少年ロマンス
番外編/その幻に触れたくて




 会うたびに思い知る
 君はもう 僕のものではないのだと



 肌寒い季節でも、何度も抱き合うと汗だくになる。
 千代は、唯人の荒い呼吸や落ちてくる汗を感じながら、彼の髪を撫でるのが好きだった。本人に自覚がない行動は、もうクセになっている。余韻の残るふわふわした感覚の中、指先にサラリとした唯人の髪の感触。そのまま目を閉じて、全部預けたくなるほどの心地よさで満たされる。
 名残惜しげに何度かキスした後、唯人は起き上がって豪快にタオルで汗を拭いた。脇腹や背中をガシガシ拭いてる姿を、千代はそうっと見ていた。背中を見ていると尚更思う。外見がいくら可愛くても男だな、と。

 後始末を終えて、唯人が千代の隣にもぐりこんできた。ソファ兼用のベッドは二人で眠るにはいささか狭いが、唯人はそれを口実にぴったりくっつくことができるので、文句を言ったことはない。千代も口では、暑苦しいだの窮屈だの言っているが、結局はおとなしく唯人に抱きしめられたまま眠りにつく(抱きつかれているとも言えるが)。
 一度布団の外に出た唯人の手足は冷えていて、千代は擦り寄ってくる彼の足に、自分の足を絡めた。ほてったままの体には、ひんやりした唯人の足が心地いいのだ。
 既に日付は変わっていた。深夜1時近い。このまま眠りそうだと千代が目を閉じたとき、ぐるると猫が喉を鳴らすような音がした。薄闇の中、ぱちりと目を覚ます。唯人がごまかすように苦笑を浮かべていた。
「……お腹空いてるの?」
「――― う、実は、夕食食べ損ねちゃって……バイト遅くなったから、食べずに来たんです」
「何やってんのよ。遅くなるって連絡してくればいいでしょうが、もう」
 溜息をついた千代の腰に腕をまわし、唯人は彼女の胸に顔を埋めた。子供が甘えるように、きゅうと腕に力をこめて千代の体温を求めた。
「なんだか今日は、無性に会いたかったから」
 素直な告白と谷間を吐息が撫でていく感覚に、千代の頬が熱くなる。
 灯りを消したままでよかった。千代は内心ホッとしながら、唯人のしたいようにさせていた。
 恥ずかしいことを言う。それが本心だとわかるから、尚更にこちらが照れる。長年培ってきたポーカーフェイスも崩壊寸前だった。

「あー、でも、確かにこれじゃ眠れないな。僕、ちょっと出てきます」
 もぞもぞと唯人が動きはじめたので、千代は眉間に皺を寄せた。
「なんで?」
「コンビニでおにぎりか何か買ってきます。あ、何かいるものあったら一緒に買ってきますよ」
 Tシャツのエリから首を出した途端に、唯人は裾を引っ張られた。年上の恋人は、かすかに汗ばんだ肌を晒したまま、不機嫌な表情で口を開いた。





「……それで君は深夜に、ごはんの炊き方を習ったわけだ」
 里中聖は、頬杖をついたまま呆れた口調でつぶやいた。
 場所は言わずと知れた『TOGO』店内。厨房に一番近いテーブルに座る彼の目の前で、唯人がてきぱきとデザートの皿を片付けていく。
「習ったというか、千代に言われたとおりにやっただけですけどね。時間計って」
 おいしかったと、にこにこ笑って言う唯人に邪気は無い。嫌味で言ってるわけではないから、余計に性質が悪いのだ。
 黙り込んで紅茶を口にした聖の耳に、乾いたドアベルの音が届いた。顔を向けると、外から入ってきた元妻の頬は、寒さでほんのりと赤く染まっていた。コートとマフラーをレジにいた香織に預けて、迷わず奥へと歩いてくる。ブーツの踵が軽快なリズムで鳴った。
 千代が「ちょっと遅れたね。ごめん」と軽く手をあげると、聖と唯人も同時に手をあげて応えた。

 千代の注文を聞いて、唯人は仕事に戻った。ギャルソンスタイルの制服は、少し背が伸びた唯人によく似合っていた。聖はそれも面白くない。
 一年前に会ったときは、いろんな意味で、ちょっと突付けば倒れそうだったのに。
「で、話って何。わざわざ呼び出して、まだ慰謝料払いたいとでも言うの?」
 聖にとってそれは千代に会うための口実だった。結婚したときにお互いの家の事情はわかっていたので、千代が経済的に困っていないことぐらい知っている。
 聖も正直、慰謝料なんてどうでもいい。千代の欲しいものなら何でも用意するつもりだが、彼女が何もいらないというのだから仕方がない。実際、二人が新婚当時暮らしていた家を譲渡すると申し入れたこともあったが、「熨斗つけてつき返す」と冷たく断られた経緯がある
 答えをはぐらかすように、聖は視線で唯人を追った。ちょこまかとよく動く。誰かと目が合うたびに人懐っこく微笑んで会釈する姿は、まるで悩みなどないように見える。
「……仲良くやってるんだね、面白くもない」
「らしくないこと言う ――― ああ、恋人と別れたのか。違う?」
 千代の目が猫のように細められた。見返した聖の表情で確信を突いたと悟ったのだろう、くくっと喉の奥で声を殺して笑う。
「いつもは他人を捨ててばかりなのに、今回は自分が捨てられたの。それで落ち込んで慰めて欲しくなったんだね? 悪いけど慰めたりしないよ、いい気味だ」
「別に慰めてほしいわけじゃない」
 そういう気分のときに、抱きしめてくれる相手なら他にちゃんといる。
 ショックだったのは、昨日別れ際に相手から投げられた言葉だった。

 ――― 俺の他につきあってるヤツがいるのは知ってる。それでも平気だったのは、お前に安心できる場所を与えたかったからだ。何があっても、オレがここで待ってるから大丈夫だって思って欲しかったからだ!
 別れた女に、どうして何度も会いにいくんだよ。自覚ないのか?
 ……まだ愛してるって、言ってるようなもんだろ。

 聖にとってはかなりの衝撃だった。そう言ったのが、もう五年以上つきあってきた相手だったせいもある。束縛しなくて久しぶりに会っても違和感なく過ごせて、聖自身、彼と別れようと考えたことはなかった。だからこそ、なんでも話してしまった。昔結婚していたことも、かつて妻だった千代と今でも会っていることまで。
(僕が千代を ――― まだ愛している? まさか)
 そんなことはないと笑い飛ばしたのに、「じゃあ、もう二度とその女に会わないと約束してくれ」と言われたとき、頷けなかった。そこで話し合いは終わり、その恋人と聖の関係も終わりを告げた。
 聖には、自分にとっての千代がどういう存在なのか、確かにわからなかった。聖が唯一愛した女。そう、それはもう過去形であるはずなのに。
 だから、千代に連絡を取った。会いたいと言うと、理由も問わずに、千代はわかったと言った。
 そして、今日この場所で千代と顔を合わせた聖が感じたことは、奇妙な安堵感だった。
(別に、抱きたいわけじゃないのに……側にいてくれたら、なんて)
 じっと千代を見つめていると、彼女が頼んだコーヒーを持ってきた唯人に、じろりと睨まれた。
「里中さん、あんまり人の彼女見つめないで下さい。口説いても無駄ですよ!」
 唯人は、今にも頬を膨らませて怒りそうだった。迫力もなにもない。あまりに可愛らしい威嚇に、聖はつい笑ってしまった。
「口説かないよ、今更」
 疑いながら仕事に戻る唯人は、小さな声で「千代はもう僕のですからね、ダメですよ」と念押ししていった。





 もう聖の紅茶は冷めてしまっていた。近況を語り合うと、また沈黙がおちる。
「どうしたの?」
 さすがに聖の様子をおかしく感じたのか、千代が頬杖をついて真正面から見据えてきた。声は笑っているのに、表情はほんの少しの心配を滲ませている。
 こんなに優しい女ではなかったと、聖は昔を思い出していた。出会ってから、もう十年になろうとしている。
「僕はまだ、君のことが好きらしい」
 知らず苦笑が浮かんだ。千代は目を見開いていた。

 数年前、千代を置いてヨーロッパに発ったとき、千代からの電話を自分が受けていたとしたら、まだ隣にいられただろうか。千代の潔さは知っている。この女が他人に縋りつくような無様な真似をするわけがない。
 求めるのはただ一度だけ。二度目はないのだ。
「口説いてるじゃない……今更」
 視線をそらした千代の指先が、空になったコーヒーカップの縁をなぞっていた。
「でも、戻ってこないことも知ってるよ」
 つぶやいて、聖は腕時計を見た。もう出なくてはいけない時間だ。店の外へと目を向けると、既に薄闇があたりを包んでいた。だが、紙幣を置いて立ち上がろうとした聖を、千代の声が止めた。
「――― 自己完結しないで。聖が嫉妬してるのは、唯人じゃなくてアタシだよ」
 そう言って、細い指で自分を指し示した。
「柄になく寂しいなんて思ったんでしょう。なのに、アタシと会ってみたら、相変わらず唯人と仲良くて羨ましくなったんだ。アタシの状況を壊したくなって、いざ行動に移すと怖くなった。
 もうアタシを愛してもいないクセに、あんなこと言うからよ。バカ」
 唇の端だけを持ち上げて、冷たく言い放つ千代を見たら、聖も自分の行動がおかしくなってきた。言われてみれば、確かに唯人個人に嫉妬したことはない。いじめたいとは思うけれど。
「アタシだけ先に帰る場所を確保したように思ったんじゃないの。頭悪いな。
 今までどれだけの人とつきあってきたか知らないけど、別れたことで、聖をそれだけ落ち込ませる相手なんていた? さっさと仲直りしてきなさいよ、鬱陶しい」
 ひどい言われようだ。しかし、千代がどれだけ自分を理解しているか、聖にはよくわかった。
「わかった、そうするよ」

 席を立って、コートを手にすると、聖は千代の傍らで足を止めた。
「――― また会いにくる」
 耳元で囁くと、そのままテーブルに手をついて千代の頬に軽くキスを落とした。唯人がそれを見逃すはずもない。
「ちょっと、何やってんですか!」
 言いながら、トレイを小脇に抱えたまま早足に近づいてきた。
「あれぐらいで妬いたのか、仕方ないな」
 聖はビスクドールのように端整な顔に優しい微笑みを浮かべて、膝をかがめると、唯人の額にもちゅっと唇を押し当てた。
「なっ!!」
 唯人は硬直して頬をひきつらせ、千代は思わず腰を浮かせた。
「じゃあ、またね」
 店の中の視線を集めるだけ集めて、聖は軽やかな足取りで出て行った。カランと乾いたドアベルの音が響く。ありがとうございましたー、と明るい香織の声だけが、何事もなかったかのように聖の背中に届いた。

 聖は冴えた星がまばらに見える空を見上げた。
 千代は人の為にしか料理をしない。一緒に暮らした時間は半年に満たないけれど、聖はそれぐらい覚えていた。彼女はもう、これから一緒に生きていく相手を見つけてしまったのだ。
(千代を手中におさめたんだから、あれぐらいの嫌がらせは当然だ)
 聖は一度深呼吸すると、昨日別れたばかりの恋人に会うために、駅へと歩き出した。


(その幻に触れたくて/END)
06.11.23

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