2006年バレンタイン企画
少年ロマンス
番外編/ever after (1)

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 迷わないで 疑わないで
 僕はずっと側にいるから



 ケーキ屋さんが忙しいのは、何もクリスマスばかりじゃない。
 バレンタイン前の一週間、夢のない話だけれど、『TOGO』は戦場のように忙しかった。
 予約はもう締め切ってるのに、注文が入ってきたり、たまにキャンセル連絡もくる(しかも涙声……)。毎年人気の生チョコは、毎日高い順から売り切れていくし、緊急募集したバイトの女の子にラッピング講習する役まで僕にまわってくる始末。
「唯ちゃん先輩のお店でバイトできるなんて、すっごく嬉しいです!」
 ……かわいい声をあげるのは、なぜか美術部の後輩。必然的に、顧問である千代の顔を知っているわけで、僕は恋人が店に来ているというのに、当り障りなく挨拶することしかできないという嫌な状況に陥っている。遅くまで店の手伝いを命じられているから、ここ五日間、二人きりで会っていない。目の前にいるのに話すこともできないなんて、まるで拷問。
 でも、この慌しい日々と引き換えに、僕はバレンタイン当日の早番を死守したのだ。この日は夕方5時には店を出る。千代に会いに行く。それだけを楽しみに、こうして日々を乗り切っている。

「ありがとうございましたー!」
 僕らが揃ってホールでお見送りをしても、
「バイト頑張りなよ。風邪ひかないようにね」
 千代が声をかけるのは、バイトの女子高生。自分の教え子。いつもなら僕に向けられる笑顔が、他人に向けられる。ねぎらいの声も、全部。
 内心ふてくされていると、しばらくしてメールが届くんだ。
『拗ねたりしてないよね? ちゃんと愛想ふりまいて、仕事しなさいよ、接客業なんだから。  千代』
 そして僕は、カプチーノの運転席でメールを打つ千代を想像する。それだけで、また元気になれる。単純と笑われたっていいんだ。そんな相手がいるって、かなり幸せなことだもの。
 そういえば、僕、まだ一度もあの人からチョコもらったことがないんだよな。去年はシガレットチョコ一口齧っただけだった。今年こそ、ちゃんともらえることを期待して。
「いらっしゃませ!」
 僕は、ドアベルの音とともに入ってきたお客さんに、笑顔を向けた。



 2月14日、PM4:45。
 カフェエプロンを外して階段を上がる。歩きながらタイをほどいて、シャツのボタンにも手をかけた。急いでいるのに、こんなときに限って杏奈に見つかってしまった。廊下の僕に向かって、居間で遊んでいた杏奈が「あー!」と声をあげる。ああもう、時間ないのに。

「ごめん、あーちゃん。お兄ちゃん、これからお出かけなんだ」
 姉さんの腕の中から、こっちをじっと見て小さな手を伸ばしてくるから、一回だけだっこした。甘いミルクの匂いと、赤ちゃん特有のすべすべの肌。えーいと頬擦りしたら、きゃーと喜んで声を上げる杏奈。腕も足もふにふにしてて、気持ちいい。
「じゃあ、千代のとこ行ってくる。明日の夜には帰るから」
「わかった。千代さんによろしくねー」
 姉さんと杏奈に手を振って、バタバタと着替えた。ヘルメットを抱えて自宅側の駐車場に降りる。
 貯めたバイト代で買った愛車は、ホンダVTR。250ccのバイクだ。兄さんの友人から中古で買ったんだけど、かなり気に入って、秋頃から乗り回してる。今まで自転車だったから、行動範囲はすごく広がった。
 買ってすぐに、得意げに千代に見せたら、「アタシも二輪免許とっときゃよかったな」と珍しく羨ましそうにバイクに触れていた。意外に車とかバイク好きなんだ、千代は。



 コーヒーをいれる千代を見ながら、髪が伸びたなぁ、とぼんやり思った。無造作にくるりとひねって、クリップみたいなので留めている。届かない髪がほつれて、色っぽい。面倒で切りに行ってないとつぶやく千代には、長い髪もよく似合う。

「降ってきたんじゃない? 雨音が聞こえる」
 窓の外に目を向けると、いつの間にか空が暗くなっていた。細い雨が夜になりかけた町の風景を霞ませる。
「本当だ、降ってる」
「早めに出かける? 道が混むから」
 同意して、そのまま千代の背中を見ていた。
 静かだった。千代の部屋にはテレビがない。彼女は、テレビ番組もDVDもパソコンで見る。部屋の隅、机の上に置かれた無骨な黒いパソコン。今は、スピーカーからごく小さな音でラジオが流れている。雨音と同じくらいの、小さな音で。
 家具も小物も、情報も、千代は自分で選び取る。受身じゃない。余計なものはいらないとばかりに、自分が選んだものだけを側に置く。僕は、この部屋に来るたびに時間の流れが違うなぁと感じる。情報を遮断するだけで、時の流れはゆるやかになる。

「はい、どうぞ」
 千代は隣に座ると、コーヒーと一緒に小さな箱を差し出した。手の平に納まるくらいの、シルバーグレーの箱。真っ白なリボンで飾られたその正体がわからない日本人はいないだろう。
「チョコですか?」
「まぁね。忘れないうちに渡しておこうと思って。いらないなら、いいけど?」
「誰もそんなこと言ってないじゃないですかッ。頂きます、ありがとうございます」
 こうして、ものすごくあっさりと、チョコは僕の手に届いた。嬉しいんだけど、拍子抜け。そして、パソコンの横には、千代がプレゼントされたに違いないチョコが、十個近く置かれていた。
 ……相変わらずモテてるんだなぁ、女子生徒から。
「今日は、店予約してるんですか?」
「してない。何食べたい?」
 そういえば、先週大学の先輩に連れて行ってもらった串焼き屋、おいしかったな。提灯と竹で飾られた内装も、千代が好きそうだった。
 そんなわけで、小雨が降る中、カプチーノで出かけた。もちろん運転は僕だ。お酒好きの千代が、串焼き屋で飲まないわけがない。



 帰りの車の中、千代は珍しく、うとうとしていた。量的にはそんなに飲んでないんだけど、ほろ酔いなのかもしれない。最初から冷酒を頼んでたから。
 部屋に戻ると、僕が上着を脱いでる横で、冷蔵庫からワインを取り出した。
「まだ飲むんですか?」
「軽くね」
 うわー、やっぱり酔ってる。笑顔がトロンとしてるもの。滅多にないぞ、こんな素直な笑顔。
 千代は、ワインとグラスを手にして座ると、慣れた手付きでコルクを抜いた。トクトクといい音をさせて、グラスに注がれる琥珀色のワイン。
「……ワインって、おいしい?」
「飲んだことないの?」
「僕、まだ未成年なんで」
「お正月にビールで酔いつぶれたの、誰だっけ」
 うう、その話はもうしないで欲しい……。今年は、元旦から二日酔いだった。初詣の帰りに吐きそうになってた僕を見る、千代の冷たい視線は忘れられない。基本的にアルコールには弱いんだ。飲めるけど、千代にはとても敵わない。

「ほら、落ちこまないの。おいで」
 言われるままに近くに座った。千代は一口ワインを口に含んで、こくりと飲み下した。
「うん、おいしい。味見してみる?」
 頷くと、千代はグラス片手に僕の正面に座りなおした。向かい合って、僕の膝をまたいで腰を下ろす。淡々と動いているけれど、それはかなり挑発的な体勢だった。そのうえ、空いてる千代の左手が僕の顎にかかる。
「 ――― 千代?」
 ほのかに頬を染めて、千代はワインを口にすると、そのまま膝立ちになって、覆い被さるように僕に口づけた。重ねた唇は隙間なくしっとりと。流れ込んでくるワインの味なんてわからなかった。目を見開いたまま、固まった。かろうじて千代の背中に回した手も、力いっぱい抱きしめたい衝動を抑えるので精一杯。
「ん……う」
 注ぎこまれたワインを全部飲んで、独特の香りにくらりとなった。甘い。離れた唇で、ふあ、と酸素を求めて息をする。

 びっくりした、何だ、いまの。千代がこんなことするなんて、ありえない。僕の手からモノを食べることさえ嫌がる千代が!(一度、苺をフォークに刺して『あーん』と食べさせようとしたら、自分で食べられると冷静に拒まれた。かなり消し去りたい記憶だ。)
 落ち着こうと深呼吸していると、千代の腕が首に回った。ぎゅっと抱きつかれて、首の付け根に顔を押し付けられた。子供みたいな ――― そう、まるで杏奈みたいな甘えた仕草。
「……どうした、の?」
 問いかけて、恐る恐る髪を撫でた。見下ろした千代の顔は赤い。お酒のせい? それとも、照れてる?
 返答がないから、そのまましばらく考え込んでしまった。何事もなかったように話しかけるのがいいのか、それともこのままキスして抱きしめてもいいのか。可愛い、なんて正直に言ったら、部屋から閉め出されそうな気もする。
 参った。どう対処していいかわからない。
 抱きしめたままぐるぐると考えていると、ふっと千代の腕から力が抜けた。くたりと僕にもたれかかってくる。ここで僕は異変に気づいた。
「千代?」
 彼女は目を閉じていた。頬が赤い。腰に回していた手を、首筋に当てた。熱い。次いで額をくっつけてみる。確かに熱い!
 酔っ払ってるんじゃない、熱が出てるんだ、これは!

06.02.14

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