水 際  (後編)
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  トモエは十八になっていた。
 彼女が泳いでいるときは、決して近づかなかったプールに、私は足を踏み入れた。
『どうしたの、高峯』
 柔らかな笑顔で迎えた彼女の目は、怯えていた。ああ、知っているのだ。これから自分が一人になるということを。
 もう上がったらいかがです。そう言うと、彼女は素直に従った。用意したバスタオルを後ろからそっと掛ける。
 ――体が冷え切っていますね。
 指先にひやりとした皮膚の感触。
『高峯の手は、優しいから好きよ』      
 彼女は、うっとりとして、目を閉じた。腕から肩、白い肌を流れる水滴を、ゆっくりとふき取っていった。タオルをその肩に羽織らせ、首筋に手を伸ばすと、彼女は目を閉じたまま、私の胸に顔を埋めた。
『行くの』
 はい、とだけ応えた。
『父様の事業はもうダメね。この家も、売り払うことになるでしょう。でも、ここに帰ってきて。この戦争が終わったら、ここに来て。私は待っているから』
 そのときは、ずっと側にいてくれるでしょう――?
 真摯な眼差し、頼るでもなく、すがりつくでもなく、信じている瞳。
 その目を間近で見て、私は思った。何を怖がっていたのだ、ただ彼女の愛情に応えてやればよかったのに。たとえこうして別れる事態があったとしても、ああして逃げ続けるよりはずっとよかったに違いない。
 
 彼女と別れ、戦地に赴いて、自分自身驚いた。
 私は長らくトモエと二人だけで暮らしているうちに、まったく世情に疎い穏やかな人格になっていた。彼女の世界に、常に私が居たように、私の世界もまた、彼女が握っていたのだということに、ようやく気づいた。
 二年後、復員した私は、風の便りに彼女の一家が疎開先で亡くなったことを知り、それでも何かに漬かれたように、記憶にある家を求めた。しかし、それも空襲でなくなっていた。
 しばらくして……既に亡くなった妻に会い、幸せな家庭を築き、年を取って一人になったとき、ふと、あの頃を思い出した。だから、トモエと暮らした屋敷の跡地に、今の別荘を建てたのだ。
 自己満足だということはわかっていたけれど。

 水際に立つと、いつも思い出す。あのときの彼女の指の白さ、冷たさ、悪戯に輝く瞳、そして濡れた唇を。



「それで、ここを離れられないのですか――」
「笑うかね」
 祖父は海の彼方を見ながら言ったが、僕には笑えなかった。無理強いはできまい。だが、彼を見捨てるような真似はできない。
「……わかりました。無理に僕たちと暮らせ、とは言いません。ただ、式には出ていただきたいんです。よろしいですか」
「喜んで出席させてもらおう」
 僕は安堵した。



 翌日の早朝、老人は、一人朝焼けの海を眺めていた。
 彼は馬鹿ではない。孫が式の後、この家に返してくれないだろうことは予想がついた。この年で一人で暮らせると思っているわけではないが、要はここを離れるのが嫌なのだ。佇んでいると、背後で靴音がした。
 振り返り、息を飲む。
 真っ白なワンピースに身を包んだ少女が、そこにいた。肩にかけただけのカーディガンに、長い黒髪が、ふっさりと落ちて――。
ああ、なんて。
「あ、あなたは――」
 少女は首を傾げて微笑んだ。
「ここは、あなたの所有地なのですか」
 想像していたよりも落ち着いた声。見た目より年齢は高いのかもしれない。食い入るように少女を見つめて、老人は小さく頷く。
「ああ、そうだが――」
「お隣で海を見ても?」
「構わないが――」
 少女はもう一度微笑んで背を向けた。小走りに駆け出そうとしたところに、老人は声を掛ける。
「き、君――名前は」
 少女は髪を翻し、ふわりと跳ねて振り返った。
「高峯」

 高峯と名乗った少女を見送り、老人は再び海に目をやった。そして彼女の去った方向を今一度眺め、また海を見やった。
 波音が心をかき乱す。
 あれは、幻だろうか。過去の話に、希望に満ちた空想が現となって目の前に――。
 気配を感じ、三度老人は振り向く。
 遠く木立の間から、こちらへ向かってくるのは、先程の娘と、草色のサマードレスを着た老齢の婦人。ゆっくりとした足取りで、彼女たちは老人の傍らにたどり着いた。
 老人は動かなかった。
「不思議ね、あなたを見下ろすなんて――高峯」
 ふんわりと、穏やかな笑みを浮かべた婦人は、間違いなくトモエだった。
「お嬢様――」
「お嬢様、なんて、懐かしいわ」
 あなたは、死んだと。
「あなたは死んだのだとばかり、思っていたわ」
 それはこちらの台詞ではないのか。
「声を聞かせては下さらないの?」
 悪戯っぽい瞳に、老人は不意に涙しそうになった。かさかさになった唇を動かして、声を絞り出す。
「旦那様は――」
「お父様は、戦時中に亡くなられたわ。母様も、病気で――。ここにあった家も、結局人出に渡ってしまって、あなたを待てなかった。
 でも、何よりも辛かったのは、あなたの戦死報告を受け取ったことね」
 戦死報告――混乱のうちに、間違いが多々あったとはよく聞く。しかし、なぜ、
「なぜ、お嬢様に私の戦死が知らされたのです」
「なぜ? 私、あなたの妻になったのよ、高峯」
 それは、どういうことなのだ。
「私、どうしてもあなたと離れるのが嫌で、弁護士に頼んで婚姻届けを詐称したの。あなたがここを出ていく前日から、私たちは書面の上で、夫婦になったのよ。でもね、私、ずうっとあなたのことを『高峯』って呼んでいたでしょう、本当の名字を知らなかったの。婚姻届けに名前を書くとき、初めて知ったわ。あなたの本名って――」
「私は高峯です。今までも、これからも」
「……そうね。
 ずっと以前、ここに来たら、プライベートビーチだからと、追い返されたの。それから来ていなかったのだけれど、冬に大きな手術をしてね――どうしても一度、ここに来たかったから、あの子に無理を言って」
「可愛らしい娘さんですね、お嬢様の若い頃に、よく似ていらっしゃいます」
 少女はいつの間にか、波打ち際を歩いていた。朝日が逆光になって、その影を美しく浮かび上がらせる。
「本当に、似ていて? 養女なのに?」
 私、あなた以外とは結婚しなかったのよ――。
 くすくすと笑いながら、トモエは言った。
「……高峯の戦死通知を受け取って、何もかも嫌になって、どこもかしこも焼けてしまった街の真ん中で、ただ泣いていたわ」
 ああ、その時、側にいることができていれば――。
「戸籍も何もかも無くなって、お役所の人が改めて戸籍をまとめるからと、名前を聞きに来て――それからずっと、私は『高峯トモエ』なの」
 さわさわと潮風が抜けた。記憶とは違い、靡くのは、白髪。それでも老人――高峯は、トモエを美しいと思った。
「お嬢様、変わられませんね。声も、細い指も」
「……あなたも変わらないわ。おじいちゃんになっても、素敵。アラン・ドロンか、高峯かって言われたら、私は高峯と応えるわ。
 本当に変わらない――優しい目ね」
 車椅子の肘掛けから離れた高峯の手が、ゆっくりとトモエの髪に触れた。頬を撫でる。既にがさがさとした老人の手にも、温かな感触が伝わった。
「あなたの指が大好きだったわ。初めて触れられたときの緊張が、今でも思い出せる」
 高峯の皺の刻まれた目尻に、じわりと涙が滲んだ。見返すトモエの目も潤んでいた。
「――やっと会えた、会いたかったの、とても。
 これからは、私の側に居て下さらない?」

 彼らの晩年が幸福だったことを、ここに記しておく。 



(水際/END)
03.06.10

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