水 際  (前編)
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 祖父に会うのは、六年ぶりだった。
 彼は僕を見て、ほんの少し目を細めた。笑ったのかもしれなかった。僕の身長と比例するように彼は小さくなっていて、見下ろすと、背中が曲がっているのがよくわかった。海の近くの別荘で、彼は一人暮らしをしていた。
 お手伝いは寡黙でよく気の付く女性――すなわち僕の妻になる女が勤めていた。
 彼と話さなくてはならないことがあった。
 車椅子の生活をせねばならない老齢の彼を、一人にはできない。どう切り出そうかと迷っていた僕に、
「しばらく泊まっていきなさい」
 よく通る声で、彼は静かに言った。逆らうことのできない声だった。

 潮騒が耳につく。
「おはようございます」
 既に起きていた祖父にあいさつをすると、他人行儀だな、と言われた。続いて、散歩に行かないか、と。
 誘われるままに、彼に付いて行った。
「ずっとここで住まわれるんですか」
 小さくなった背中を見つめて言った。不思議だった。幼い頃、ひどく大きく感じた背中が、こんな風に変化するとは。思い出してみれば、スーツを着こなした祖父は、憧れの対象になるほど稟としていた。
「ここを離れる気は」
「毛頭、ない」
 きっぱりと言われてしまった。九十歳を越えたとは思わせない声だ。
「海が好きでな。・・・いや、海というより」
 水、か―――。
 明け方の海は凪いでいて、美しかった。僕は祖父の傍らに立って、一緒に海を見た。
「若い頃、執事をしていた」
 彼は、ゆっくりと語り始めた。


 
 仕えた家には、十六になる娘がいた。
『あなた、背が高いからスーツが似合うわ。素敵ね。私の世話係をして下さらない?』
 まだ戦争の兆しもなかったその頃、大家の愛娘である彼女は、世界は手中にあると信じて疑わなかった。名は、トモエ。絹糸のような黒髪を惜しげもなくなびかせ、十五も年の離れた私を側仕えと定めた。
 彼女の両親は、仕事が忙しく家にいることはほとんどなかった。年の離れた兄は既に他社を任され、姉は嫁いでいて、家の中では彼女が王者だった。
 それとて、まだ十六の少女である。淋しいこともあったのだろう。他人に当たるような我が儘を言うのは、決まって両親が家を後にする日だった。
『あたし、あたしに何をしろっていうのかしら。いっつも一人で、周りは大人ばっかりで、女学校に行っても、先生は厳しいばっかり。こんな風に高峯の前で水着になってるのを知ったら、耳につく声で悲鳴を上げるやもしれないわ』
 高峯―――彼女は、私のことをそう呼んだ。彼女に付けられた名だった。
 常に側に居た私は、当然のごとく彼女の信頼を得、彼女はどこに行くにも、何をするにも、私を側に置くようになった。さすがに『一緒に寝て』という申し出は断ったが。
 いつだったか――いつも通り、彼女は庭にあるプールで泳いでいた。快活な少女だったので特に心配もなく、タオルを準備しながら建物の窓から泳ぐ姿を眺めていた。すると、いつの間にか、その姿が見えなくなった。ほんの一瞬のうちに何かあったのではあるまいか。私は、そう思い、息を切らせて駆けつけた。
 と――プールの際に立った私の足に、するりと白い指が絡みついた。ぎょっとして目を向ければ、生き物のように舞う髪をくぐって、白いすらりとした腕が二本、伸びていた。水に濡れた足場は悪く、彼女の腕に力がこもった刹那、私は水中に引き込まれていた。
 水の中で目を見開いた。薄い水色の水着では隠しきれない、無防備な色香に吸い寄せられ、目をそらすことなどできなかった。服を着たままの私は驚愕も手伝って身動き叶わず、彼女は魚のように自在に体を揺らし、悪戯がかった笑いを浮かべて、私の首に両腕を回した。
 息が続かない。このままでは死んでしまう。
 がぼっ、と気泡を吐き、浮上しようとした。彼女は首にしがみついたままだ。引き離そうと彼女の腰に回した手は、意志に反してそれを引きつけた。
 柔らかい。
 ああ、もう女だ――。
 水面から顔を出すと同時に、トモエは声をたてて笑った。
『驚いた? 私、水の中では強いでしょう』
 無邪気な言葉に、己の邪さを意識して、顔を背けた。乱暴に彼女を引き剥がし、水から出た。
『高峯』
 顔を見る度胸もなかった。
『高峯、怒ったの!?』
 逃げるようにその場を去った。その晩、彼女は泣きながら私の寝室を訪れた。「もう二度としないわ。嫌いにならないで――」そうして私は、彼女が寝入るまで髪を撫でていた。
 
 気づくと視線を感じるようになった。
 彼女の視線だった。目が合うと、嬉しそうに走り寄ってくる。
『高峯ーっ』
 手を振る姿を見る度、彼女の素直な愛情を自覚せずにはいられなかった。絶対の信頼というのか。
『あなただけは、ずっと側に居てくれるわよね』
 そう言われたとき、初めてこのままではいられないことに気づいた。彼女を主と定め、側仕えとして居続けることは、もうできないのだ。
 彼女の言葉に応えられないまま、月日は過ぎた。

 何が怖いのだろう。側仕えでありながら、彼女を慕っている自分が? 年下の少女をたぶらかしているような罪悪感か? 違う、彼女を本気で愛しはじめている自分だ。
 そんなおり、戦争が始まった。始めは他人事だった。そのうち彼女の父親の事業が思わしくなくなった。使用人の数は減り、大きな屋敷には、私とトモエだけが残された。
 そして、私の元に赤紙が届いた――。


03.06.10

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