少年ロマンス
番外編/冷蔵庫の中




 冷蔵庫の青白い光が、しゃがみこんだ千代の顔を照らす。
『ごめんなさい、急用ができたので帰ります。ケーキ持ってきたので、食べて下さい』
 恋人からのメールは届いていた。
 書かれていた通り、冷蔵庫の中段には、白いケーキの箱がちょこんと載っている。千代は冷蔵庫の扉を開けたまま、頬づえをついて、足元の袋に視線を移した。買ってきた二人分の鍋の材料は、別の料理に使うしかないようだ。
 こんなとき――きっと泣いてしまえば楽なのだろう。
 パタンと冷蔵庫を閉めて、タバコを咥えた。
 二人で過ごすはずだった時間に不意打ちで一人になると、言いようのない苛立ちが胸の奥に溜まる。それを寂しさや切なさとは呼ばない。そう自覚して無様な態度をとるくらいなら、感情そのものをなかったことにするのが千代のやり方だ。気持ちを切り替えようとするとき、ついタバコに手が伸びるのは、もはや癖だった。

 一人分の料理を作るのは面倒くさい。
(外で軽く食べるか、何か買ってこようかな……)
 脱いだばかりのコートに袖を通したものの、再び外出するのが億劫で椅子に腰かけた。とりあえずお茶を飲もうとお湯を沸かす。静かになった部屋に、強い風の音だけがわずかに届いていた。
 千代はゆっくり目を閉じて、机の上に顔を伏せた。
 部屋に、唯人の気配が残っている。会えないのに、千代を気遣う気持ちや優しさがあちこちに。暖かくなっていた部屋、冷蔵庫のケーキ。急に帰ることになったのなら、そんなもの全て残さず連れて帰ればいいものを。
(面倒だ、何もかも)
 こんなことでいちいち気持ちが揺らぐのも、冷蔵庫に入れた鍋の材料も、すぐに傷んでしまうケーキも、無かったことにしてしまえればいいのに。そうすれば以前のように、この部屋は自分一人を飲みこんで、静かで代り映えのしない日々を送る箱に戻るだろう。
 お茶を淹れたものの、動く気が全くなくなった千代は、そのまま奥の部屋に入った。コートを背もたれにかけて、明かりも点けずにソファに体を預ける。毛布を足に掛けると、それだけで眠くなってきた。このまま眠ってしまおうかと体をまるめる。唯人がいたら、「夕食を抜くなんてダメですよ!」と怒られるだろう。でも、今日はいない。だからいい。
 目を閉じると、いろいろな音が遠くから伝わってきた。窓を揺らす風の音、マンションの前を走る車の低いエンジン音、どこかで犬の鳴き声も響いている。マンションの住人が帰ってきたのか、階段を上る足音もわずかに聞こえた。廊下を歩いて、止まる――この部屋の前に。
(こんな時間に、誰!)
 宅配便を頼んだ覚えもない。千代は警戒を強めて、ばっと身を起こした。インターフォンは鳴らない。代わりにドアノブを回す音に気づいて、千代の肩が強張った。
 千代が明かりを点けるのと、ドアが開いたのは、ほぼ同時だった。

「ただいまー」
 玄関に入ってきた唯人は、突然灯った照明にまぶしそうに顔をしかめた。
 思いもかけない訪問に、千代は目を瞬いた。それに、今の言葉。
(いつもは、「こんばんは、お邪魔します」って……)
「あれ、帰ってたんですか? 下から見たら真っ暗だったから、まだ帰ってないのかと思ってました。
 急にバイト足りないって連絡来て戻ったんですけど、代わりの人間がみつかったみたいで」
 唯人は寒そうに肩をすくめて、スニーカーを脱いだ。立ち尽くしたまま唯人を見つめる千代を見上げ、苦笑を浮かべる。
「えーと……お邪魔します」
 唯人は照れていた。どうしたらいいのかわからず、キッチンの隅に立ってマフラーの端を握っている彼に、千代は小さく笑いかけた。
「――おかえり」
 いつか同じ家に帰る日がくることを、二人はもう疑いもしない。



(冷蔵庫の中。唯人が大学一年の冬の話。/END)
2009.1月の拍手御礼。

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