少年ロマンス 番外編/すらりとした指 (サイト五周年企画) ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
あれは、八月半ばのことだった。 校内は廃墟のようだった。ほとんどの部活が盆休みに入ったせいもあり、校内は無機質だけが作る心地よい冷たさに満ちていた。部活の顧問もしていない、しかも新米の僕は、日直として学校に来ていた。蝉の声だけが校舎に反響し、陽炎が中庭で揺らめいていた。 宿直室でクーラーの風にあたるのに飽きて、ぶらぶらと校内を散策していたときだ。プールの方から声が聞こえたので、なんとなく足を向けた。水泳部の女子が数人、沈んだり泳いだりして遊んでいた。童話に出てくる人魚みたいだなと思いつつ、フェンス越しに声をかけた。 「おーい、顧問の先生は?」 「今日は来てません、自主練でーす」 どこが練習だ、暑いから泳ぎに来てるだけだろう。羨ましさもあって、苦笑してしまった。僕に気づいた生徒がプールサイドに集まってくる。水着姿の女子高生に群がられるのは、悪い気分ではない。 「まっちゃん、なんで学校来てるの? 日直?」 「そう、日直。暇だから見回りしてる」 「うっわ、やる気ないね」 「だって、暑いんだ。しょうがない」 「先生だって、夏休みあるんでしょ。彼女とどっか行かないの?」 「……余計なお世話だ」 「えー、まっちゃんモテるのに彼女いないの? 三年の女子にコクられたって、噂になってるよー」 生徒からいくら告白されたって、相手にできるか! 可愛いとは思うけど、それ以上の感情はなかなか持てないって。本気になったら面倒だし。 「まっちゃん、どんなタイプが好みなの? ウチのガッコ、女の先生も綺麗な人多いよ。可愛い系とか、委員長系とか、いろいろいるじゃない」 なんだ、その分類。誰がどこに属するんだよ、オイ。 「クール系だと、千代ちゃんとか。あ、でも仲良くなると優しいんですよ、千代ちゃんは! まっちゃん、アタックしてみなよ」 「馬鹿、無茶言うな! 佐々木先生だけは無理だって。俺、あの人の目ぇ見て話す自信無い」 「へぇ、怖いから?」 「そういうわけじゃないけど――」 声は背後から聞こえた。プールにいる生徒たちの方ではなく。 真後ろに立っていたのは、タバコを咥えたままの佐々木千代先生その人だった。顔から血の気がひく。 「差し入れ買ってきたけど、松本先生にはあげない。職員室で麦茶でも飲んでなさい」 片手でアイスクリームの入ったナイロン袋を揺らしつつ、彼女は僕の顔に、ふーっとタバコの煙を吹きかけた。 「佐々木先生、校内禁煙!」 「うるさいこと言わないの。融通のきかない男はモテないよ」 冷たい目で睨まれ、逃げるように職員室に戻った。もう一人の日直が佐々木先生で、彼女がずっと美術室で絵を描いていたと、職員室の出席札で知った。 それから半年間、ほとんど接点がないのをいいことに、僕は佐々木先生との接触を避け続けていたのだった。視線だけは、常に彼女を追いかけていながら。 うまく伝えることができるだろうか。 「あれは、『嫌い』という意味ではなかったんです」 目の前の彼女は、無言で先を促した。散る桜を背にして、ここで全部吐き出せと目で語って。 「生徒に、茶化されたくなかったんですよ。僕はその……本気で佐々木先生が気になっていたので。相手にされないだろうと思って、ただ見ていただけでしたが」 「そう」 短くつぶやいて、佐々木先生は目を伏せた。 告白に対してあまりにも素っ気無い態度だった。それもこの人らしい。 僕はことあるごとに、彼女を目で追っていた。 正門の外でタバコを吸うとき、彼女の細い指が無造作にタバコを挟む。喫煙仲間の先生方と笑いながら話す姿。あの輪の中に入りたかった。日頃淡々として表情をかえない佐々木先生が、ときおり意味ありげな視線を矢野先生に向ける。ふざけて肩を組んだり内緒話する姿に、どうしてあんなに楽しそうなんだろうかと、何度も思った。親しくなるにはどうすればいいんだ。 佐々木先生の手には、よく絵の具がこびりついていた。爪まで赤や緑に染めて、水に荒れた手が痛々しかった真冬。爪の間まで絵の具が入るのだという話が、職員会議前の雑談で聞こえてきた。人に興味がないように見えて、部活に熱心で、生徒からも慕われていた。 佐々木先生の肌は白い。夏よりも冬の似合う人だと思う。手のひらは薄くて、細くしなやかな指先を見るたびに、僕は心の中で思っていた。あの指には、タバコより絵筆より、もっと似合うものがあるのではないか、と。 いや、そうではない――もっと直接的に言うならば、僕はただ単にあの指に。 「相手にされないと思って、最初からあきらめた?」 「はい。だって、佐々木先生、もう恋人がいるでしょう。誰かは知りませんけど、たぶんそのピアスをくれた人」 佐々木先生は、少し驚いた顔をして、そっと右手で耳のピアスに触れた。「本当、よく見てるね」と小さく吐息する。 ずっと見ていれば気づく。無意識にピアスに触れる彼女の仕草。そのときの表情。彼女のまとう空気が日を追うごとに柔らかになり、表情から険しさが消えていった。逆に言えば、僕はその変化に目が離せなくなったのだ。 「松本先生は、やたらこっちを見てるくせに、振り向いたら慌てて顔そらす。 あんまり思わせぶりなんで、勘のいい生徒が『わかりやすい片思いだ』って、ウワサしてるんだよ。知ってた?」 知らなかった。そんなにあからさまな態度だったのかと、恥ずかしくなる。 「矢野君にもキミのことでからかわれるし。言いたいことがあるなら、さっさと言えば良かったのに」 「矢野先生にからかわれた?」 「そうだよ。似たようなヤツがいるもんだって、面白がって」 「似たような……?」 誰と。 「ああ、こっちの話。気にしないで。 ――もう、言い残したことはない?」 執行前の確認に、僕は迷わずひとつの願いを口にした。 「じゃあ、最後に握手を」 差し出された彼女の手を握ると、予想外に温かかった。なんとなく、陶器のような冷たさをイメージしていたのだ。細く華奢な指は、今日は絵の具に汚れることもなく、爪はパールピンクのマニキュアに彩られて小さく輝いていた。 「……松本先生。頭で考えて無理だと思っていたことも、実際やってみるとなんとかなるものですよ。動く前から諦めないように」 「夏から体当たりで頑張っていたら、佐々木先生との関係もどうにかなったんでしょうか」 「さあ、どうかな。三年ぐらい頑張ったら、どうにかなったかもしれないね」 三年って。明日でお別れだというのに無茶を言う。 美術室に帰っていく彼女の足音を聞きながら、僕も校舎を後にした。 僕は明日、たくさんの生徒と同じように、壇上に立つ彼女をただ見送るのだろう。この手の中にさきほど感じた、細くすべらかな指先を思い出して。この一年の間に見つけた、たくさんの思い出を胸に抱いて。 >>お題配布元 『SCHALK.』 君に触れたい5題、より。 (すらりとした指/END) 09.02.15 |