低空飛行
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 胸張って誇れるものなんてひとつもない
 それでも 今日も僕はちゃんと生きてる



 コンビニにおでんを買いに行った。
 いつもこの時間バイトに入っている高校生は、淡々とバーコードを読み取っていく。考えてみれば変な話だ。二日に一度はこうして顔を合わせているのに、僕と彼女は互いの名前も知らず、『店員と客』以外の会話を交わしたこともない。名札に目をやれば、にこりと微笑んでいる写真。しかし、この店員は僕の前でこんな表情を見せたことがない。なんというか、僕は違う生き物のように対応されている。同じ言葉を話しているのに、永遠に意思の疎通はできそうにない。
 ナイロン袋を下げてコンビニから出た。光に溢れた箱型の建物から遠ざかると、足元さえ見えないような闇がそこかしこに見えた。もっとも僕は街灯のある通りを歩いているので、石に躓いて無様に転ぶようなことはない。

 マンションのすぐ近くにある公園へ足を向けた。赤い滑り台の裏でしばらく立っていると、植え込みの影からするりと二匹の猫が出てきた。警戒して少し離れたところで、二匹は止まった。
 僕は慣れた手付きで、こいつら用に買っておいたちくわを袋から出した。真ん中からちぎって、歩道のコンクリートの上に置く。今日は特別に猫缶も持ってきた。肉まんが入っていたナイロン袋を地面に敷いて、その上に中身を出した。真冬の夜とあって、それは食べ物と思えないほど冷えていた。
 その状態で、滑り台の昇り口に腰を下ろした。鉄でできたそれは冷たくて、一気に尻が冷えていく。そのまま、肉まんを齧った。遠巻きにしていた猫が、そろそろと僕を伺いながら近づいて、ちくわを嗅ぐ。フレークも嗅ぐ。二匹そろって、ガツガツと食べ始めた。
 猫は食べ方が汚い。獲物を振り回しながら食べる習性があるかららしい。ちくわも勢いよく引きちぎって食べている。先に食べ終わった方は、足りないらしく、もう一匹の獲物を狙っては、フーッ! と威嚇されていた。
「兄弟のクセに、仲良く食えないのか、お前らは」
 微笑ましくて、笑ってしまった。
 肉まんを食べ終わって、おでんの容器を膝に置いた。大根を一気に半分ほど齧る。もう、少し温くなっていた。食事を終えた猫たちは、僕と十分に距離を置いたところで、足の裏を舐めていた。膝に抱き上げたら暖かいのだろうな、と想像する。僕はつい三ヶ月前まで、猫と暮らしていた。あの毛並みを撫でながらうたた寝するのが好きだった。
 今年生まれた猫だろう。目の前の二匹は、そこらの野良より一回り小さい。
 二日に一度くらいのペースで、こうして夜食を一緒に食っている。この二匹の存在を教えてくれたのは、前の彼女だった。冬になったらあの子たち死んじゃうんじゃないかな。心配そうに、そう話していた。しかし、猫の生命力は強い。元々外で生きていく生物なのだ。毛皮を持っている獣。家の中で安穏とおもちゃで遊んでいる猫の方が歪んでいるのだけれど、彼女はそれが当然だと思っていたらしい。
 野良猫はかしこい。よほどの子猫でない限り、ちゃんとあたたかな寝床を見つけている。近所のおばあちゃんちとか、神社の床下の風が入らないところとか、公園の植木の中とか。そして、自由だ。簡単に人に懐かない、警戒を解かない。
 僕はこの二匹の猫に、触れようとしたことはなかった。最初こそ、何度か手をさしだして舌を鳴らして呼んでみたが、ますます警戒されるだけだった。そりゃそうだ、僕はただすれ違っただけの人間に過ぎない。

 猫は上手に僕と距離をとる。近づけば逃げるし、僕が離れれば少しだけ近づいてくる。猫相手ならこんなに明確にわかることなのに、どうして僕は彼女に対してラインを踏み越えてしまったのだろう。甘えすぎた。



 三ヶ月前に、飼い猫が死んだ。まだ二年も生きていなかった。
 その猫を拾ったのは、二年前の冬だった。出張帰りに栄養剤を買いに、会社近くのコンビニに寄った。出てすぐに眠気覚ましのつもりで、薬臭い液体を喉に流し込んだ。前日徹夜だった体には気休めだったが、飲まないよりマシだと思った。そして、コンビニのゴミ箱にビンを捨てたとき、か細い猫の鳴き声がしたのだ。驚いたことに、そのゴミ箱の中から。
 僕はゴミ箱の中に手を突っ込んだ。半分も溜まってないゴミの中で、変に生暖かいものが触れた。ガサゴサと動くナイロン袋。掴んで蛍光灯の明かりの中で見ると、まだ目が開いて間もないと思われる子猫が二匹、小さな声を出していた。
 僕はもう一度コンビニに入った。レジに立っていた店員に、それを見せた。
「外のゴミ箱に、猫が捨てられてました。持って帰っていいですか」
 店員は驚いて何も言わなかった。マニュアルにないことに対応できないのだろうと僕は思った。店長らしき人が奥から出てきたので、同じことを言って承諾をもらい、猫を連れ帰ってきた。店側としても、そんなもの対処に困るだけだろうから、僕の申し出は都合が良かったに違いない。
 急いでいたので、タクシーで帰った。ホームセンターで子猫用のミルクとスポイトを買って、ウサギ小屋のように狭いワンルームの我が家に着いたとき、マフラーで包んでいたナイロン袋はあまり動かなくなっていた。鳴き声もしない。
 あわててヒーターをつけた。コートも脱がずに、ナイロン袋から猫を出した。一匹はもう鳴かなかった。目を閉じて口を薄く開いたまま、死んでいた。さっきまで生きていたものが僕の手の中で息絶えたのだと考えたら、不意に涙が浮かんできたけれど、もう一匹がよろよろと歩き出そうとしていたので、それどころではなかった。
 二年くらい着ている古いフリースのトレーナーをはさみで切って、毛布の代わりにした。寒そうにぶるぶる震える小さな猫を、それで包んで手のひらで抱いた。手のひらに全身が載るほど小さいのだ。スポイトであたためた猫用のミルクを与えると、ほんの少しだけ舐めた。

 次の日、僕は風邪をひいたことにして会社を休んだ。その頃の僕の多忙ぶりを知っていた上司は「最近無理させてたからな、よく休め」と快く言ってくれた。
 電話帳で動物病院を調べて、子猫を連れて行った。昔猫を飼ってはいたけれど、こんなに小さな猫の育て方はわからなかったのだ。ある程度の大きさになるまで、親猫が見せてくれなかった。僕ら人間に見つかると、子猫の首の後ろを咥えて育て場所を移してしまうのだから。
 病院でいろいろな話を聞いて、猫を飼うための必要最小限のものを買って帰った。子猫は昨夜のぐったりした様子が嘘のように、ミルクを飲んですやすや眠っていた。呼吸するたびに、小さなお腹がちゃんと上下する。見ているとこっちまで穏やかに気持ちになった。茶色くてトラのような縞模様があって、目は綺麗な金色だった。病院でオスだということが判明したので、キスケという名前にした。

 数日後、キスケを拾ったコンビニに夜食を買いに行った。残業中でも腹は減る。ついでにキスケの餌も買っておこうとレジに持っていったら、いつものように商品と値段を読み上げた後、店員が声をひそめた。
「あの、この前の子猫、どうなったんですか。元気……ですか?」
 おずおずと問いかけられて、そこで初めて店員の顔を見た。背が低くて化粧けのない童顔のその女の子は、あの日レジにいた店員だった。
「うん、一匹は死んじゃったけど、もう一匹は元気に生きてる」
 千円札を出して言うと、店員はほっとしたように微笑んだ。
 それから僕はそのコンビニに通うようになり、一ヵ月後には彼女は僕の家に遊びに来ていた。要は、そういうことだ。男女の出会いなど、どこに転がっているかわからない。

 キスケは賢い猫だった。人の言葉がわかるんじゃないかと疑うほど。
 いたずらでも何でも、一度怒られると、ちゃんと理解した。排泄も、ツメ研ぎをしてもいい場所といけない場所も、登っていい場所もすぐに覚えた。しかし、いくら怒っても、僕の体に上ることだけはやめなかった。スウェットのズボンやトレーナーにちょいっと爪をひっかけて、すぐに肩に載る。なーぅ、と甘えた声で鳴いて、すりすりと頭をこすりつけてくる。
 猫がいる生活には、すぐ慣れた。むしろ嬉しかった。平日へろへろに疲れて深夜に帰宅しても、キスケが玄関口でちょこんと座って出迎えてくれる。彼女が休みの日は、猫と彼女が出迎えてくれた。疲れがふっとぶというと大げさだが、自分の部屋に戻ると、仕事を忘れることはできた。ものすごく幸せな日々だった。



 別れは突然だった。
 いつものように、仕事で遅くなってしまった。自宅のドアを開けると、いつも出迎えてくれるはずのキスケがいなかった。不思議に思いつつも、キスケーと一応呼びながら靴を脱いだ。灯りをつけると、ベッドの上にキスケが丸まっていた。ああ、よく寝てるんだなと思い、僕はスーツを脱いで、楽な部屋着に着替えた。コーヒーをいれようとヤカンを火にかけた。そこで改めて不審に思った。いくらなんでも、これだけ僕が動いていたら、キスケは起きるはずだ。餌をくれとうるさいくらいに足にまとわりついてくるはず。
 そこで悪い予感は確信に変わった。ベッドに腰掛けてキスケに触れた。予想通り、もう冷たかった。
 見た目は眠っているのと変わりない。まだ体は柔らかかった。
「キスケ……」
 いつもしてやるように、鼻筋を指で撫でてやった。もう反応はないのに。
 ぎゅうと抱きしめた。僕の腕の中で、キスケはどんどん硬くなっていった。
 ひとりぼっちで死なせてごめんな、と謝った。それは家族を失う辛さだった。僕は大人になってこんなに涙が出たことはないというほど、泣いた。

 亡骸は火葬にした。今の時代、土に還ることも許されないらしい。勝手に川原や公園に埋めてはいけないのだという。野良犬が掘り返すとか、理由はいろいろ。キスケの骨は、小さな箱に入れて押入れにしまった。寺に預けたり散骨したりするのは、嫌だった。手放したくなかったというのが本音だった。
 僕は、キスケが死んでから気持ちが沈みきってしまった。ペットロス症候群とでもいうのか。仕事中はいい。自宅にいるときがダメだった。そこここに思い出がしみついてしまって、キスケがいない景色が不自然で気が滅入った。彼女とも会いたくなかった。僕の中で、彼女のつきあいとキスケとの生活は平行して進んでいったことなので、彼女と会うといやでもキスケのことばかりを考えてしまうのだ。
 彼女はいろいろと僕を慰めようとした。引っ越してみたら、新しい猫を飼ってみたら、どこか海外に旅行にいってみない? 僕はことごとく断った。彼女は離れていった。寂しいのは私だって一緒だと、最後に会ったとき泣いていた。



 別れてしばらく経った今になって、彼女がどれだけ優しい女だったか思い知る。
 僕は面倒な男だったと思う。キスケを失ったのだから、それを知っている彼女が僕に優しくするのは当然だと思っていた。驕っていた。まったく何様だ、僕は。誰かの力で立ち直ろうなどというのは、甘え以外の何物でもなかった。
 他人の力で幸せになろうとすると、結果的に不幸になる。自分の力で立てないヤツに寄りかかられる方はたまったものじゃない。ましてやそれを当然と思っていては、荷は重くなるばかりなのに。

 そろそろ日付が変わりそうだった。猫は二匹とも、尻尾を振って植え込みに姿を消した。僕も冷たくなった尻を払って、立ち上がった。
 クリスマスだろうが正月だろうが、所詮たかが一日のことだ。出会いも別れも急にやってくる。
 僕はビールとゴミの入ったコンビニのナイロン袋を手に、公園を横切った。昨日も彼女は会社近くのコンビニでレジに立っていた。僕が猫缶を買うので、不思議そうに視線で尋ねてきた。僕は笑顔でごまかして何も言わなかった。
 店を出るとき、彼女が小さな声で「メリークリスマス」と言った。振り返ると、小さく笑っていた。
 まだ平気で話すところまで時間は経っていない。ぎこちなく、探るように相手に声を掛けることしかできない。
 メリークリスマス。僕は心の中で彼女につぶやいた。クリスマスイブに仕事をしていた、働き者の優しい人。また猫缶を買いに行ってみよう。彼女が気にかけていた公園の二匹の猫の話を、少しだけしてみよう。
 凍てついた星の下を、ナイロン袋をがさがさ言わせながら歩いた。つま先まで冷え切って、痛いほどだった。僕は一人家路を歩く。心の中には、いなくなってしまった猫を撫でる彼女の姿が浮かんでいた。


(低空飛行/END)
06.12.25

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