千の言葉より
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 鼻に届いたバラの香りで、紅茶を飲みかけにしていたことを思い出した。透明なティーカップの中で、鮮やかな赤紫色のローズティーは冷めかけていた。
(ああ、あのバカのせいで、美味しい紅茶も台無しだ)
 彼女はそれでも、冷めた紅茶を一口すすった。ぬるくても、このささくれだった感情を撫でてくれるならそれでいい。書きかけのメールを前に溜息をついた。小さな文字の羅列に踊らされるのは、もううんざりだ。

 互いに多忙だから、一番よく使う連絡手段はパソコンのEメールだった。会いに行く為にはパスポートが必要な距離でも、その手紙は瞬時に相手に届く。口には出せないような言葉だって書けてしまう。恥じらいも大胆さも含んだ恋文は、送った翌日に後悔することもしばしばで、全くどうして自分はこんなに滑稽なのかとうずくまりたくなる。
 送信済みフォルダを開いた。何度見ても、件のメールは三日前の深夜に相手に届いている。届いたはずなのに返事はなく、電話もなく、ノーリアクション。多忙なあまり読んでないのか、返事を寄こす気がないのか、端から無視すると決めたのか―――いずれにしろ、腹立たしい。

 会いたい。
 たった一言の、けれど切実な、手紙。

 もう窓の外は、うっすらと明るくなっていた。夜が明ける。
「でも、わかる。自分の気持ちを伝えるより、相手の気持ちを確かめる方が怖いよな」
 つきあいはじめたばかりの頃、彼が口にした言葉を思い出した。
 出会ってから何年たったのか。時間と絆は無関係だと頭ではわかっているのに、つきあいの長さにどこか頼っている自分がいて、それもまたイヤだった。一人で平気だというのは、遠距離恋愛になったときの本音だったが、半分は強がりでもあった。明け方見た夢で、彼女はそれを自覚した。
(なんで遠くに行っちゃったの、側にいなくて平気なの、どうして一緒に来いって言ってくれなかったの!? なんで仕事やめてくれないのよ!!)
 夢の中であまりにも言いたいことを投げつけていた自分思い出して、ぞっとした。行けないと言ったのは自分、仕事をやめたくないし、結婚も考えてない。離れても私たちなら大丈夫だよ。なにがだ、どこがだ!
 明かりが浩々とついたままの部屋で、眠る前と同じようにパソコンの画面は光を放っていた。彼女が顔を伏せていたパソコンデスクの上で、白く、チカチカと揺れながら。彼女は改めて、そこに目を向けた。

 ―――元気ですか。こちらは最近、毎日雨が降ります。

 夜おちついてから書いたメールは、最初こそ穏やかなのに、途中からは彼に対する不満や文句の羅列に替わり、文体すら変わっていて、呆れるあまり笑いそうになった。
 これは夢の中の自分だ。自分勝手で利己的で、相手の気持ちも考えずに敵意を持って相手に言葉を投げる。寝起きの頭でもわかるぐらいに、それは醜いことだ。
 二行目から後ろのすべて削除して、もう一度キーボードの上に手を置いた。寝癖のついた前髪がうっとおしい。きゅっとピンで留めて、視線を落としたときに、もう一度夢の中で見たものを思い出してしまった。
 ―――夢の中だとわかっていながら、彼に会えたことを嬉しく思ってしまった。

 何を伝えたいのだろう。愚痴や文句を言いたいわけじゃない。私にとってあなたがどれだけ大切か、いつも心の中で存在を感じていること、不意に寂しくなること、思い出に癒されて笑顔になれること、支えにもなり弱みにもなること、そういうことをなんとかして言葉にしたいのに。頭の中で彼を思い浮かべると、言いたかったことの輪郭がぼやけて、どれだけ言葉をつくしてもこの気持ちをそのまま伝えることなど不可能だと思えた。
 彼女はしばらく考え込んでいたが、それ以外何も思い浮かばないようで、ブラウザソフトをたちあげた。自宅にいながら何でも予約できてしまうのは、インターネットのおかげだ。カタカタとキーボードを叩く音だけが部屋に響いた。
 そこからの彼女の行動は早かった。シャワーをあびて髪を整え、化粧をする。パソコンには、航空会社からの予約完了メールが届いていた。自分の携帯に転送して、手早く荷造りを済ませた。まだ髪の先は乾いていない。そのまま部屋の鍵を閉める。

 階段をおりてタクシーの中で、もう一度携帯電話を手にした。彼のアドレスを呼び出す。
「今から会いにいく」
 時には衝動にまかせてみよう。どうしたって、会わなきゃ伝わらないこともある。
 彼女は送信ボタンを押して、窓の外を見上げた。明け方の金色の空は、どこまでも続いている。


(千の言葉より/END)
07.01.11


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