冷たいキス
雲の影に立つ 【三話】
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 小久保静は、自分の名前があまり好きではなかった。子供の頃、「しずかちゃん」と呼ばれて、よくからかわれた。兄の薫の名もそうだが、両親は、性別を問わない名前にこだわっていたらしい。
 だが、まどかと親しくなった切欠は、この名前だった。
 中学に上がる前の春休み、母親に連れて行かれた夜の体育館。バレーボールの音が響く中、同じ歳のまどかと会った。互いの母親に紹介されたものの、気恥しさから一緒に遊ぶこともできず、小久保は体育館の隅でバスケットボールで遊んでいた。が、試合が始まると、母から得点係をしろと命じられ、しぶしぶまどかと二人、スコアボードの傍らに立って試合を見ていた。
『ねぇ、まどかとしずかって、響きが似てない?』
 そう話しかけてきたまどかは、最初から屈託がなかった。
自然に話しかけてきて、コートに入ればバレーの上手さは大人顔負け。当時のまどかは小久保より背も高かった。小久保は自分の言動がひどく幼く見えて、虚勢を張るのをやめた。入学後に部活を始めてからは、母のバレーにつきあうことも減ったが、たまに行くと、まどかと二人で他愛もない話をしてよく笑いあった。

 中学二年の秋に告白した。最初は及び腰だったまどかも、冬には小久保に応えてくれた。
小さなケンカをしたり、部活の相談にのったり、一緒に勉強をしたり―― 一年が経って、中学三年の秋、まどかは突然周囲に対して、つきあっていることを隠さなくなった。教室に迎えに行き、一緒に帰る。毎日繰り返していれば、クラスの面々も「ああ、つきあってたのか」と妙に素直に納得してくれた。勘のいい人間は、以前から気付いていたのだと思う。

 去年の十二月、終業式を翌日に控えたその日も、小久保は教室でまどかを待っていた。
彼女は担任に呼ばれていた。「すぐに終わるから、待ってて」、まどかはホームルーム終了と同時に小久保のもとへ来てそう言った。最近ではそんな二人に、周囲も慣れている。もしくは、冬の訪れとともに否応無く向き合う高校受験への緊迫感から、他人の色恋にかまっている暇などなくなったのかもしれなかった。
 小久保は窓枠に背中を預けて、歴史年号の単語帳をめくった。外の冷たい空気が硝子越しに伝わってくる。すると、部活に向かう下級生の声に交じって、低い振動音が聞こえた。
(……まどかの携帯か?)
 もちろん学校への持ち込みは禁じられているのだが、まどかの鞄の外ポケットでそれは震えていた。コールが長い、電話だろう。一度切れてまた震えだしたので、小久保は何か緊急の用件かと思い、躊躇しつつもまどかの携帯を手にした。
 そして、小さな液晶に表示された文字を見て、眉間に皺を寄せた。『薫クン』――小久保の兄の名だ。薫は小久保に用事があるとき、よくまどかの携帯に連絡を寄越す。今回もそうだと思い、彼はためらいなく通話ボタンを押した。
「……まどかに何の用だよ、学校で携帯鳴らすな」
『あれ、なんでいきなり静が出るんだよ』
「まどか、担任に呼ばれて職員室行ってる。すぐ戻ると思う」
『あー、推薦ってこの時期にもう手続き始まるもんな。さっき、千織さんが言ってたわ』
 千織というのは、まどかの母親だ。
 推薦、手続き――その単語を不思議に思って小久保は黙り込んだのだが、薫はその沈黙を何かの覚悟と受け取ったようで、妙に優しい声で話しかけてきた。
『まどかちゃんなら、S女のスポーツ推薦通るだろうな。まあ、お前ら二人なら遠距離でも大丈夫だと思うけど……そうだ、入学祝いに携帯買ってやるよ』
 まどかには、また後で電話する――と、薫は電話を切った。小久保はまどかの携帯を戻そうと、のろのろと彼女の鞄を手にした。さっきは目に付かなかった一番上に入った茶封筒をそっと引き出すと、薫が言った他県の女子高の名が印刷されていた。呼吸が早まる。
 まどかの鞄を机に置いて、窓の外を見た。寒々しい冬の空はさっきと変らない。
 薫は、まさか小久保が知らされていないとは、思いもしなかったのだろう。
単語帳に指をかけたまま、動けずに溜息をついた。
 卒業して春が来ても自分たちは変わらず一緒にいるのだと、何の疑いもなく、そう思っていた。
「スポーツ推薦って……なんだよ、それ」
まどかは今日まで何も言わなかった、だから、自分からは問わない――そう決めて、小久保は戻ってきたまどかをいつもの笑顔で迎えた。

 見る側の意識を変えるだけで、こんなにも相手の気持ちを見透かせるものだろうか。
 注意していれば、彼女の不自然さはあからさまだった。隣に並んで歩きながら、目線だけ動かしてそっと横顔を見つめれば、はしゃいで明るく話す合間に笑顔がふっと霞んで、瞳の奥から静かな決意と溢れ出しそうな不安さが現れる――寂しい、悲しい、切ない。
 それを悟られないように、笑う唇。
 話してくれなかったことも腹立たしいが、まったくそれに気づかずに、ただ距離が縮まったことに浮かれていた自分にも腹が立った。
 互いに白い息と、どうでもいい話題を吐いて、大事なことは口にできない。それなのに、傍から見れば自分たちは微笑ましい恋人同士なのだ。そう思うと、まどかに問うことも責めることもできず、何を話しているのかも見失って、息が詰まりそうだった。

 翌日、終業式は淡々と終わった。部の後輩からバスケットの誘いを受けていた小久保は、スポーツバッグを担いでまどかの教室に向かった。皆の心はもう冬休みに移っていて、部活も休みの今日は、校内に長居しようとする者はいなかった。
 帰らないの? と不思議がるまどかに、適当に話を繋げて、小久保は教室に誰もいなくなるのを待った。十分も経つと、彼らのいる二階から人の気配は消えた。無人の廊下にチャイムが響く。
「……しーちゃん、どうしたの?」
 マフラーの端を結んだりほどいたりして、まどかは不安げに小久保を見上げた。その柔らかな頬に、小久保は手を伸ばして指先だけで触れた。やんわりと、だが顔を背けられないように。
「S女の推薦入試、受けるのか」
 前髪が触れそうな距離で、まっすぐに互いを見つめた。まどかの視線が一瞬逸らされ、けれどすぐに小久保の目を見返した。
「――俺に黙って決めたのは、なんで?」
「……今日話すつもりだった、本当に。
 相談しなかったのは、しーちゃんに話したら、決心が揺らぎそうだったから」
 話す前から反対されると思っていたのか――小久保の中で、これ以上話す気が失せた。
 まどかから離れてカバンを肩にかけた。無言で教室を出ようとしたら、まどかが小さな声で小久保を呼んだ。彼女は気が強くて滅多に泣かない。なのに、声がもう涙まじりで。
 彼女に優しくしたいという思いよりも、泣けば許されると思うな、という冷ややかな怒りの方が勝って、小久保はそんな自分に驚いた。
 まどかを鬱陶しく思ったのは、初めてだった。
 彼は振り返らないまま教室を出ると、階段を上って、途中にある踊り場で足を止めた。どうにもバスケットをする気分ではなく、このまま帰るか、後輩との約束通りに体育館へ行くか迷っていた。まどかがすぐに追いかけてくるかもしれないと、ほんの少しだけ考えていた。もし追いかけてきたとしても、まさか上り階段にいるとは思わないだろうから、見つかることはないだろう。
 すると、人気のない校舎に小さな足音が響いた。しかも階段を駆け上ってくる。
 小久保は思わず背中を起して、まどかの涙と対峙する覚悟をした――のだが。
「……わっ!」
 階段の途中で驚いて足を止めたのは、後輩の加藤瑠衣だった。口を開こうとした彼女に、小久保は唇の前に人差し指を立てて、しー、と囁いた。瑠衣は慌てて口元を引き結び、きょろきょろと視線をさまよわせて、踊り場まで上ってくる。
「――まどか先輩を、待ってるんですか?」
 まっすぐな目で問われて、小久保はゆるく首を振った。何も言わない小久保に、瑠衣は困ったように眉を下げる。まどかが可愛がっている女子バレー部の後輩は、面白いくらい感情が表情に出るのだ。
(まどかも、これぐらいわかりやすければ良かったのに)
 ぺこりと頭を下げて去っていく瑠衣を見送って、小久保は静かにその場に佇んだ。教室からは物音一つしない。
 きっと、ひとりで泣いている。



 普通なら、こうしてケンカした場合、冬休みの間にお互い頭を冷やすなり、考えをまとめるなりするのだろう。が、あいにく二人の家族はとても仲が良く、クリスマスイヴに小久保の家でパーティをするのが恒例になっていた。もちろん小久保一人が出かけることは許されない。ツリーの飾りつけ、料理の用意、ケーキの受取りと、やることはたくさんある。
 日が暮れた頃、両家が集まって賑やかに食事をした。大人たちの話は尽きなかった。
小久保はまどかと居るのが気まずく、空腹を満たすと早々に自分の部屋に戻った。一度兄が呼びに来たが、「頭が痛い」と明らかな仮病を使うと、苦笑して戻って行った。互いの余所余所しい態度で、ケンカしていることはバレているのだろう。その日はそのまま眠ってしまった。
 部活がなくなると休日の過ごし方は怠惰になった。両親が仕事に出て、兄がバイトに向かうので、昼間の小久保は基本的に一人だった。昼夜逆転するようなことはないが、たまに友人と遊ぶ以外、ほとんど自室で過ごした。読書と勉強、合間にゲームを少しして、夕方ランニングに出る。
 バスケットに費やしていた時間が長すぎて、自由な時間を持て余していた。
 あと三日で今年も終わる。そう思いながら来年のカレンダーを壁にかけていた小久保は、インターフォンの音に首を傾げた。この音色は、玄関側ではなく裏口の方だ。
 コンクリートの階段を上がってドアを開けると、緊張した面持ちのまどかが立っていた。

 折りたたみの小さなテーブルの上で、マグカップから湯気があがっていた。まどかの好きな砂糖入りのカフェオレ。それを一口飲んで、彼女はほっと息を吐いた。
「……話が、したくて。薫君から、しーちゃんがお正月のスキーに行かないって聞いて、それで来たの」
 小久保家は毎年、正月にスキー旅行に行く。その恒例行事に、三年前からまどかも参加していた。
「私と一緒だから、行くのやめたんでしょう? 薫君、バイト増やすから再来年は行けないかもって言ってた。みんな揃ってのお正月の旅行は、今年で最後かもしれないよ。
私と会いたくないのなら、私が行くのをやめる。だから、しーちゃんは」
 そこで顔を上げたまどかは、はじめて小久保と目を合わせ、思わず言葉を飲み込んだ。小久保はあまりにもまっすぐにまどかを見ていた――冷やかな眼差しで。
「二日に大輝たちとバスケするんだ、今の二年のレギュラーもほとんど来る。だからスキーには行かない。
 まどかのせいじゃない」
 それきり黙りこくった小久保の周囲の空気が、ピリピリと張り詰めていた。まどかは顔を伏せたが、刺すような視線を感じた。いつまでここにいる気だと、咎められている気がした。
「……まだ、怒ってる?」
 おずおずと口にした彼女に、小久保は軽く目を見開いた。
(そうか、まどかにとって、これはただのケンカなんだ。いままでの小さな仲違いと一緒で、反省して俺に謝ったら元通りになると思ってるのか)
 小久保が決定的な失望を感じた出来事は、彼女にとって大したことではなかったのか。
「怒ってないよ――今更、どうでもいい。
 俺はもう、まどかを信用できない。これまでみたいにつきあう気は無い。友達としても、無理だ」
 無慈悲なほどに言い切ると、まどかはキョトンとして、数回瞬きをした。
「え、嘘」
その溜息みたいなつぶやきに、小久保は何も言わなかった。
はっきり言わなければわからない、いつまでも甘えたままの彼女。その瞳に見る間に盛り上がった涙が、白いニットカーディガンの胸元に落ちていく。
 泣いてるまどかを見ても心が痛まない自分に、ああ本当に恋心と言うのは急に冷めるものなんだと、奇妙に納得していた。
 


12.12.30

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