる。まともに彼女の目を見ることなんて、できやしない。
 うん、と素直に頷いた。千代の体は想像以上に華奢で、背中を優しく撫でて抱いただけで、愛しさに涙が滲みそうになった。
 千代は黙っていた。唯人は彼女の、他の男への気持ちを聞いたばかりだ。応えてくれなくともよかった。それでもこうして抱きしめれば、今の見守るだけの状況すら、失いたくないと思ってしまう。波音がこの沈黙をかき混ぜてどこかに攫っていけばいい。
 想いを告げることが、この恋の終わりだと知っていた。
「――帰ろう」
 千代を促して、また砂浜を歩いた。自分たちの足跡をたどって、引き返す。手は繋がずに、指先だけ絡めて。何も話すことはなかった。堤防まできて振り返れば、いつの間にか満ちていた潮が、さっきまで残っていた足跡をかき消すところだった。
 何もかもこうしてなかったことにして、季節は春へと向かうのだ――記憶は消せなくとも。
 


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