チョコレートの匂いをまとって、なおかつ「もう甘い物なんて見たくない」と心底思っている人間を相手にチョコレートをあげるのは、いかがなものだろう。
「ただいまー」
三日ぶりに千代の部屋を訪れた唯人の顔は疲れていた。本を読んでいた千代が顔をあげると同時に、背中からのしかかるように抱きついてきた。唯人の髪からはチョコの甘い香りがする。
「やっと終わった」
「……お疲れ様。連日大変だったね」
肩にのっかる頭をよしよしと撫でて、千代は本を閉じた。
バレンタイン商戦は確実にケーキ屋の売上をはね上げ、従業員の疲労をピークに導いたようだった。予約が多いのはありがたいことだよ、なんて正論を口にしていた唯人だけれど、いざ自分が厨房に入ると予想以上にキツかったようだ。ケーキやお菓子のデコレーションは、やはり神経を使う。
肩に触れる唯人の手が、セーター越しにもわかるくらい冷たかった。千代はやんわりと彼の腕を外すと、振りかえって唯人を見上げた。
「鍋の用意できてるよ。すぐに食べる?」
「うん。ありがとう、千代」
唯人はほっとした笑顔を浮かべ、ダウンジャケットを脱いだ。
そうして、おいしいキムチ鍋をつついて、おしゃべりをして、お風呂も終えて紅茶を飲んでいるとき、千代は唯人が奇妙にそわそわしていることに気づいた。二人そろってはまっている深夜放送の海外ドラマを見ている間も、隣から頻繁に視線を感じる。
「どうしたの、発情期の猫みたいに落ち着かないね」
「その例えはひとずきると思う! 発情期って……」
「ヤリたいのかと思って。違うなら、理由を言いなさい。ドラマに集中できないから」
うろたえる唯人を一瞥すると、千代は再びテレビ画面に向き直った。ソファに背中をあずけ、ゆったりと足を組んで。彼女の意識が八割方ドラマにもっていかれていることを悟って、唯人は情けなく時計を見た。
もうすぐ24時。
「――今日、バレンタインだよね」
「うん、だから唯は疲れ果ててるんでしょう。眠いなら先に寝てていいよ」
「そこまで疲れてません。違うんだって。あの……もう直球で訊くけど、千代はくれないの?」
「何を」
「チョコレート」
「あげない。だって、甘いものは見るのもイヤだって電話で言ってたじゃない。そんな人にチョコあげるなんて、拷問みたいなことしないよ。寝室に行けば生徒たちからもらったチョコが山積みだけど、何、食べたいの?」
「それはいらない……」
ずるずると背中から落ちて行った唯人が、肘かけに寄りかかって止まった。もうドラマの展開なんてどうでもよくなったのだろう、不自然な体勢のまま膝をかかえて顔を伏せている。
ほっといたらこのまま寝るんじゃないかなと、ひどいことを考えつつ、千代はそのまま紅茶を飲み終えた。ドラマの中では、主人公たちが犯人を追いつめている。「どうしてあんな嘘をついたの」、主人公のセリフを心の中で繰り返した――どうして欲しくない素振りをしたの? そんなに落ち込むくらいなら、余計なこと言わなきゃいいのに。