冷たいキス
雲の影に立つ 【四話】



 思い出してみれば、それは小久保の人生における初めての修羅場だった。

 まどかは小久保の両手を握りしめて、別れたくないと泣きじゃくり、小久保はそれを眺めているうちに、黙っていられなくなった。
「嫌だってそんなに言うなら、なんで一言相談してくれなかったんだ。
 人を――俺のことを、勝手に思い出にしようとするな! どのみち、春になったら別れるつもりだったんだろ!?」
 一緒にいることが増えたのも、手を繋いで帰ったあの時間も、休みの日のデートも、一緒に写真を撮りたがったのも、何度か交わしたキスも何もかも。
 彼女の記憶に、ひとつひとつ刻み込まれるかのように。
「別れるつもりなんてなかった! ちょっと離れるけど、でもっ」
「ちょっと? ちょっとって、何だ。三年間だぞ、すぐに会えない距離で、場所で、三年も!」
「たくさん電話する、メールだって送る!」
「いくら連絡とったって、大事なこと話せないなら一緒だろ」
 違う、とまどかは大きく首を振った。涙でぐしゃぐしゃの頬に、乱れた髪が張り付いていた。泣きながら、懸命にしゃくりあげるのを堪えて、小久保の左手を握った。
「話したら、終わると思った、から……こっちに戻れるのは年に一回か二回だよ。それなのに、待っててなんて……!」
 小久保は震えるまどかの体を抱きしめそうになって、その手をとめた。迷った末に、髪を撫でた。
 初めて好きだと思ったときのことを思い出した。一人で泣く彼女を支えたい、助けたい、側にいるから何かあったらいつでも頼ってほしい――そう願って、けれど結局、頼られることはなく。
 距離が離れるのは、つらい。だが、蚊帳の外に置かれるよりマシだ。
 まどかの悩みを小久保は知らない、何を考えてるのかわからない。まどかが重ねてきた手を、握り返しはしなかった。
「別れるのは、高校が別々になるからじゃない。お前がオレの気持ちを軽く扱って、信用しなかったからだ。最初から諦めてただろ……離れたら、続かないって」
 まどかは顔をあげると、涙で濡れたままの瞳でまっすぐ小久保を見つめた。
「話したら、その瞬間から隣に居るのがつらくなるもの。私も……きっと、しーちゃんも」
 彼女はそこで涙をぬぐい、立ちあがってコートを羽織った。ベッドにもたれたままの小久保を束の間眺めて、何も言わずに部屋を出て行った。
 彼女はもうここへは来ないだろう。
 去年の冬のあの日、扉が閉まる音を聞きながら、小久保はきつく目を閉じたのだ。

 あれから九カ月が過ぎ、その間二人は全く関係を絶っていた。まどかの顔を最後に見たのは、中学の卒業式だ。あからさまにお互いを避けていたので、体育館でちらりと横顔を見ただけだった。それから半年以上、一通のメールさえ、やりとりしていない。
 別れた日の出来事は、嫌になるほど鮮明に覚えている。忘れたくてたまらなかったのに、何度も夢に見て、その度に苦い気持ちで朝を迎えた。
 もしもあの日に戻れるのなら――そう考えたことも、あった。

 小久保は記憶をさぐるのを止めて、大きく腕を伸ばして深呼吸した。
 神社の階段の一番上から、連なる山々を見渡す。
 晴れ渡った秋空に赤とんぼが飛び回っていた。鳥居から下にのびる石段の両脇には、咲き終えた彼岸花の茎が列をなしている。香る金木犀。山間にはかすかに太鼓の音が響く。来月の祭に向けてあちらこちらで練習しているのだろう、この時期は老若男女、誰の心も浮足立つ。
 夏休みが終わり、体育祭も終わった。年一番のイベント、秋祭はすぐそこだ。それが過ぎれば、季節は冬になる。
 まどかは最後の手術を終えて、昨日無事に退院した。たびたび見舞いに行っていた小久保の家族と、たまに病院近くで会うようになった後輩、加藤瑠衣の話をまとめると、術後の経過は良好で、しばらく自宅で療養するらしい。
「よし、行くか」
 小久保は声に出して自らに気合を入れ、自転車で街へと続く坂道を一気に下った。



 平日の午後二時、親世代は当然働いている。
 小久保は小さなケーキの箱を片手に提げて、酒井家のインターフォンを押した。テスト期間中で高校は昼まで、部活も休みだ。だが、そんなことを療養中のまどかが知るはずもない。
「はーい、お待たせしました」
 ドアを開けたまどかは、ハンコを手にしていた。宅配便と間違えて出てきたのか、不用心だな、と小久保は思った。狙い通りではあったのだが。
 久しぶりに目にするまどかの姿は、記憶といくらか違った。最後に会った時より髪が短く、顔の輪郭が細くなった。顔立ちが大人びた。そして目の前にある白い腕の点滴の痕に、嫌でも目がいく。小さな青紫のあざ。
「……えっ!?」
 短く叫んですぐにドアを閉めようとしたので、片足を突っ込んで隙間を確保し、そのまま手でこじ開けた。
「閉め出すなよ、失礼な」
 玄関のタイルに、まどかは突っ立っていた。後ろ手にドアを閉めた小久保を、呆然と見ている。
「――酒井?」
 まどかはサンダルを脱ぎ捨て、いきなり背中を向けて階段を駆け上がった。十月とはいえ快晴の今日はまだ暑い。開け放した窓から吹き込む風で、彼女のパーカーの背がふわりと膨らんだ。
(話をする前に逃げられた。それにしても――なんだ、今の表情)
 廊下を走り、ドアを勢いよく閉める音が聞こえ、そのまま家の中はシンと静まった。
 やはり会いたくないのか。最初から深追いは禁物だと己に言い聞かせて、小久保は小さくため息をついた。二階に向かって、大きめの声で話しかける。
「退院したって聞いたから見舞いにきたけど……ケーキ置いて帰るから、早めに食べるか、冷蔵庫に入れろよ」
 ケーキの箱を、そっと廊下に置いた。ドアノブに手を掛けたところで、上から声が降ってきた。
「待って! あの、あ……」
 言葉に迷って後が続かないのだろう。小久保は辛抱強く待った。じっとりと手の平に汗が滲んだ。
 階段の手すりに、白い指が見えた。
「そこまで行くから、目を閉じてて」



 酒井家の二階にはテラスがある。木製のテーブルとベンチがあって、夏の夜に遊びに来ると、大人たちは夜通しここで飲みながら過ごすことが多い。
 そのベンチに、小久保は一人で座っていた。手土産のケーキはさっさと胃に収まり、出されたアイスコーヒーも二杯目だ。まどかはテラスに面した廊下に腰掛けていた。小久保からは投げ出された彼女の足しか見えない。白いレースのカーテンが、彼女の姿を隠していた。
『まだ、顔は見られたくない』
 玄関で既に顔を合わせているので、小久保は今更だと思ったが、まどかの声があまりに硬かったので言われた通りにした。彼女が飲み物を用意している間にテラスに行き、廊下に置かれたお盆からケーキとコーヒーを受け取った。
 奇妙な距離を保ったまま、「大変だったな、学校いつから復帰するんだ」と、ありきたりな会話を交わして、口を噤んだ。
 小久保は、こんな話をしに来たわけではない。
 お互いの気持ちを探っているのがわかって、気まずかった。なのに、離れがたい。何も話さなくてもいいから、口実なんて何でもいいから側にいたいと、切実に思った。
 その為には動くしかないのだ。

 気まずい沈黙の中、残りのコーヒーを一気に飲み干して、口を開いた。
「酒井が怪我したって聞いたとき、心配ですぐに病院行きたかったんだ。けど、来るなって言っただろ。兄貴は良くて、なんで俺は駄目なんだって腹が立ったよ。
 年末に別れて以来、口もきいてないし、卒業以来顔も合わせてない。あんな別れ方したんだから、避けられて当然だとも、思った。酒井にもう恋人がいて、そいつに俺のことを誤解されたくないって可能性も」
「ない、それはないよ!」
 慌てた声が小久保の話を遮った。
 ざわっと遠くから強い風が吹いて、カーテンを大きく揺らした。一瞬浮き上がった白い布の向こうに、固く握りしめられたまどかの両手が見えた。
 小久保は静かに立ち上がると、廊下の手前でしゃがみこんだ。手を伸ばせばすぐに彼女に触れられる距離だ。
 ここまで近寄ると、レースの向こうの表情が透けて見えた。まどかも小久保を見ていた。まっすぐに。
「怪我した顔を、俺にだけは見られたくなかった――とか。かなり自惚れた予想だけど」
 酒井、と呼びかけると、まどかの表情が歪んだ。さっきもそうだった。玄関で呼びかけた時、泣くのかと思った。
「……もう、『まどか』って呼んでくれないの? しーちゃん」
 幼すぎるその呼び方は苦手だったが、今はどうでもよかった。彼女の言葉でゆるみそうになった口元を引き結ぶ。まどかの表情は、不安に揺れたままだ。
「わがまま言い過ぎて、本当に嫌われたと思ってた。しーちゃんに会ってもどんな話していいかわからなかったし、怪我した顔も見られたくなかった。今も怖い。まだ痕が残ってるし、笑うと頬がひきつるから。
 会うのなら、怪我が綺麗に治ってからにしようって」
「――痕なんて、どこにあるんだ」

 レースのカーテンたった一枚、まどかの最後の砦。
 それをくぐることなど、わけもない。
 
 まどかが自分から顔を見せてくれるまで待つつもりだったのに、小久保はもう我慢できず、大きくカーテンをめくりあげた。まどかの両脇に手をつき、至近距離から、目を見開く彼女を見つめた。
「……だめっ!」
 まどかは、ぱっと顔の前で腕を交差させたが、それぐらいで小久保は止まらなかった。
「わかった、顔は見ないから――」
 触れさせて、と。
 届くか届かないかのささやきで告げて、小久保は目を閉じた。両手で彼女の頬を包んで、傷に触らぬように細心の注意をはらって、指先で目元を撫でた。そのまま手の平を彼女の背中に添え、ゆるく抱きしめる。
 本気で嫌ならふりほどける、その隙を残して様子を見ようとしたのに、まどかはいきなり小久保の背に腕を回して、思い切り抱きついてきた。膝立ちだった小久保はバランスを崩し、彼女を胸に抱え込んで廊下に倒れた。
「大丈夫か!?」
 うん、とくぐもった声がしたものの、まどかは小久保の胸に顔を埋めたまま動こうとしなかった。きゅっとTシャツを掴む手が健気で、ふりほどけない。まさか泣いているのかと思ったけれど、まどかはそのままじっとしていた。小久保の体温を確かめるように。
 さわさわと秋風が二人を撫でていく。
 小久保はしばらく硬まっていたが、小さく息をついて、抱きしめる腕に少しだけ力をこめた。まどかが大人しく腕の中にいる状況に、ほっと安堵の息がこぼれた。髪を撫でると、まどかが甘えるように小久保の肩に額を摺り寄せた。
「……しーちゃん」
「うん」
「こんな風にされたら、私も自惚れる」
 小久保も全く同じ心境だった。
 今更、言葉にする必要もない。表情と態度と仕草、再会してからのわずかな時間に、互いの気持ちは痛いほどわかっていた。


15.01.20

NEXT : BACK : INDEX : HOME   

Copyright © 2003-2015 Akemi Hoshina. All rights reserved.


inserted by FC2 system