水 際 (前編)
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
仕えた家には、十六になる娘がいた。 『あなた、背が高いからスーツが似合うわ。素敵ね。私の世話係をして下さらない?』 まだ戦争の兆しもなかったその頃、大家の愛娘である彼女は、世界は手中にあると信じて疑わなかった。名は、トモエ。絹糸のような黒髪を惜しげもなくなびかせ、十五も年の離れた私を側仕えと定めた。 彼女の両親は、仕事が忙しく家にいることはほとんどなかった。年の離れた兄は既に他社を任され、姉は嫁いでいて、家の中では彼女が王者だった。 それとて、まだ十六の少女である。淋しいこともあったのだろう。他人に当たるような我が儘を言うのは、決まって両親が家を後にする日だった。 『あたし、あたしに何をしろっていうのかしら。いっつも一人で、周りは大人ばっかりで、女学校に行っても、先生は厳しいばっかり。こんな風に高峯の前で水着になってるのを知ったら、耳につく声で悲鳴を上げるやもしれないわ』 高峯―――彼女は、私のことをそう呼んだ。彼女に付けられた名だった。 常に側に居た私は、当然のごとく彼女の信頼を得、彼女はどこに行くにも、何をするにも、私を側に置くようになった。さすがに『一緒に寝て』という申し出は断ったが。 いつだったか――いつも通り、彼女は庭にあるプールで泳いでいた。快活な少女だったので特に心配もなく、タオルを準備しながら建物の窓から泳ぐ姿を眺めていた。すると、いつの間にか、その姿が見えなくなった。ほんの一瞬のうちに何かあったのではあるまいか。私は、そう思い、息を切らせて駆けつけた。 と――プールの際に立った私の足に、するりと白い指が絡みついた。ぎょっとして目を向ければ、生き物のように舞う髪をくぐって、白いすらりとした腕が二本、伸びていた。水に濡れた足場は悪く、彼女の腕に力がこもった刹那、私は水中に引き込まれていた。 水の中で目を見開いた。薄い水色の水着では隠しきれない、無防備な色香に吸い寄せられ、目をそらすことなどできなかった。服を着たままの私は驚愕も手伝って身動き叶わず、彼女は魚のように自在に体を揺らし、悪戯がかった笑いを浮かべて、私の首に両腕を回した。 息が続かない。このままでは死んでしまう。 がぼっ、と気泡を吐き、浮上しようとした。彼女は首にしがみついたままだ。引き離そうと彼女の腰に回した手は、意志に反してそれを引きつけた。 柔らかい。 ああ、もう女だ――。 水面から顔を出すと同時に、トモエは声をたてて笑った。 『驚いた? 私、水の中では強いでしょう』 無邪気な言葉に、己の邪さを意識して、顔を背けた。乱暴に彼女を引き剥がし、水から出た。 『高峯』 顔を見る度胸もなかった。 『高峯、怒ったの!?』 逃げるようにその場を去った。その晩、彼女は泣きながら私の寝室を訪れた。「もう二度としないわ。嫌いにならないで――」そうして私は、彼女が寝入るまで髪を撫でていた。 気づくと視線を感じるようになった。 彼女の視線だった。目が合うと、嬉しそうに走り寄ってくる。 『高峯ーっ』 手を振る姿を見る度、彼女の素直な愛情を自覚せずにはいられなかった。絶対の信頼というのか。 『あなただけは、ずっと側に居てくれるわよね』 そう言われたとき、初めてこのままではいられないことに気づいた。彼女を主と定め、側仕えとして居続けることは、もうできないのだ。 彼女の言葉に応えられないまま、月日は過ぎた。 何が怖いのだろう。側仕えでありながら、彼女を慕っている自分が? 年下の少女をたぶらかしているような罪悪感か? 違う、彼女を本気で愛しはじめている自分だ。 そんなおり、戦争が始まった。始めは他人事だった。そのうち彼女の父親の事業が思わしくなくなった。使用人の数は減り、大きな屋敷には、私とトモエだけが残された。 そして、私の元に赤紙が届いた――。 03.06.10 |