少年ロマンス
番外編/You're My Only Shinin'Star(2)

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


【Side:Y】

 あの日、僕は悪い夢を見たんだと思ってた。
 心の中でぐるぐるとわだかまっていたものを言葉にできず持て余して、子供が駄々をこねるように無理矢理千代を抱いて、思い通りにしようとした自分。早送りにした映画のような細切れの映像の中で、千代が目の端に涙を浮かべて僕を見上げていた。
 明け方に、はっと目を開けて、腕の中にいる千代にほっとした。
 ―――よかった、夢だった。そう思って、すぐにまた眠りについたのに。

 目が覚めたとき、嘘だって思った。
 冷たい笑みを浮かべた千代の体に、鮮やかに残る傷跡。あれはキスマークなんて生易しいものじゃなかった。鬱血した跡も、たぶん噛んだに違いない赤い筋も。紫色に見える箇所すらあった。柔らかな乳房だけじゃなく、首筋にも脇腹にも散っていたそれを見たら、体から力が抜けていった。  
 僕は何をしたんだ……一番大切にしたい人に。
 千代に言われるまま、僕は鍵を返した。「ごめん」と言っても、千代は返事をしてくれなかった。ただ無表情に腕組みしたまま、僕が服を着て出て行くのを見ていた。
 外に出ると、十二月にしては珍しい晴天で、日差しは柔らかく明るかったけれど―――僕はしばらく、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。



 千代が店に来なくなって一ヶ月。僕が千代の部屋に行かなくなって、一ヶ月。
 さすがに家族も不審に思う。姉さんは何も言わなかったけど、義兄さんが軽い口調で「長いケンカだなー。さっさと謝って仲直りしろよ?」って、沈みがちな僕の頭を撫でて言った。
 謝らせてもらえるなら、いつだってそうする。
 今の千代は、僕からの電話には一切出ない。家に行っても会ってくれない。一度意を決して会いに行ったら、車から降りてきた千代に「誰が来てもいいって言った?」と氷のような声で一刀両断された。さすがに学校までは押しかけられないし。
 とことん避けられている。自分のしたことを思えば当然だった。
 でも、いつになったらちゃんと話ができるんだろう。謝りたいし、確認したいこともあるし……何より、会いたい。

 きっかけは、偶然見かけた光景だった。
 「TOGO」の常連にもなってる仲のいい女友達(大学生になっても、僕は相変わらず女友達が多かった。同じ歳なのに可愛がられるのはなぜだ)と帰りが一緒になって、相談があるという彼女とそのままご飯を食べに行った。
 夕食には少し遅い時間だったから、彼女がよく行くという居酒屋さんへ。
駅近くにある「一花」というその店は、創作料理の多い、女の子の好きそうなおしゃれな内装だった。初めて行ったけど、千代も好きそうだと思って、さりげなく店内を見回した。衝立で仕切られた座敷。個室じゃなく、入口は全部オープン。楽しげな人の声があちこちで重なってる。
 店員さんに席に案内されたとき、目の端に知ってる顔が映った。
 あ、千代だ―――気付くかなと思って、僕は笑顔で足を止めた。そのとき、千代の向かいに座ってる人が垣間見えた。
 まったく知らない男だった。シャツの上を腕まくりして、テーブルに肘をついている。かなり逞しい腕。
 ロックグラスを手にして、千代は笑っていた。彼が手を伸ばして髪に触れても、千代は嫌がる素振りも見せなかった。冷たさも皮肉さもない、子供のように屈託のない笑顔。それは、僕にさえほとんど見せたことのない表情で。
 友達に促されて、すぐにその場を去ったけれど、僕は内心穏やかじゃなかった。二人のかもし出す空気は和やかで……里中さん相手ならともかく、千代があんな風に親しげにするなんて。

 その場では話し掛けられなかった。僕も女の子と二人で来ていたから。いくら友達だと言っても、千代だって気分はよくないだろう。
 次に会ったとき、軽く尋ねるつもりだった。
『この前、あの店で千代を見かけたんだけど―――誰と一緒だったの?』
 僕の目に焼き付いた、くつろいで彼の話を聞いてた千代。優しい目で千代を見ていた彼。明らかに千代より年上の、いかにも頼りになりそうな、その人の姿。
 尋ねるのが怖くて、一週間胸の中でもやもやと抱えていた疑惑。
 千代は、「言いたくない」とはっきり拒んだ。嫉妬した。それがまさか、あんな風に千代を傷つけてしまうなんて。
 力で相手を思い通りにするなんて、最低のことだ。千代は痛かっただろうし、裏切られた気持ちになっただろう。今更言い訳するのもカッコ悪いけど、自分の気持ちを全部話したかった。
 でも今の僕は、いつになったら話せるのかわからなくて……時間が過ぎるのを待つばかり。

 成人式の打ち上げが終わって、懐かしい顔ぶれと騒いで、明け方家に帰った。携帯に着信はない。楽しい気持ちも一気にしぼむ。
 僕は上着を椅子に放り投げて、そのままベッドに倒れこんだ。



 【Side:C】

 携帯のメールは厄介だ。
 着信なら無視もできる。でも、毎日送られてくる唯人からのメールを、読まずに削除できるほど、薄情になりきれなかった。うっとおしいと思いつつ、読んでしまう。もちろん返事はしない。
『―――会いたい、声が聞きたい。許せないと思うならそれでもいいから、謝らせて』
 そういう内容を、一読する度に消していく。
 携帯のメモリに残らなくても、心に少しずつ積もっていく唯人の言葉。どんな顔でその文字を打っているのか、どれだけ自分を責めているだろうかと考えると、たまらなくなる。あの平和を絵に描いたような人間が、他人を傷つけて平気なわけがない。

 このまま別れようなんて考えは欠片もなかった。
 確かに、アタシの意思を無視して性急な抱き方をした唯人には驚いた。15歳のとき、美術室にひょっこり顔を出したのは、可愛くて優しくて、何に対しても一生懸命な男の子。もうあの頃とは違うのだと、思い知った。
 同時に、気付いたこともある。
 肩を押さえつけてきたあの力強さ。ゆとりのない荒々しい動きはアタシの体にアザを残した。指で唇で、跡を。それは意図せず、これまで唯人がどれだけアタシを気遣っていたかを教えた。
抱きしめるとき、キスをするとき、アタシの上で切なげに息を吐いているときでさえ―――アタシが苦しくないように、痛くないように。少しでもアタシが顔を歪めると、髪を撫でて「大丈夫?」と尋ねてくる。平気だと答えると、優しい笑顔で手の平にも唇を落とす。
 アタシが知ってるのはそういう唯人だった。けれどあの夜は、息遣いも腕の強さも、全部男そのもので―――手加減無しだとアレなのかと、後から考えた。
 だから、唯人を怖いとは思わなかった。もう気持ちは、とっくにあの出来事を許している。

 ……会わない理由は別にあるなんて、きっと彼は微塵も考えつかないだろう。



 お風呂から出ると、携帯に着信があった。一件は唯人から。もう一件は―――。
 髪を乾かして、ソファに腰掛けた。耳に当てた携帯の向こう、相手が何か話すより先に、小さく子供の泣いている声がする。少し笑ってしまった。
「こんばんは、香織さん」
『こんばんは。ごめんねー、ちょっと杏奈がぐずってるの』
「かけなおそうか?」
『平気、ちょっと待って』
 携帯片手に移動しているのだろう、赤ちゃん特有の全力の泣き声が遠くなったり近くなったり。誰かと話している声がして、途中でかすかに唯人の声が混じった。『あーちゃん、おいで』、たったそれだけの優しい声。
 あまりに久しぶりで、ぎくりとしてしまった。
『ごめーん! もう大丈夫。こっちから電話したのにね』
 香織さんとは、週に一度はこうして電話で話す。特に用事なんてないのはわかっている。
 彼女は、唯人との間に何があったのか訊かない。アタシの不安を拭うように、落ち込んでいるけれど唯人は変わりなく元気だと、さりげなく教えてくれる。
 
 アタシはずるい。
 こちらからは何も教えず、連絡もとらず、それでも気落ちした唯人が体調を崩していないか心配で、こんな風に間接的に彼の様子を聞いては、安堵している。
 日付が変わる頃、一人眠りにつく。二人で眠るには狭いソファベッド。壁際のローチェストの一番下には、唯人の着替えが入っている。描きかけのスケッチブックも、少しの画材も、主が来るのを待っている。



 部活終了時間を告げるチャイムが鳴った。
 美術室の窓から見上げる空は、年明けの頃より明るかった。季節が変われば、太陽の沈む時間も変わる。既に二月は目の前だった。
 最後まで残っていた生徒も画材を片付け、上着を羽織って帰り支度をする。アタシは戸締りを確認して、ストーブを消した。
「千代ちゃん、さよなら!」
「はい、またね。気をつけて帰るんだよ」
 早くタバコを吸いたいな、なんて思いながら美術室の鍵を閉めようとしたら、最後に美術室を出た部長の間宮がぴたりと足を止めた。じっとアタシを見る。
「あれ、センセー、今日はピアス片方だけなんですか?」
 生徒に言われて、反射的に耳に指を持っていった。右耳には何も刺さっていなかった。
「あー……落としたかも」
 小さな星のピアス。青い石が控えめに揺れる、可愛らしいデザインのそれは―――唯人から初めてもらったものだった。
「いいよ、この暗さで見つかるわけないし」
 生徒に言った言葉がじわじわと自分の心にも染みる。
 すごくイヤな気持ちだった。このまま、唯人とのつながりまで切れてしまうような。
「先生、気に入ってたのにね、あのピアス」
 帰りかけていた生徒が三人とも、アタシの近くに寄ってきた。何だ、どうした。何をそんなに焦ってるわけ、君たち。
「先生にとって、大事なものなんでしょう?」
 間宮が心配そうにアタシの顔を覗き込んできた。

 ―――だって、先生泣きそうだもの。

 心配げな声を、軽く手を振って否定した。
「大丈夫だって、安物だから。ほら、バスに遅れるよ。早く帰らないと」
 彼女たちは、少し唇を尖らせて不満を示しつつ、時間に背中を押されて去っていった。一人、美術室に戻って吐息した。
 わかってる。生徒の前だっていうのに、視界が滲んだ。薄闇の中ごまかしたけれど、今も唇を噛んでこらえている。机の間を歩き回って、準備室まで照明を灯して、隅々まで捜しても見つからなかった。そもそも床は、部活終了後に生徒たちが掃除して帰ったのだ。そのときに気付かなくて捨てられたか、床以外のもっと見つからないところに入り込んだか。朝からの行動を思い返せば、美術室以外の場所だって歩き回っている。校内全部を捜すなんて無理だった。
 気付いたら一時間以上経っていた。すっかり夜の気温になった室内で、吐く息が白く震える。帰らなきゃと思うのに、その場に座り込んでしまいたかった。机の上に置いた手を、ぎゅっと握り締める。
 ……もらったピアスを片方無くしたくらいで、こんなにも気持ちが揺れる。
 嫌になるほど、もう唯人と離れたくない自分を、思い知った。


08.02.12


NEXT : BACK  : INDEX : HOME  

Copyright © 2003-2008 Akemi Hoshina. All rights reserved.


inserted by FC2 system