2006年バレンタイン企画
少年ロマンス
番外編/ever after (2)

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 体調悪かったなんて、全然気づかなかった。
 僕の上に座り込んだままの千代を、抱きかかえてベッドに横たえた。前髪を手で押さえて、もう一度ちゃんと額に触れる。ぱちりと、千代の目が開く。
「……アタシ、寝てた?」
「一瞬だけ。熱ありますよ、風邪ひいてたんですか?」
 うーん、と顔をしかめて、千代は顔をこすった。辛そうだった。
「大丈夫? 薬……はダメか、お酒飲んでるから。体温計は?」
「ない」
 千代は言い切って、起き上がるとソファベッドの背もたれを倒した。セミダブルサイズの広さのベッドになる。無言のまま端っこに腰を下ろして、髪をほどいた。着ていた黒いセーターを脱ぎ捨てて、床に落とす。茜色のコーデュロイパンツと、黒いキャミソールだけの姿。エアコンのスイッチを入れて間もない部屋はまだ寒くて、黒いレースで飾られた胸元に、鳥肌が立つのが見えた。息をつめて眺めることしかできない僕の手を、千代の細い指が握る。
「寝ないの」
 ただ眠るという意味じゃない。それは、一年の付き合いでわかっていた。
「……熱があるのに」
 見下ろすと、白い胸の谷間がゆっくりと上下していた。僕の視線に気づいて、千代が浅く笑う。誘惑だらけの状況で、更に誘う唇。
「気にしないで」
 呪文のように、その声が僕の体をあやつる。千代の腕が首に回って、軽く僕を引き寄せる。ささやかな力に抵抗することも忘れる。千代の体に僕の影が落ちた。千代が目を閉じる。軽く開いた唇に目を向けて。

「 ――― で、何をごまかそうとしてるんですか」
 僕は千代の鼻をぎゅっと摘むと、毛布を引き寄せて彼女の体にかけた。面食らって瞬きする千代の唇に、一回だけ、軽くキスする。我慢にも限界はあるけれど、今日はこれだけで耐える。耐えられる、はず。耐えろ、僕の理性。
「流されなさいよ。昔は何でも言うこときいてたクセに」
「また『先生』って呼ばれたいんですか?」
 すごく嫌がるくせに。
 案の定、千代はカチンときたようで、頭まで毛布をかぶるとこっちに背中を向けてしまった。
「あー、生意気。一週間近くほったらかしにしといて、やっと会えたのに、抱きもしないで説教!」
「なんとでも! 最近店に来なかったの、風邪ひいてたからでしょう。なんで隠すんですか!?」
 そんなに頼りにならないのか、僕は。バレンタインだからって、平気なフリしてデートされても、全然嬉しくない。体調崩してるなら、別に部屋でゆっくり過ごすだけでいいのに。ふたりでいられるならなんだっていい。
 あなたの寝顔を見るだけでも、僕は満たされるのに。

 いつまでも子供じゃない。もう抱きしめることも支えることもできる。調子が悪いと聞けば心配になる。合鍵もある。電話ひとつで、夜中でも飛んでくるのに、どうして一人で我慢してしまうんだろう。
 腹立たしくなって、座り込んだまま溜め息をついた。部屋の中はシンとしてしまった。エアコンの稼動音だけが、低くうなっていた。しばらくそのままじっとしていた。苛立ちが納まるまで。
 千代も静かだった。
「……千代?」
 呼んでも答えないから、ベッドに上がって、顔を覗き込んだ。丸まった背中。顔半分を毛布にうずめて、千代は寝息を立てていた。熱がある上に酒を飲んでるんだから、当然か。
 薬局って、何時くらいまで開いてるんだっけ。考えながら、バイクの鍵を手に立ち上がった。



 市販の風邪薬の、種類の多さに戸惑った。結局、薬剤師の人を捕まえて「熱が高くて、あとは平気っぽい場合、どれを買えばいいんですか?」と訊いてしまった。後は体温計。
 僕が風邪ひいたとき、母さんは何を食べさせてくれたっけ、と考えたけど、実はあまり風邪をひいたことがない健康体なので、わからない。ついでなので、閉店時間ギリギリだっだけどウチに寄ってみた。

「あれ、どうしたんだ唯人。千代さんのとこで泊ってくる予定だったろ?」
 厨房の片付けを終えた兄さんが出てきた。
「千代が熱出してるんだ。寝かせてきたんだけど、何食べさせればいいの?」
「基本的に、消化がいいものだろ。胃に優しいもの。俺もここ数年寝込んだことないから、わからん」
 二人で首を捻っていたら、姉さんが呆れ顔で僕を呼んだ。
「ゼリーとムース用意するから、待ってなさい。唯人が下手に料理しても、キッチン汚すだけよ」
 反論できなくて、おとなしく店の隅っこで椅子に座っていた。



 千代の部屋は暗かった。おとなしく寝てるらしい。とりあえず、果物とか買ってきたものをキッチンに置いて、手を洗った。喉が渇いたな。
 冷蔵庫をあけてジュースを取り出したとき、見慣れない白い箱に気がついた。
「なんだ、これ」
 生菓子っぽい。今日のデザートに、千代が準備していたのかも。冷蔵庫の上にペットボトルを置いて、蓋を開けた。途端に、ふわりと鼻をくすぐる独特の香り。
 ココアパウダーの中に転がっていたのは、10個近いチョコトリュフだった。市販のものじゃないのは、ごつごつした形でわかった。この無骨な形じゃ、売り物にはならないだろう。ひとつ口に放りこんだ。軽く歯をたてるだけで、やわらかなショコラクリームが溶け出した。舌の上でふわっと溶ける。オレンジリキュールがよく効いてる。
 慌ててコートのポケットから、千代に貰ったチョコの箱を取り出した。リボンをほどく。中に入ってたのは、いくぶん綺麗な形の、4つのチョコトリュフ。
 まさか、手作りだったなんて……。
 昨日だって、千代は仕事だったはず。今日も平日だ。いつも通り学校で授業をこなしたに違いない。風邪気味でしんどかったはずなのに。
 
 千代の部屋に続く扉を開けた。起こしたらいけないから、照明はつけずにそっとベッドに近づく。毛布は相変わらず盛り上がっていた。千代は壁の方を向いて寝ている。僕に背を向けて、ぎゅっと体を縮めて。
「 ――― 明かりは、つけないで」
 不意に小さな声が聞こえて、びくっとしてしまった。
「起きてたの?」
 千代は答えない。別に答えなくてもいいと思った。不機嫌でも怒ってても、いいや。
 僕はベッドに上がると、毛布から出ている千代の髪に触れた。拒まれなかったから、そのまま体の下に手を入れて、毛布ごと千代を抱きあげた。向かい合って座るような格好で、抱きしめる。千代は身じろぎして、少し迷った後、僕の胸に顔を伏せた。
「どこ行ってたの」
「体温計買いに。あと、ウチから果物とか持ってきました。お腹すいてませんか?」
 千代は黙って首を振った。僕の背中にまわった腕に、ぎゅっと力がこもる。
「ケンカした後に、黙って出て行かないで ――― 二度と」
 その声が震えているのに気づいた。体を引き離す。キッチンから漏れてくるわずかな光に照らされた横顔。左側しか見えない。その頬が、濡れていた。
 まさか……泣いてた?

 千代はそのまま唇を重ねてきた。受け止めて、両手で彼女の頬を包む。親指で涙のあとをなぞったら、千代が体を押し付けてきた。なすがまま、ゆっくり押し倒される。
 剥き出しの肩を撫でて、ぎゅうと抱きしめた。ぱたぱたと、千代の涙が落ちてくる。拭ってもキスをしても、千代は泣き止まなかった。この人の泣き顔なんて、見たことがない。
 ――― いや、一度だけある。去年、保健室で眠っていた千代の目から、ゆっくりと零れていく涙を見た。
 いつだって、一人で静かに……泣きたいのを、我慢していたのかもしれない。

 顔を離すと、千代はその手で僕の顔を撫でた。額から顎まで、白い指先で確かめるように。
「唯人は、一年で顔つき変わったね」
 涙交じりの掠れた声。痛々しくて、僕は千代の後頭部に手を回して、腕の中に閉じ込めた。
「全然可愛くなくなった。バイク乗れるようになって、バイトの女子高生に慕われて、アタシに口答えするようになって」
「……僕にとって、もうあなたは『先生』じゃないから。言いなりにはならないですよ」
 千代に迎えにきてもらってばかりじゃ嫌だから、バイクを買った。生徒と教師という関係は変わっても、僕はまだ大学生で、千代は社会人だ。どれだけ頑張っても、追いつけない。必死で対等の立場になりたい、千代を支えられるようになりたいと願っても、空回りしている気がして仕方ない。
「この前『TOGO』で、前村と一緒にいる唯人を見て」
 前村というのは、バイトの女の子だ。僕よりふたつ下の、現役美術部員。
「……後ろめたくなった。
 アタシと一緒にいることで、唯人は、同年代の女の子とつきあう可能性をなくしてるんじゃないか、って」
 一瞬、何を言われているのかわからなかった。

「 ――― アタシでいいの?」

06.02.21

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