水 際 (後編)
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
「それで、ここを離れられないのですか――」 「笑うかね」 祖父は海の彼方を見ながら言ったが、僕には笑えなかった。無理強いはできまい。だが、彼を見捨てるような真似はできない。 「……わかりました。無理に僕たちと暮らせ、とは言いません。ただ、式には出ていただきたいんです。よろしいですか」 「喜んで出席させてもらおう」 僕は安堵した。 翌日の早朝、老人は、一人朝焼けの海を眺めていた。 彼は馬鹿ではない。孫が式の後、この家に返してくれないだろうことは予想がついた。この年で一人で暮らせると思っているわけではないが、要はここを離れるのが嫌なのだ。佇んでいると、背後で靴音がした。 振り返り、息を飲む。 真っ白なワンピースに身を包んだ少女が、そこにいた。肩にかけただけのカーディガンに、長い黒髪が、ふっさりと落ちて――。 ああ、なんて。 「あ、あなたは――」 少女は首を傾げて微笑んだ。 「ここは、あなたの所有地なのですか」 想像していたよりも落ち着いた声。見た目より年齢は高いのかもしれない。食い入るように少女を見つめて、老人は小さく頷く。 「ああ、そうだが――」 「お隣で海を見ても?」 「構わないが――」 少女はもう一度微笑んで背を向けた。小走りに駆け出そうとしたところに、老人は声を掛ける。 「き、君――名前は」 少女は髪を翻し、ふわりと跳ねて振り返った。 「高峯」 高峯と名乗った少女を見送り、老人は再び海に目をやった。そして彼女の去った方向を今一度眺め、また海を見やった。 波音が心をかき乱す。 あれは、幻だろうか。過去の話に、希望に満ちた空想が現となって目の前に――。 気配を感じ、三度老人は振り向く。 遠く木立の間から、こちらへ向かってくるのは、先程の娘と、草色のサマードレスを着た老齢の婦人。ゆっくりとした足取りで、彼女たちは老人の傍らにたどり着いた。 老人は動かなかった。 「不思議ね、あなたを見下ろすなんて――高峯」 ふんわりと、穏やかな笑みを浮かべた婦人は、間違いなくトモエだった。 「お嬢様――」 「お嬢様、なんて、懐かしいわ」 あなたは、死んだと。 「あなたは死んだのだとばかり、思っていたわ」 それはこちらの台詞ではないのか。 「声を聞かせては下さらないの?」 悪戯っぽい瞳に、老人は不意に涙しそうになった。かさかさになった唇を動かして、声を絞り出す。 「旦那様は――」 「お父様は、戦時中に亡くなられたわ。母様も、病気で――。ここにあった家も、結局人出に渡ってしまって、あなたを待てなかった。 でも、何よりも辛かったのは、あなたの戦死報告を受け取ったことね」 戦死報告――混乱のうちに、間違いが多々あったとはよく聞く。しかし、なぜ、 「なぜ、お嬢様に私の戦死が知らされたのです」 「なぜ? 私、あなたの妻になったのよ、高峯」 それは、どういうことなのだ。 「私、どうしてもあなたと離れるのが嫌で、弁護士に頼んで婚姻届けを詐称したの。あなたがここを出ていく前日から、私たちは書面の上で、夫婦になったのよ。でもね、私、ずうっとあなたのことを『高峯』って呼んでいたでしょう、本当の名字を知らなかったの。婚姻届けに名前を書くとき、初めて知ったわ。あなたの本名って――」 「私は高峯です。今までも、これからも」 「……そうね。 ずっと以前、ここに来たら、プライベートビーチだからと、追い返されたの。それから来ていなかったのだけれど、冬に大きな手術をしてね――どうしても一度、ここに来たかったから、あの子に無理を言って」 「可愛らしい娘さんですね、お嬢様の若い頃に、よく似ていらっしゃいます」 少女はいつの間にか、波打ち際を歩いていた。朝日が逆光になって、その影を美しく浮かび上がらせる。 「本当に、似ていて? 養女なのに?」 私、あなた以外とは結婚しなかったのよ――。 くすくすと笑いながら、トモエは言った。 「……高峯の戦死通知を受け取って、何もかも嫌になって、どこもかしこも焼けてしまった街の真ん中で、ただ泣いていたわ」 ああ、その時、側にいることができていれば――。 「戸籍も何もかも無くなって、お役所の人が改めて戸籍をまとめるからと、名前を聞きに来て――それからずっと、私は『高峯トモエ』なの」 さわさわと潮風が抜けた。記憶とは違い、靡くのは、白髪。それでも老人――高峯は、トモエを美しいと思った。 「お嬢様、変わられませんね。声も、細い指も」 「……あなたも変わらないわ。おじいちゃんになっても、素敵。アラン・ドロンか、高峯かって言われたら、私は高峯と応えるわ。 本当に変わらない――優しい目ね」 車椅子の肘掛けから離れた高峯の手が、ゆっくりとトモエの髪に触れた。頬を撫でる。既にがさがさとした老人の手にも、温かな感触が伝わった。 「あなたの指が大好きだったわ。初めて触れられたときの緊張が、今でも思い出せる」 高峯の皺の刻まれた目尻に、じわりと涙が滲んだ。見返すトモエの目も潤んでいた。 「――やっと会えた、会いたかったの、とても。 これからは、私の側に居て下さらない?」 彼らの晩年が幸福だったことを、ここに記しておく。 (水際/END) 03.06.10 |