少年ロマンス
番外編/すらりとした指 (サイト五周年企画)

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 廊下から見上げる桜は既に盛りをすぎて、柔らかな春風に散る様は季節外れの雪のようだ。
 春休みの校内は閑散としていた。部活動に勤しむ運動部の声が遠くから聞こえてくるだけで、校舎内に生徒の姿はない。正午前の職員室も同様で、先生方は早めの昼食に出かけ、人影はまばらだった。
 離任式を明日に控えて、異動が決まった教職員は荷物を片付けに来ている。高校の数学教師になって一年目の自分には、まだ縁のない行事だが、親しくなった先輩方と別れるのは、やはり寂しかった。

 書類整理も終わったし、そろそろ帰ろう。そう考えたとき、足は勝手に廊下の奥へと進んだ。
 職員室がある第一教棟の一階つきあたりには、大きな一枚の絵が飾られている。職員室から東側にのびるその廊下は来賓用駐車場の正面にあたり、この高校を訪れた客は、まずその月夜の湖の絵に迎えられることになっていた。
 深い紺色の水面に映るのは三日月、その天空に輝くのは満月。湖の周りには色とりどりの花が咲き乱れ、夜の闇に色彩を奪われそうになりつつも、月明かりに艶やかな花びらを向けている。湖の上は夜の色なのに、水の中は昼のように明るい、不思議な世界だ。そこに不自然さはなく、見ているとなぜか心が落ち着いた。
 生徒がまず近づかない場所にひっそり飾られているせいで、この絵の存在は目立たない。新米でいろいろ失敗しては落ち込んだこの一年間、何度かこの絵に慰められた。春の光の中で見ると、枝から伸びる葉の一枚まで丁寧に描きこまれているのがよくわかる。
「……時間かかっただろうな」
 思わずつぶやいたら、「三ヶ月くらいかな」と背後から返事が聞こえて、慌てて振り返った。
 いつからいたのか、廊下に佇んでいたのは、美術の佐々木先生だった。こちらの動揺に気づいたのだろう、彼女は口紅も鮮やかな唇で、ひっそりと笑った。
「お疲れさま」
「あ、お疲れ様です」
 このまま通り過ぎてくれと願うこちらの心中を知ってか知らずか、佐々木先生は靴音も軽やかに近付いてきて、僕の隣で止まった。絵を見上げる。
「これ、去年の卒業生が描いたんだよ」
「へぇ、生徒が。僕は地元の画家が寄贈したものだと思ってました」
 じゃあこれで、と帰ろうとして思いとどまった。
 この人は明日でこの学校を去るのだ。逃げ帰ってしまえば、こうして話す機会は二度とないだろう。
 僕はこの人に、話したいことがあった。常日頃、佐々木先生は美術準備室にいた。職員室にいる自分と顔を合わせる機会が少ないのをいいことに、心の底に沈んだ小石のような罪悪感から目をそらし続けていたけれど、このまま離れてしまうのも後味が悪い。
 佐々木先生は、絵から視線を外して、窓の外を見ていた。駐車場に停まっている車はなく、コンクリートの上に薄く桜の花弁が積もっていた。
「佐々木先生、もう片付けは終わられたんですか?」
「終わった。机の中のものも画材も、そのまま段ボールに詰めこんでおしまいです。たいして量もなかったからね……」
 ずいぶん長く同じところを見ている。佐々木先生の視線の先には、職員室のむかいにあるこじんまりした建物があった。一階が会議室、二階は生徒指導室だ。この学校で過ごしてきた数年の間に、いろいろな思い出があるのだろう。
 ――その中に、僕との会話は残っているだろうか。

「夏休み中に、プールの側で会いましたよね。覚えていますか」
「さて、どうでしょうか」
 意を決して口にした問いを、彼女はついと視線を流しただけではぐらかした。かわされてしまった。しかし、その態度が逆に、彼女があの日のことを覚えていることを僕に知らしめた。
 どう口火をきろうかと言葉をさがす僕を哀れに思ったのか、彼女はしばらく外を眺めた後で、体ごと僕に向き直った。
「もし私が覚えてると言ったら、松本先生はどうなさるんです?」
「……誤解を解きます。たぶん、勘違いされていると思うので」
「勘違い? 私の耳には、『佐々木先生とだけは付き合いたくない』って聞こえたんですけど、あれは嫌いという意味ではなかったんでしょうか。それ以外にどういう解釈があるんですかねぇ?」
 確実に覚えているのだ、この人は。わずかに小首をかしげて無邪気さを装っているけれど、声は明らかに楽しげだった。何よりも目が笑っている。



 あれは、八月半ばのことだった。
 校内は廃墟のようだった。ほとんどの部活が盆休みに入ったせいもあり、校内は無機質だけが作る心地よい冷たさに満ちていた。部活の顧問もしていない、しかも新米の僕は、日直として学校に来ていた。蝉の声だけが校舎に反響し、陽炎が中庭で揺らめいていた。
 宿直室でクーラーの風にあたるのに飽きて、ぶらぶらと校内を散策していたときだ。プールの方から声が聞こえたので、なんとなく足を向けた。水泳部の女子が数人、沈んだり泳いだりして遊んでいた。童話に出てくる人魚みたいだなと思いつつ、フェンス越しに声をかけた。
「おーい、顧問の先生は?」
「今日は来てません、自主練でーす」
 どこが練習だ、暑いから泳ぎに来てるだけだろう。羨ましさもあって、苦笑してしまった。僕に気づいた生徒がプールサイドに集まってくる。水着姿の女子高生に群がられるのは、悪い気分ではない。
「まっちゃん、なんで学校来てるの? 日直?」
「そう、日直。暇だから見回りしてる」
「うっわ、やる気ないね」
「だって、暑いんだ。しょうがない」
「先生だって、夏休みあるんでしょ。彼女とどっか行かないの?」
「……余計なお世話だ」
「えー、まっちゃんモテるのに彼女いないの? 三年の女子にコクられたって、噂になってるよー」
 生徒からいくら告白されたって、相手にできるか! 可愛いとは思うけど、それ以上の感情はなかなか持てないって。本気になったら面倒だし。
「まっちゃん、どんなタイプが好みなの? ウチのガッコ、女の先生も綺麗な人多いよ。可愛い系とか、委員長系とか、いろいろいるじゃない」
 なんだ、その分類。誰がどこに属するんだよ、オイ。
「クール系だと、千代ちゃんとか。あ、でも仲良くなると優しいんですよ、千代ちゃんは! まっちゃん、アタックしてみなよ」
「馬鹿、無茶言うな! 佐々木先生だけは無理だって。俺、あの人の目ぇ見て話す自信無い」
「へぇ、怖いから?」
「そういうわけじゃないけど――」
 声は背後から聞こえた。プールにいる生徒たちの方ではなく。

 真後ろに立っていたのは、タバコを咥えたままの佐々木千代先生その人だった。顔から血の気がひく。
「差し入れ買ってきたけど、松本先生にはあげない。職員室で麦茶でも飲んでなさい」
 片手でアイスクリームの入ったナイロン袋を揺らしつつ、彼女は僕の顔に、ふーっとタバコの煙を吹きかけた。
「佐々木先生、校内禁煙!」
「うるさいこと言わないの。融通のきかない男はモテないよ」
 冷たい目で睨まれ、逃げるように職員室に戻った。もう一人の日直が佐々木先生で、彼女がずっと美術室で絵を描いていたと、職員室の出席札で知った。
 それから半年間、ほとんど接点がないのをいいことに、僕は佐々木先生との接触を避け続けていたのだった。視線だけは、常に彼女を追いかけていながら。

 うまく伝えることができるだろうか。
「あれは、『嫌い』という意味ではなかったんです」
 目の前の彼女は、無言で先を促した。散る桜を背にして、ここで全部吐き出せと目で語って。
「生徒に、茶化されたくなかったんですよ。僕はその……本気で佐々木先生が気になっていたので。相手にされないだろうと思って、ただ見ていただけでしたが」
「そう」
 短くつぶやいて、佐々木先生は目を伏せた。
 告白に対してあまりにも素っ気無い態度だった。それもこの人らしい。

 僕はことあるごとに、彼女を目で追っていた。
 正門の外でタバコを吸うとき、彼女の細い指が無造作にタバコを挟む。喫煙仲間の先生方と笑いながら話す姿。あの輪の中に入りたかった。日頃淡々として表情をかえない佐々木先生が、ときおり意味ありげな視線を矢野先生に向ける。ふざけて肩を組んだり内緒話する姿に、どうしてあんなに楽しそうなんだろうかと、何度も思った。親しくなるにはどうすればいいんだ。
 佐々木先生の手には、よく絵の具がこびりついていた。爪まで赤や緑に染めて、水に荒れた手が痛々しかった真冬。爪の間まで絵の具が入るのだという話が、職員会議前の雑談で聞こえてきた。人に興味がないように見えて、部活に熱心で、生徒からも慕われていた。
 佐々木先生の肌は白い。夏よりも冬の似合う人だと思う。手のひらは薄くて、細くしなやかな指先を見るたびに、僕は心の中で思っていた。あの指には、タバコより絵筆より、もっと似合うものがあるのではないか、と。
 いや、そうではない――もっと直接的に言うならば、僕はただ単にあの指に。

「相手にされないと思って、最初からあきらめた?」
「はい。だって、佐々木先生、もう恋人がいるでしょう。誰かは知りませんけど、たぶんそのピアスをくれた人」
 佐々木先生は、少し驚いた顔をして、そっと右手で耳のピアスに触れた。「本当、よく見てるね」と小さく吐息する。
 ずっと見ていれば気づく。無意識にピアスに触れる彼女の仕草。そのときの表情。彼女のまとう空気が日を追うごとに柔らかになり、表情から険しさが消えていった。逆に言えば、僕はその変化に目が離せなくなったのだ。
「松本先生は、やたらこっちを見てるくせに、振り向いたら慌てて顔そらす。
 あんまり思わせぶりなんで、勘のいい生徒が『わかりやすい片思いだ』って、ウワサしてるんだよ。知ってた?」
 知らなかった。そんなにあからさまな態度だったのかと、恥ずかしくなる。
「矢野君にもキミのことでからかわれるし。言いたいことがあるなら、さっさと言えば良かったのに」
「矢野先生にからかわれた?」
「そうだよ。似たようなヤツがいるもんだって、面白がって」
「似たような……?」
 誰と。
「ああ、こっちの話。気にしないで。
 ――もう、言い残したことはない?」
 執行前の確認に、僕は迷わずひとつの願いを口にした。
「じゃあ、最後に握手を」
 差し出された彼女の手を握ると、予想外に温かかった。なんとなく、陶器のような冷たさをイメージしていたのだ。細く華奢な指は、今日は絵の具に汚れることもなく、爪はパールピンクのマニキュアに彩られて小さく輝いていた。
「……松本先生。頭で考えて無理だと思っていたことも、実際やってみるとなんとかなるものですよ。動く前から諦めないように」
「夏から体当たりで頑張っていたら、佐々木先生との関係もどうにかなったんでしょうか」
「さあ、どうかな。三年ぐらい頑張ったら、どうにかなったかもしれないね」
 三年って。明日でお別れだというのに無茶を言う。

 美術室に帰っていく彼女の足音を聞きながら、僕も校舎を後にした。
 僕は明日、たくさんの生徒と同じように、壇上に立つ彼女をただ見送るのだろう。この手の中にさきほど感じた、細くすべらかな指先を思い出して。この一年の間に見つけた、たくさんの思い出を胸に抱いて。


>>お題配布元 『SCHALK.』 君に触れたい5題、より。
(すらりとした指/END)
09.02.15


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